祖父の眠る硫黄島から戻って一日経ち…
本当に昨日あの景色の中に自分は立っていたのかと、
今、不思議な感覚に襲われています
硫黄島は果てしなく澄んでいて
はじめに「硫黄島戦没者の碑」天山前にて合同追悼式。
(硫黄島慰霊巡拝団:遺族57名+厚生労働省職員7名)沢山の供花・供物で。
遺族代表の追悼の辞は、遺族の心情を余す事無く映し出していて感慨深いものがありました。
追悼式が終わると、それぞれの道標を巡ります。
この道標は幾つも島内にあり、生存者や各情報をもとに、各部隊があったろうと思われる個所を示したものです。祖父の部隊があったであろうその場所で、母・姉・私で、黙祷し花を手向け、お菓子、お酒、写真、それから若き頃の祖父を描いた姉の渾身の作品を添えて、気持ちをしっかりと込めて祖父の元に置いて参りました。
硫黄島は大変暑く、兵隊さん達は皆、非常に喉が渇いていたと聞きましたので、
お水やお茶を3人でたっぷりと捧げて参りました。
まだまだ、ずっとここに居たい気持ちでしたが他の皆さんも同じ気持ち。次の道標へ向かいます。
【鎮魂の丘】
各道標巡りが終わると、水が引かれている鎮魂の丘へ。
赤いハイビスカスが鮮やかに咲いていました。
太陽光パネルもあちこちに設置。島内は完全自家発電のようです。
目的を達せず砲撃にあった大砲跡
大砲を覆っていたコンクリートの建物は砲撃に遭い崩れ落ち、剥き出しになったまま残されています。錆びついた鉄の塊の空しい事。。。
一行は摺鉢山へ…
摺鉢山からの景色~島の全景が見渡せます。
摺鉢山は、大変激しく砲弾を浴びた為に今の様な姿になったのだそうです。
(遠方より眺めた摺鉢山の形状、空から見おろすと中央が抉られています)
米軍が上陸してきた海岸
攻撃する側、待ち受ける側、それぞれどんな心持であったか、想像するのも辛いです。
戦没者の慰霊碑には、それぞれの県庁所在地の石が埋め込まれてます。
姉が、祖父の絵をそっと飾ってきました。
特攻隊の慰霊碑
米軍の慰霊碑、それから遺品も祀られてありました。
双方の、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
千鳥ヶ浜 【沈船群】
米軍がコンクリート船を沈めて港を作ろうと着工したものの、硫黄島は土地の隆起が激しすぎて中断したそうで、錆びついた残骸がそのまま残っていました(遠目で見え難いですが)
マンゴーの樹!
【医務科壕入口】
【内部】唯一の空気穴から光と外気が入ります。
医務科壕は入口は小さいものの中は大変長く掘られて、当時は温度管理もされていたとか。
(中はかなり暑かった)この穴の中でお亡くなりになられた方々はミイラの状態で発見され身元は全員判明済みで、遺骨も戻ったそうです)
自衛隊のバス運転手の方がとても親切で、塗装の不完全な場所にも入って行って下さり、なかなか行けない所までも、沢山のお話を交えながら案内して頂きました。有難うございます!
硫黄が吹き出しているところ、1本の横たわるマホガニー、月見草やレモングラスの群生場所、
ひとつひとつ丁寧に。
映像や情報だけでは到底感じられないものが、ここには沢山詰まっておりました。
沢山すぎて、呆然としてしまう。。。
この慰霊巡拝は昭和56年から毎年行われておりますが、遺族が高齢になるにつれ年々
参加者が減ってきているようです。
私の祖母は102歳。硫黄島戦没者の、最後の生き残り配偶者になると張り切っております。
最近は涙を交えての祖父の思い出話が多くなりました。
夫(つま)眠る 硫黄の島は 遠からず
花手向く縁もなく 我も老ゆ(祖母 詠)
行きたくても行けない祖母の代わりに、今回の巡拝は母、姉、私から祖母へのプレゼント。
ちゃんと報告をして、遺族として話を繋いでいこうと思います。
姉の提案がなければ、思いつかなかったし、思いつかない自分にも悲しかった。
政府の遺骨収集はさらに5年間継続されつつあり、滑走路を掘り起して下に眠る数多くの遺骨を探す計画もあるそうです。戦後70年近くたった今、硫黄島の未収容御遺骨は国内最多数の役11555柱です。
どうか、どうか祖父も含め、あの綺麗な島の地下に眠る多くの遺骨を救い出し遺族のもとにお返しください。
祖父は38歳で戦死致しました。
「内地だから大丈夫」と言って、横浜へ向かったのだそうです。
北九州から横浜行の突然の知らせを受け、お腹に7か月の赤ん坊のいた祖母は、当時5歳だった母をおんぶし、おはぎを持って大急ぎで祖父に遭いに行きお見送りしました。
祖父はそのまま、太平洋にぽつんと浮かぶ硫黄島へ渡り、帰らぬ人となりました。
決して怒らない、穏やかな人であったそうです。帰ったらミシンを買ってあげるねと。。
数少ないモノクロ写真からは、その性格が伺えます。
慰霊巡拝から戻り、母や姉とおはぎを頂きました。
最後に、政府関係者の皆様はじめ関わられた全ての皆様、終始とても親切に接して下さいましたことをお礼申し上げます。
