武蔵野つれづれ   第3の生活を自由人として

中国での体験記を記して参りましたが2012年の秋に帰国しましたので、これからは武蔵野での生活を徒然なるままに書きます。

第七段 黒川能

2014-11-29 15:46:47 | 東京以外の日本

黒川能新嘗祭を見学しようということで勤労感謝の日、能楽研究の仲間と山形県鶴岡市黒川を訪れました。

能は観阿弥・世阿弥によって大成された後、幕府の擁護を受けた五流(観世・宝生・金剛・金春・喜多)に受け継がれてきましたが、この五流とは別に誰かが(ここも大きな謎なのですが)黒川の里に演能技術・能面・能装束を伝え、脈々とこの地で継承され現在に至っています。五流は興行を目的とした専門職の役者さんが演じるのに対して、黒川能は氏神である春日神社の氏子さん達が神事として演じます。氏子さんの多くは農民(今ではほとんどが兼業農家)です。

盆踊りならともかく、能のような難解で高度な芸能を素人が演じられるものなのかどうか、しかも500年にわたって片田舎(失礼)において受け継がれてきたモーチベーションとは一体何なのか?

私は能の愛好者で、自分でも謡曲・仕舞を稽古し市の謡曲連盟会長を務めています。日本文化普及のために東欧に3年間駐在したこともあります。日本文化を理解し普及させることに微力を献げることをライフワークと思っています。しかし一方、現在の日本において能を一般に普及させるには障害が大き過ぎるとも思ってきました。だから黒川能が郷土芸能として根付き、国の重要無形民芸文化財に指定されているという事実には驚愕を覚えずにはいられません。その原動力を探りたいというのが今回の目的です。

今回の演目は、能「安宅」「小鍛冶」と狂言「柿山伏」でした。春日神社での演能が終わったあと地区の農家に宿泊し、夕食後当日の役者さんたちと懇談しました。「仕事の合間に能を稽古するのは並大抵のことではないでしょう。どうしてそんなしんどいことをするんですか?」と率直に聞いてみました。

 ●黒川に生まれたから。(黒川小学校では謡曲を教えるそうです。)
 ●神事だから
 ●能が好きだから

いろいろな答えを頂きました。本当のところは此処に住んで見なければ分からないことかも知れません。

 

 今回は撮影禁止なので演能の写真はありません。黒川周辺の羽黒山や最上川の写真を掲載します。


出羽富士と呼ばれる鳥海山 2、236m。 鶴岡から最上川へ向かう車窓から。左側のフェンスは雪から道路を守るための物。格子板は手動で閉じるとのこと。


最上川にて川下り。 「五月雨を集めて早し最上川」芭蕉の句は夏だが、紅葉の残照も美しい。

 
鶴岡は北前船で栄えた。豪商風間家。当地出身の藤沢周平作「蝉しぐれ」のロケもこの部屋で行われた。(宮沢りえ主演)

 
修験道の聖地羽黒山。国宝五重塔。色のとれた木肌むき出しの木組みが美しい。


冬季には出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)の神々が降りて来るという三神合祭殿。中央部の茅葺きの厚さは2m以上という。

 黒川2泊後、仲間と離れて銀山温泉・米沢とレンタカーで「みちのくひとり旅」をやったので、その写真も載せます。

 
銀山温泉。大正時代にタイムリップしたような木造建物が川沿いに並ぶ。

 
米沢の旧上杉伯爵邸。明治の豪邸とはこういうものか。筑豊の石炭王加納邸も。


米沢の旧上杉伯爵邸。


第三段 秋の大和路 (武蔵野つれづれ)

2013-11-29 15:51:22 | 東京以外の日本

久し振りに奈良へ来た。自然院は奈良まで40分くらいで行ける大阪の地で育った。小中学校時代の遠足はほとんどが奈良の古社寺だったが、それは子供としては当然楽しい行先では無かった。それが、大人になってからは高い交通費を払っても行きたくなるのだから、子供の時のこういう遠足も意味があるのかも知れない。

今回の目的地は薬師寺。若い頃は何度か訪れたが、1981年に西塔が出来てからは初めてである。会社退職後、奈良のNPOでボランティアでガイドを務めている友人のN氏に案内をお願いした。

 
 ゆく秋の大和の国の薬師寺の 塔の上なるひとひらの雲 (佐々木信綱)

 

初めて西塔を見た。惚れ惚れとするほど美しい。東塔は1300年前に建立され、数百年に一度改修が繰り返されて来た。現在もこの改修時期にあたり、解体して今後数百年持たせることを目標とした修理・再組が行われている。「1300年という長さは重いよ。今のビルは何年持つかね」とN氏。そういえば、今年6月に解体された最古の百貨店である銀座松坂屋ビルは88年で寿命を閉じたことを思い出した。
何度地震があったか知らないが、長年の天災・風雨に耐え抜ける大型木造構造物を、釘を使わずに木組みだけで作り上げた技術力。しかも体系化された力学や十分な素材がなかった時代に、大陸渡来の建築技術と経験だけを基に行ったと考えると、当時の技術者に感服するばかり。

奈良時代には数十の塔が建立されたという。技術者が何人いたのか分からないが、短期間にこれだけの事業をやり遂げたという事実にも、新しい驚きを感じた。

改修を機に塔の上にあった水煙が地上に降ろされ「水煙降臨展」が催されていた。天人が伸びやかに飛翔したり笛を吹く姿は以前に写真で見たことがあり、その躍動的な姿に感動を覚えた記憶があるが、それを目の高さで見られるなんて・・・なんという幸運。

    
 降臨した水煙                鉄製の防火壁を埋め込まれた金堂 

N氏によると、金堂建設に当たっては、設計を担当した大学教授陣と宮大工で激論があったという。教授達は中に安置してある仏像を守るために鉄製の防災壁を設置する計画を立てたが、宮大工は「何千年も持つ木造建造物の中に、百年しかもたない鉄をはめ込むなんて邪道だ。」と猛反対したという。結局防災壁は設置されたが、「檜の持つ力を知り、伝統技法を伝承しているのは自分たち宮大工である」とのプロ根性には鬼気迫るものを感じる。