武蔵野つれづれ   第3の生活を自由人として

中国での体験記を記して参りましたが2012年の秋に帰国しましたので、これからは武蔵野での生活を徒然なるままに書きます。

第25話 日本文化紹介の講演 湖南大学

2010-11-21 15:44:47 | 長沙

長沙市の湖南大学日本語学科からの依頼で、日本文化紹介の講演を行った。講演項目は次のとおり。

 1.中国文化と日本文化の往来
 2.日本文化の特徴
 3.日本企業の特徴  

 前赴任地のルーマニアでは文化交流が目的だったので、ブカレスト大学やブラショフ市の日本武蔵野センターで日本語・書道の講義や文化紹介活動を行ってきたが、中国で教壇に立つのは初めてである。西洋人相手なら日本文化は西洋対東洋という比較的単純な構図で紹介できるが、中国相手の場合はルーツが共通なだけにやや複雑な面がある。一般に中国人は日本文化は中国文化の一変形と思っている。それは一面では正しいが、今回は次の点を強調する内容とした。

●8世紀頃日本は遣唐使等を通じて積極的に中国文化・文明を取り入れ、日本の文化水準は飛躍的に発展した。日本人はこのことに関して中国に恩義を感じている。
●しかし日本は中国文化を丸ごと取り入れたのではなく、取捨選択が働いたという点に注目したい。例えば、宦官制度や科挙は採用しなかった。これは朝鮮や越南などの周辺諸国が、中国制度をそっくり移入したこととは対照的である。このような取捨選択により、異文化をより高度に醸造してゆくことを日本は長年に渡って学んだ。
●このように異文化を取り入れる術を日本は会得していたので、黒船来港以降の西欧の圧力に対しても、短期間で近代国家に作り変えることに成功し、自立対抗することができた。
●一方中国は、古来から文化を輸出することはあっても、外来文化を取り入れる事はなかった。(欧州が産業革命を経て近代国家に発展するまではその必要が無かった。) この中華思想が災いし、アヘン戦争から辛亥革命に至るまで、封建制が崩壊して近代国家が誕生するまで、日本よりもずっと長い期間を要した。
●中国は遅れを取り戻すために、先行する日本の近代化ツールを利用した。例えば、大規模の官製留学生を送り込み、日本が近代化のために作った和製漢語や日本で翻訳された洋書(漢字で中国人には読みやすい)を大量に中国に持ち帰った。現在の中国で使われている科学用語・社会用語の大半がこの頃の和製漢語であるといわれている。
また、中国人が近代化の父として最も尊敬する孫文も魯迅も日本で学んだ。ここにおいて、日本は中国の近代化に文化貢献したことになり、遣唐使以来の恩返しをしたともいえる。今後も一衣帯水の関係を大切にしたい。

文化については以上のような趣旨で紹介し、あとは日本型ビジネスについて話した。それにしても、企業でのプリゼンと異なり、若者達相手の話は楽しい。雰囲気が陽気だし、ジョークにも反応が早い。

 
   

 現在の中国では経済発展が著しい割には、大学新卒者の就職率は68%と悪い。しかし日本語学科の学生達は広東省を中心に需要が多く就職率は80-90%の高率であるとのことであった。そのせいか、教室での質疑応答は和気藹々とした雰囲気の中で行われた。しかし、講演後学生達が周りにやってきて、「最近の中日間の関係をどう思うか」とか「日系企業では中国人は幹部になれないという話があるが本当か」など、厳しい質問もあった。

 長沙は旧陸軍の南進路にあたり反日感情が根強いと云われている。前週の週末にも、長沙でも反日デモが呼びかけられたが、小規模で終わったそうである。政治的には困難な事情がまだまだあるし、情報の偏りがそれに輪をかける事態もしょっちゅう発生するが、人と人の草の根的な関係を繋ぎ、誤解による関係悪化を防ぐことが大切だと思う。 

 


第24話 西安 是見飽きぬ古都也

2010-11-17 22:01:59 | その他の中国都市

西安は何処へ行っても見飽きぬ風情が感じられます。切りがないので、絞って紹介しましょう。

1. 城壁

 先ずは、街を囲む城壁です。欧州のオールドタウンにも街を囲む城壁はよく見られますが、この長安の城壁は真っ直ぐな長方形、しかも並外れてデッカイ。何せ城壁の上は自動車が悠々と走れる大きさ。万里の長城といい、この城壁と云い、昔の中国人はどうしてこんなに大きな物を作ってしまうのだろうか?
 この広い城壁の上をレンタ自転車で南門から西門まで、すなわち1/4周しました。これだけで十分大きさを堪能しました。

