惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

素人哲学の構想のようなもの

2016年04月16日 | 素人哲学メモ
気まぐれにまかせて日々考えたことを文字にして書き散らしているばかりで、お前の素人哲学とやらの全体像がちっとも見えて来ないと感じている人がいるかもしれない。

自分でも初心はたいてい忘れていて(笑)たまに思い出す程度になってしまっているが、たまに思い出す日がないわけではない、つまり漠然とした構想とか方針のようなものは、今でもないことはないので、あまりひどい大風呂敷にならない程度にそれを書いてみる。

(1)心身問題の解決、(2)生と死の複素欲望論、(3)呪縛の言語行為論、この(個々人の存在と近傍にかかわる)3つを基礎において心的領域の全体的な成り立ちを解き明かすこと、いいかえれば(a)経済的生産、(b)政治的調整、(c)娯楽(文化)的補償の3つを軸にした社会的構築論の方へ考察を拡げること。あるいは、拡げるように考察すること。

早い話が(a)は資本論、(b)は国家論だが、(c)の欠けていること、あるいは欠けてはいないにしても統合的な社会の(哲学)理論としてうまく組み込まれていないことが、既存のあらゆる(哲学)理論が全円的なものにならないで、ひいては資本論が資本を超え損ね、国家論が国家を超えることができない、その一番の理由かもしれないと思っている。

・・・やっぱり大風呂敷じゃないか、というか、さっき投稿したものよりこっちの方がよっぽど「ポエム」じゃなかろうかと思うわけだが、

物理学とちがって哲学には本当の意味で定まった目標とかはありえないし、したがって理論的な完成ということも原理的にありえない。それは人が生きることに定まった目標とかはありえないし、したがってその完成ということもありえない、生きるということの内側にはその始まりも終わりもない(とはいえ、それらは生きることのすぐ外にはある)、その両端で閉じた「人生」などというものは(信仰によってわざわざ閉ざさない限り)ない、ということとパラレルである。

生きることと哲学は、だから、将来を語ろうとすれば大なり小なり大風呂敷を広げることになってしまうことでも同じで、だからそれは仕方がないのである。
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