もう、十数年前のこと
今だにこの光景が忘れられないでいる。
私が二十歳の頃だった。
友達のお姉さんが勤める歯医者さんに行った時のこと。
そこの歯医者の先生は、
腕の良さもピカイチ
口の悪さもピカイチで
そのピリリとする威厳から
軽グチも交わせぬほどだった。
優しいとは程遠い雰囲気は
治療室の空気をピンと張り詰めさせていた。
友達のお姉さんがいなければ
こんな歯医者さんにはお世話にならないと思っていた。
私は、数十分も椅子に座らされたまま
じーっと待っていた。
すると後ろの方から声が聞こえてきた。
若い夫婦が先生に何かしら訴えていた。
なんでも、奥さんの方は赤ちゃんを産む前から
歯が悪くて、そのまま出産を終え
数ヶ月後に来たようだ。
その時にはかなりの本数の歯の治療が必要となったみたいだ。
苦虫を潰したような顔をした先生が
怖い空気を漂わせているのにも関わらず
作業着姿のままやってきた旦那さん。
決して裕福そうには見えない夫婦は、
先生の前で立って話を続けていた。
突然、土下座でもしょうかとする勢いで
旦那さんが頭を下げた
『先生、お願いや、頼むから、コイツの歯を
全部治してやってほしいんや。俺は、なんでもする。
一生懸命、コイツの歯の為に働くから、どれだけお金がかかってもかめへん頼むよ、先生。お願いやからええ歯をいれてやってほしいんや』
すがりつくように繰り返す旦那さんに、奥さんは、
『あんた、ええのよ、お金かかるから痛みだけ押さえてくれたら、
私はなんとかなるねん、先生も困ってるんやから、もうええんよ』
旦那さんは、奥さんの手を振り切って
『ええんや、お金がかかっても、治してもらって、なんでも食べられるようにならんと、
チビの世話もあるんやから』
また、先生の方に向き直って
『先生、お願いや、治してやって。ちゃんと働いてお金は揃えてもってくるさかいに、お願いや、コイツを治したってくれ』と繰り返していた。
最後には涙声のように私には聞こえた。
先生は、うんうん、うなづきながら
小さな声で、わかったから と。
受付までその夫婦を連れていって
なにやら書類の手続きを促したようだ。
恥も外聞もないと言う言葉がある。
そう、今、見た光景がそうなのかもしれないと思った。
恥なのかー。
かっこ悪いのかー。
私には、とても、奥さんが愛されて
我が身を省みず頭を下げる旦那さんが
かっこいいと思った。
世界中を探しても
きっと、こんな風に自分の為に
頭を下げるくれる人にそうそう巡り会えないだろうと思った。
余計なプライドが邪魔をして
そんなことができるか!
そんな声がどこからか聞こえてきそうだけれど
人を大切にするのに
恥も外聞もプライドも
そんなものは必要ではない。
大事なものを大事だと
胸を張って言えることこそが大切なんだと思った。
まだ、カード支払いも出来なかった時代。
そんな二十歳の歯科医院でのワンシーン。
歯医者通いは
今だに、とてもとても苦手。
嫌いの最大限だけれど
こうしたホッコリした話もあったのよね。
今でも時々思い出す話。