港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


献立は…  
シネマ・ポップス…ときどきイラスト

本日の日替わりメニュー(64)

2018-09-25 18:29:45 | 本日の日替わりメニュー

『燃ゆる想い』 ジャミー・クー
”I'll go on loving you” Jamie Coe  【YOUTUBEより】 



1959年にジョージ・コロヴァスが作詞・作曲し、ジャミー・クーが唄った熱いラヴ・ソングです。
ジャミー・クーとしては、デビュー曲の”Summertime Symphony”に次ぐ二枚めのシングル盤で、日本の【今週のベストテン】では
1960年5月第三週に一度だけ9位という記録が残っています。
言ってみれば、一発屋で終わりましたが、なぜか強い印象を残しました。
歌詞は、星が空から落ちるまで、海が干上がるまで、太陽が輝かなくなるまで、貴女を愛する、という内容となっています。

Till the stars fall from the sky
I'll go on loving you
Till the ocean all run dry
I'll go on wanting you
Till the sun doesn't shine
And the rose doesn't bloom
Till then oh darlin'
I'll go on wanting you

エディ・フィッシャーの『いとしのシンディ』、ジョニー・ディアフィールドの『悲しき少年兵』によく似ていますね。

『無防備都市』 旅の友・シネマ編 (21) 

2018-09-24 18:08:24 | 旅の友・シネマ編



『無防備都市』 Roma Citta Aperte (伊)
1945年制作、1950年公開 配給:イタリフィルム=松竹 モノクロ
監督 ロベルト・ロセリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ
撮影 ウバルド・アラータ
音楽 レンツォ・ロッセリーニ
主演 マンフレーディ … マルチェロ・パリエロ 
    神父ドン・ピエトロ … アルド・ファブリッツィ 
    ピーナ … アンナ・マニャーニ 
    マリーナ … マリア・ミキ 
    フランチェスコ … フランチェスコ・グランジャッケ 



第二次大戦でイタリアは連合国に降伏したが、即座にイタリアのほぼ全土がドイツ軍によって制圧され、無防備都市宣言を
したローマもドイツ軍の管轄下におかれた。ローマのレジスタンスの指導者マンフレーディはゲシュタポの追跡を逃れながら
同志のフランチェスコに匿われる。そのフランチェスコと婚約者ピーナの結婚式の日にドイツ軍に襲われた。マンフレーディは
逃げたがフランチェスコはナチに逮捕され、ピーナは路上で射殺されてしまう。フランチェスコはレジスタンスによって救出され、
マンフレーディたちと逃亡し、マンフレーディの恋人マリーナのアパートに逃げ、レジスタンスの協力者神父ドン・ピエトロの
協力で安全な隠れ家に移動していたとき、またドイツ軍に襲われた。信じていたマリーナがドイツ軍に通じていたからである。
マンフレーディはゲシュタポの司令官の拷問によって絶命、神父も子供たちの見守る中で公開処刑されてしまった。



第二次大戦、ドイツ軍から解放されたローマで、解放と同時に活動を開始したロセリーニによって、レジスタンスに対する
ナチのすざましい弾圧、そこに巻き込まれる市民や子供たちの悲劇をドキュメンタリー・タッチで描きあげたネオレアリズモの
宣言ともいえる世界を震撼させた記念碑的傑作です。
ロセリーニは、映画は夢物語に終わってはならないし型にはまった偶像話はありえない、映画は生きる時代の現実の社会や
人生の目撃者・報告者・証人でなくてはならない、という信念のもとに、モンタージュによる現実の歪曲を極力避け、祖国の
恥部ともいえる生々しい傷跡を直視した衝撃の作品を作りました。単純なペシミズムとは一線を画する悲劇の実録であり、
映像が時代の証人となり、この『無防備都市』によってネオレリズモ(イタリアン・リアリズム)が誕生します。



映画は、実在の登場人物をモデルにしてローマのレジスタンスの記録映画ですが、多少の物語性はあるものの、ドイツ軍
占領下のローマの悪夢を冷静に再現、ドイツ軍の行なった悪行を激しく非難するとともに、戦争という人類にとって最も愚かな
行為により、限界状況に直面すると悪魔のように残虐にもなれるという人間の姿を描きながら、いかなる暴力も人の心までは
支配できないと力強く訴えています。ラストシーンによる神父の銃殺刑という救いようのない悲劇を見つめていた子供たちが
その現実を心に刻み込む姿が印象的でした。