祖父に会いに、また訪れるつもりです。
本当に昨日あの景色の中に自分は立っていたのかと、
今、不思議な感覚に襲われています
硫黄島は果てしなく澄んでいて
はじめに「硫黄島戦没者の碑」天山前にて合同追悼式。
(硫黄島慰霊巡拝団:遺族57名+厚生労働省職員7名)沢山の供花・供物で。
遺族代表の追悼の辞は、遺族の心情を余す事無く映し出していて感慨深いものがありました。
追悼式が終わると、それぞれの道標を巡ります。
この道標は幾つも島内にあり、生存者や各情報をもとに、各部隊があったろうと思われる個所を示したものです。祖父の部隊があったであろうその場所で、母・姉・私で、黙祷し花を手向け、お菓子、お酒、写真、それから若き頃の祖父を描いた姉の渾身の作品を添えて、気持ちをしっかりと込めて祖父の元に置いて参りました。
硫黄島は大変暑く、兵隊さん達は皆、非常に喉が渇いていたと聞きましたので、
お水やお茶を3人でたっぷりと捧げて参りました。
まだまだ、ずっとここに居たい気持ちでしたが他の皆さんも同じ気持ち。次の道標へ向かいます。
【鎮魂の丘】
各道標巡りが終わると、水が引かれている鎮魂の丘へ。
赤いハイビスカスが鮮やかに咲いていました。
太陽光パネルもあちこちに設置。島内は完全自家発電のようです。
目的を達せず砲撃にあった大砲跡
大砲を覆っていたコンクリートの建物は砲撃に遭い崩れ落ち、剥き出しになったまま残されています。錆びついた鉄の塊の空しい事。。。
一行は摺鉢山へ…
摺鉢山からの景色~島の全景が見渡せます。
摺鉢山は、大変激しく砲弾を浴びた為に今の様な姿になったのだそうです。
(遠方より眺めた摺鉢山の形状、空から見おろすと中央が抉られています)
米軍が上陸してきた海岸
攻撃する側、待ち受ける側、それぞれどんな心持であったか、想像するのも辛いです。
戦没者の慰霊碑には、それぞれの県庁所在地の石が埋め込まれてます。
姉が、祖父の絵をそっと飾ってきました。
特攻隊の慰霊碑
米軍の慰霊碑、それから遺品も祀られてありました。
双方の、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
千鳥ヶ浜 【沈船群】
米軍がコンクリート船を沈めて港を作ろうと着工したものの、硫黄島は土地の隆起が激しすぎて中断したそうで、錆びついた残骸がそのまま残っていました(遠目で見え難いですが)
マンゴーの樹!
【医務科壕入口】
【内部】唯一の空気穴から光と外気が入ります。
医務科壕は入口は小さいものの中は大変長く掘られて、当時は温度管理もされていたとか。
(中はかなり暑かった)この穴の中でお亡くなりになられた方々はミイラの状態で発見され身元は全員判明済みで、遺骨も戻ったそうです)
自衛隊のバス運転手の方がとても親切で、塗装の不完全な場所にも入って行って下さり、なかなか行けない所までも、沢山のお話を交えながら案内して頂きました。有難うございます!
硫黄が吹き出しているところ、1本の横たわるマホガニー、月見草やレモングラスの群生場所、
ひとつひとつ丁寧に。
映像や情報だけでは到底感じられないものが、ここには沢山詰まっておりました。
沢山すぎて、呆然としてしまう。。。
この慰霊巡拝は昭和56年から毎年行われておりますが、遺族が高齢になるにつれ年々
参加者が減ってきているようです。
私の祖母は102歳。硫黄島戦没者の、最後の生き残り配偶者になると張り切っております。
最近は涙を交えての祖父の思い出話が多くなりました。
夫(つま)眠る 硫黄の島は 遠からず
花手向く縁もなく 我も老ゆ(祖母 詠)
行きたくても行けない祖母の代わりに、今回の巡拝は母、姉、私から祖母へのプレゼント。
ちゃんと報告をして、遺族として話を繋いでいこうと思います。
姉の提案がなければ、思いつかなかったし、思いつかない自分にも悲しかった。
政府の遺骨収集はさらに5年間継続されつつあり、滑走路を掘り起して下に眠る数多くの遺骨を探す計画もあるそうです。戦後70年近くたった今、硫黄島の未収容御遺骨は国内最多数の役11555柱です。
どうか、どうか祖父も含め、あの綺麗な島の地下に眠る多くの遺骨を救い出し遺族のもとにお返しください。
祖父は38歳で戦死致しました。
「内地だから大丈夫」と言って、横浜へ向かったのだそうです。
北九州から横浜行の突然の知らせを受け、お腹に7か月の赤ん坊のいた祖母は、当時5歳だった母をおんぶし、おはぎを持って大急ぎで祖父に遭いに行きお見送りしました。
祖父はそのまま、太平洋にぽつんと浮かぶ硫黄島へ渡り、帰らぬ人となりました。
決して怒らない、穏やかな人であったそうです。帰ったらミシンを買ってあげるねと。。
数少ないモノクロ写真からは、その性格が伺えます。
慰霊巡拝から戻り、母や姉とおはぎを頂きました。
最後に、政府関係者の皆様はじめ関わられた全ての皆様、終始とても親切に接して下さいましたことをお礼申し上げます。
祖父に会いに、また訪れるつもりです。