最近はいろいろと「変化」を感じる。
その感覚は、「ふるい分け」に似ている。環境も人間関係も全てだ。
そしてそのいろいろな事変を通じて感じたことがある。
「修羅場を経験したこと」が大切なのではなく、
「修羅場に何をしたか、何をすることができたか」が大切なのだ、と。
そして、その時、人がどういう行動をしたか、ということも。
物事が良い方向に見えているとき、多くの人は良い行動をとる。
しかしその歯車が悪い方向に変わったとき、その人間の本性がでる。
人間の二面性や、物事の光と影が顕わになるときだ。
ここ数年で、実感してやっとわかったことがあった。
この世界の軸はいわば地獄である。しかしこの地獄軸から抜け出すために喜怒哀楽の感情があり、それから失敗したり成功したりして学んでゆく。そして最終段階で、喜怒哀楽の頂点、「無」が判るようになるのではないかと思うのだ。
それぞれの他人の立場を、この喜怒哀楽の中で考えてみる。すると不思議なことに全て4種の感情が中和され、いわゆる中庸になるのだ。
この時残るのは「情け」でもあり、「愛」であるのだと感じた。
ここでいう愛とは、好きだのキライだのいっている感情ではなく、全ての人の立場を理解し、個人的な愛情ではなく、「精神的な愛を無償提供できること」なのではないかと思うのだ。
あまり他人や物事の「批判」はしたくない。最近世界情勢から身の回りの些細なことの全てにおいて、いろいろ批判的な思考をしていた。しかし、それは決してネガティブな方向へ向かわせるものではなく、あくまでも「問題提起」である。だが、ブログにいちいちそれを書いていくのは、ちょっとばかり「浅はか」であると感じていたのであえて何も書かなかった。いや、書けなかったという方が正しいかもしれない。
そんなわけで、無い脳みそを絞って考えていたら肺近辺と心臓近辺が痛くなってきたので今日はこれで寝よう。精神と肉体は繋がっている。あとはバランスの問題。
その感覚は、「ふるい分け」に似ている。環境も人間関係も全てだ。
そしてそのいろいろな事変を通じて感じたことがある。
「修羅場を経験したこと」が大切なのではなく、
「修羅場に何をしたか、何をすることができたか」が大切なのだ、と。
そして、その時、人がどういう行動をしたか、ということも。
物事が良い方向に見えているとき、多くの人は良い行動をとる。
しかしその歯車が悪い方向に変わったとき、その人間の本性がでる。
人間の二面性や、物事の光と影が顕わになるときだ。
ここ数年で、実感してやっとわかったことがあった。
この世界の軸はいわば地獄である。しかしこの地獄軸から抜け出すために喜怒哀楽の感情があり、それから失敗したり成功したりして学んでゆく。そして最終段階で、喜怒哀楽の頂点、「無」が判るようになるのではないかと思うのだ。
それぞれの他人の立場を、この喜怒哀楽の中で考えてみる。すると不思議なことに全て4種の感情が中和され、いわゆる中庸になるのだ。
この時残るのは「情け」でもあり、「愛」であるのだと感じた。
ここでいう愛とは、好きだのキライだのいっている感情ではなく、全ての人の立場を理解し、個人的な愛情ではなく、「精神的な愛を無償提供できること」なのではないかと思うのだ。
あまり他人や物事の「批判」はしたくない。最近世界情勢から身の回りの些細なことの全てにおいて、いろいろ批判的な思考をしていた。しかし、それは決してネガティブな方向へ向かわせるものではなく、あくまでも「問題提起」である。だが、ブログにいちいちそれを書いていくのは、ちょっとばかり「浅はか」であると感じていたのであえて何も書かなかった。いや、書けなかったという方が正しいかもしれない。
そんなわけで、無い脳みそを絞って考えていたら肺近辺と心臓近辺が痛くなってきたので今日はこれで寝よう。精神と肉体は繋がっている。あとはバランスの問題。