【2日目】
大黒屋の朝、スッキリとした青空である。2日目<細久手宿>の街道歩きを始める。今日は初実施の朝から夕方までまる1日の街道歩きなので全員が順調に歩けるか気がかり。
細久手宿から御嶽宿の間はほぼ山道、深い緑に包まれた道を下り登りの繰り返しで歩く。所々東海自然歩道が中山道と同じところを通り、案内標識が間違えやすい。
御嶽宿入口、物見峠先の御殿場跡展望台から恵那山、御嶽山、笠置山が見えるはずだが、樹木が生い茂り笠置山以外は良くわからない。 謡(うとう)坂石畳を下り、そして登り西洞坂を下ると平坦地・田圃・国道に出て<御嶽宿>になる。蟹薬師・願興寺東側にこじんまりと当時の面影を伝える旧家が残る。願興寺は質素な雰囲気だが立派な本堂と広い境内を持ち時代を感じさせる建物。この宿が願興寺の門前町として繁栄したことは名鉄線の終端駅があることからもわかる。 みたけ郷土館紹介の店で昼食。 この先、すぐに伏見宿である。
朝の大黒屋 本陣跡 馬水池 平岩辻の風景
秋葉山の三尊石窟 鴨(こう)之巣の一里塚:南塚と北塚が地形の関係から東へ16mずらされている
<御嶽宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・御嶽 広重描く御嶽の図は、宿からはなれた木賃宿の情景である。木賃宿というのは野宿から旅寵に移る過渡期の休泊所で、旅人たちは食糧を携帯し、宿からは湯をもらうだけであったという。その後米を買って自炊し、煮たきをするようになったという。一つ釜を囲んだ貧しい人々の和気藹々たる雰囲気が伝わってくるような図である。
宿の西はすれに蟹(かに)薬師の名で有名な願興寺があり、門前町として誕生した。この寺は、一寸八分の薬師さまの体を数千のカニが取り巻いて池から現われたという話が伝えられ、ここから蟹薬師の愛称が生まれた。本陣から東に連子格子の家並みが残る。 地域名は御嵩、宿名は御嶽と表記し、御嵩町御嵩に御嶽宿がある。
物見峠への入口 唄清水 一呑ひとのみ清水 この辺りが広重描画の場所
謡(うとう)坂石畳:余りの急坂に苦しさを紛らすのに唄いながら 耳神社:錐を奉納すると耳の病にご利益が
謡(うとう)坂石畳:険しい石畳のため、歌を謡って元気をつけた 花崗岩の割石で200m余りを修復
西洞坂:牛の鼻欠け坂 まもなく御嶽宿に入る 水田地帯
牛の鼻欠け坂あたりを境にして、東は山間地域の入口となり、西は比較的平坦地になる。地理的にこの辺りが山間地と平坦地の境界になる。
和泉式部の墓 旧旅篭吉野家 商家竹屋跡 脇本陣跡
●●● この辺りで 昼食 ●●●
蟹薬師:願興寺 名鉄広見線終点:御嶽駅
願興寺:平安時代開創の古刹。本堂は天正期の再建で400年。重文級の仏像も多数擁する。
<伏見宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・伏見 この広重の図はどの辺だかわからないが、街道の一本杉の根元に憩う旅人や往来する人々を主題とした図で、「人のいる風景版画」といえる。 木陰で弁当を使う夫婦。笠を枕に仮眠する男。どこを目差すのか瞽女三人。左の道からは傘をさし、薬箱を背にした医者がもっともげな瀕をして歩を運ぶ。簡単な描線で描かれた人物ではあるが、よくそれぞれの職業、生活状態までも描き分けており、広重もやはり浮世絵師だなと感じさせる図である。こうした一本杉の根元に憩う人々を扱った図は、保永堂版「東海道五拾三次」中の「浜松」が有名であるが、本図の方が温か味があふれている。
御嶽から一里五丁の西に伏見がある。木曽川の渡し場変更により木曽川南岸の土田どた宿から宿が移ったため、他の宿より90年余り遅れ、中山道では最も遅く誕生した。明智光秀や森蘭丸の出身地に近い。今は国道が通り抜ける。
<伏見宿>からはほぼ平坦な道を歩く。宿内を国道が通っているため、当時の雰囲気はほとんど感じ取れない。 旧家がほんの少し残っているだけで後は碑だけである。 予定では「上恵土神社」先から新可兒のホテルへ行く予定だったが、見るものが少なく時間も早いので1駅先まで約1時間余計に歩く。 名鉄今渡駅から新可兒駅に戻りホテルへ。
危惧された途中脱落者もなく、代わりに当初予定より先まで歩くことが出来き絶好調のハイキングクラブ有志である。
歩数3万8千歩、19Kmの歩き。
鬼の首塚 比衣ひえ一里塚跡 本陣跡碑 兼山道道標:右御嶽 左兼山 八百津
伏見宿本陣碑 ・ 「是より東尾州領」の領界石
旧旅篭三吉屋 名号碑:槍ヶ岳開山の播隆上人が建立 子規句碑「すげ笠の 生国名のれほとゝぎす」
上恵土神社 恵土の一里塚跡碑
上恵土神社 裏手から中山道に蛇行してきた木曽川が望める
【3日目】 に続く ……