この作品を見るにあたっては、第二次大戦下のイタリア戦線の現状と、映画史における映画表現の現状という二つの
歴史をしっかりと理解しなくてはこの『無防備都市』の価値を見出すことができないのではないかと思う次第です。

本日の日替わりメニュー(63)

2018-09-23 22:30:08 | 本日の日替わりメニュー

『ベサメ・ムーチョ』 ペペ・ハラミジョとラテン・アメリカン・リズム

”Besame Mucho” Pepe Jaramillo & His Latin American Rhythm  【YOUTUBEより】 


この曲はコンスエロ・ベラスケスが1941年に作詞・作曲した甘いボレロでラテン・ミュージックの名曲中の名曲です。
タイトルの ”Bésame Mucho” ( いっぱいキスして ) から甘美なラヴ・ソングだと思われがちですがそうではなく、
死を目前にした悲しい別れの歌なのです。
当カフェテリアでは、トリオ・ロス・パンチョスやクレパノフ・ストリングスで紹介いたしましたが、今日はペペ・ハラミジョの
ピアノで聞くことにします。

祝 福浦和也選手2000本安打達成!

2018-09-22 23:44:53 | 独り言


福浦和也選手2000本安打達成、おめでとうございます。


苦節25年、マリーンズの福浦和也選手が本日の西武24回戦において、八回に小川投手の7球目のスライダーを
ライト線にはじき返す二塁打を放ち、プロ野球史上52人目の通算2000本安打を達成いたしました。
福浦選手は1994年にドラフト7位の投手として入団、その後打者に転向すると黙々とヒットを積み重ね、2001年には首位打者に輝き、
二代目安打製造機(初代は榎本喜八)といわれ、パシフィック・リーグを代表する打者に成長することになります。
ただ、福浦にとっての野球人生は苦難の連続でもありました。
1997年に3番一塁手のレギュラーに定着したものの、翌年には歴史に残る悪夢の18連敗、その翌年には諸事情から外野手としての
出場を余儀なくされ、さらには伊東監督の下では出場機会すら激減、堀幸一同様に2000本は夢のまた夢と思われました。
そんな中で、不屈の闘志を見せ、まさに俺たちの誇り、俺たちの福浦がついに2000本安打の偉業を達成いたしました。
チームの個人の記録としては、村田兆治の200勝、落合博満の三度の三冠王以来の歓喜となりました。
福浦選手の思い出として一番忘れられないのがホークスのエース杉内の両拳を骨折させたあの満塁での一発です。
日刊記事(ダイエー杉内、イスをパンチ!両手骨折)
他にも2005年の日本一、2010年の史上最大の下克上なと数々の思い出がありますが、語れば話が尽きそうにありません。



  *****

このブログで野球ネタを書くのはは初めてなのですが、周囲の人たちから73年間神戸で生まれ神戸で育った私がなぜに阪神ファン
でなくて、なんで弱小な「オリオンズ~マリーンズ」ファンなのかと小馬鹿にされたものです。
思えば、1950年にプロ野球が二リーグ制になった頃はスポーツといえば大相撲、照国、東富士、鏡里、吉葉山などが活躍していた
時代で市立の小中学校の校庭の片隅には四本柱の土俵があった頃でした。子供の私も大相撲には大変興味を持っていましたので
新聞の星取表を見るのが楽しみでした。そんな中、我が家が購読していた毎日新聞には連日毎日オリオンズが勝ったという活字が
踊り(毎日新聞が毎日オリオンズの親会社)、「別当本塁打」「荒巻完封」などの見出しによって、いつしか強い毎日オリオンズの
魅力に引き込まれていったものです。そして、リーグ優勝さらに日本シリーズ制覇となった頃には完全にオリオンズファンと化して
いました。
1960年には大毎オリオンズとして、八田、田宮、榎本、山内、葛城、柳田、谷本のミサイル打線でリーグ優勝したものの、ミサイル
解体で弱小化してしまい、1970年の濃人ロッテでリーグ優勝して以来、一シーズン制でのリーグ制覇はありません。その間、
18連敗のプロ野球記録、さらには長い暗黒時代や吸収合併騒動などを何とか乗り越えてきました。現在の親会社は球団運営に
全く力入れていない状況なので早く球団身売りをしてほしいのが本音なのですが、それでも「オリオンズ~マリーンズ」ファンを
やめることはできません。
他のすべての球団ができなかった「最初に日本一に輝いた歴史に輝くチーム」を誇りにしながらこれからも応援していきます。