 
この階段から城壁に登る。           城壁の上はドデカイ。この上を自転車で走った。

2.碑林博物館

 西安には多くの博物館がありますが、自然院の一番行きたかった所がこの碑林博物舘です。「碑林」って変な名前ですが、字の通り石碑が林立しています。臨書をするには拓本の印刷物を手本に書く訳ですが、その元となった本物の石碑が惜しげもなく所狭しと並んでいるのですから、臨書を志す自然院としては感動せずにはおられません。


石に墨を塗り、その上に白い紙を置いて扇風機で乾かし、布で軽く叩いて拓本を取る。拓本を取る現場は初めて見た。

 
碑林博物舘の周りは文房四宝を売る店が並んでおり、自然院好みの落ち着きのあるたたずまいの街並みとなっていた。

3.下町

西安は沿海都市に比べて開発が遅れており、至る所に昔ながらの面影が色濃く残っています。特に下町は日暮れ頃から夜店・屋台が店開きし、独特の活気が見られます。 

  
左: ずう~と続く屋台。夕暮れ時から出店、人出も増える。 
右: 
骨董屋さん。並んでいるのは筆・仏像・毛さん人形等々。

 
左: 商品のほとんどは棗(ナツメ)商品。乾燥させたりお菓子にしたり、そのバリエーションの多さに驚く。中国人にとって棗は大切な食料なのだと改めて認識させられる。
右: クルミを煎る機械。

 
西安にはイスラム街がある。此処では女性はスカーフを巻いて生活をしている。自然院は中東で駐在したこともあるのでスカーフ姿は見慣れているが、黄色人種のスカーフ姿にはちょっと目新しさを感じる

 4.大雁塔

三藏法師玄奘がインドから持ち帰った大量の経本を保管するために建てられたのが、この大雁塔。中国にはいろんな形の塔がありますが、この塔は素朴で力強い感じがして好(ハオ)。

 
左: 重量感のある大雁塔。 
右: 三藏法師玄奘象と大雁塔。玄奘は夏目雅子のような華奢なイメージがあるが、実際は頑丈な体格だったらしい。そうでなければ16年も掛かってインドへの長旅・留学には耐えられないよね。

 
ここの仏様たちは煌びやかでまことに綺麗。ありがたや。

 


第23話 楊貴妃と華清池

2010-11-01 00:01:19 | その他の中国都市

高校の漢文の授業で長恨歌を習った。まず出だしを読んで驚いた。「皇帝は女好きで、超美人を探していた。(君皇色を重んじ傾国を思う)」というのである。そして楊貴妃を見いだし大奥に入れる。「初の夜伽の前に入念に華清池温泉で玉の肌を磨かせた。(春寒くして浴を賜う華清池。温泉水滑らかにして玉脂を洗う。)」と来るからいよいと色っぽい。少し笑っただけで百の媚態が生まれる(瞳を巡らして一笑すれば百媚生ず。)という超美人の入浴シーンを、初老の先生が真面目な顔で教えるのだから、高校の授業は面白かった。
 長恨歌は音感が良く大好きで何度も音読みしたので、大方暗唱できるくらいになっていた。今回、此のブログを書くので改めて長恨歌を音読みしてみると、あの頃の感覚が蘇ってきた。

 

授業で色っぽいといえば、与謝野晶子の歌も情熱的で色っぽいのが多かった。確か副読本に載っていて読んで驚いた。


   柔肌に 熱き血潮に触れもみで 寂しからずや道を説く君

   春短し 何に不滅の命ぞと 力ある乳を手にたぐらせぬ


「柔肌に」とか「乳を手にたぐらせぬ」とか、紅顔の高校生には衝撃的な表現だった。未だに覚えているのだから。



 話は横道に逸れたが、その華清池にやって来た。高校で習ったあの華清池を目の当たりに出来る嬉しさよ。

 
  驪山を背景に華清池宮                  華清池         
 

楊貴妃が入った風呂も見れた。1986年に発掘されたそうだ。と言うことは、自然院が長恨歌に身を焦がした頃から10年後ということになる。自分が生きている短い期間に歴史上の発見が次々に起こるなんて楽しい。昔の知識を常に更新しなくては。

 
左:楊貴妃専用のお風呂。少し小振り。ここで侍女たちに玉の肌を磨かせていたのだろうか?
右:玄宗皇帝専用のお風呂。後宮の華麗たちと一緒に入ったのだろうか?広いしね。

今でも湧き出てくる源泉。掛け捨てだったのだ。