惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN1-2-04k

2011年06月08日 | THN私訳
2-04 反論への回答(承前)

とにかく、これらの観念はきわめて漠然としていて不確実なものである。さてそこで、数学者はどう考えているのであろうか。専門の数学のややこしい、はっきりしない命題についてはさておき、もっと俗っぽい、明々白々たる原理について、それが誤りではないことの保証を、彼らはどこから得ているのであろうか。たとえば「2直線は共通線分を持ちえない」というのはどうしてか、数学者はわたしに向かって証明できるであろうか。あるいは「任意の2点間に1本より多くの直線を引くことはできない」というやつはどうであろうか。もし数学者の人が、こうしたことを改めて問うことはまったくバカ気た考えであって、数学者様の明晰な観念にはそぐわないものだとか言うのなら、わたしがかわって答えることにしよう。2本の直線が見てわかるほどの角度で傾いている場合は、両者が共通線分をもつと想像するのはバカ気たことである。わたしもそれは否定しない。けれども、2本の線の間が20リーグ(約100km)あたり1インチというような、ものすごく小さな角度しかないような場合なら、2本の線は互いに接触して1本になると言っても、それはまったくバカ気たことだとは、わたしは思わない。わたしには2直線が合致したところの共通線分だと思える1本の線は、数学者によれば、きわめて小さな角度しかなしていない2直線のいずれとも共通部分を持たないというわけであるが、それはいったいどのような基準ないし規則によってそう判定されることなのか。ぜひとも教えていただきたいところである。数学者は、わたしの言う線とは一致しないような直線の観念を持っているのに違いない。そうだとすると数学者は、わたしの言う線における点のとり方は直線の個別的かつ本質的な秩序や規則とは違っている、と言うのであろうか。そうだとすれば、わたしはこう言わなければならない。このように点を基準として判断するときは、延長が分割不可能な点によって構成されることを認めることになる。これだけでもすでに数学者の意図を越えているのだが、さらにこう言わなければならない。点の秩序は、それによって直線の観念が作られる基準ではない。仮に基準でありえたとしても、このような秩序がいつ破られ(violated)、あるいは保存される(preserved)のか、それを決定するほどの確からしさは、感覚や想像にはまったくないのである。直線の根源的な基準は、実のところ、ひとつの一般的な現れにすぎない。この基準は、実際的にか想像的にか、何らかの手段によって訂正されるものではあるが、2直線が互いに合致しうるということがこの基準に反しないものであることは明らかである。

(付録の指示による挿入)
どっちにしろ数学者達が次のディレンマに直面させられることに変わりはない。すなわち、(a)もし数学者が等しさ、あるいは他の何かの割合を厳密で正確な基準によって、いいかえれば微小な分割不可能な点を数え上げることによって判定するとすれば、実際的には無用な(不可能な)基準を使用することになるし、また彼らが論破しようとする延長の分割不可能性を現実に確立してしまうことになる。あるいは、(b)ふだん行うように、対象一般の現れに基づく比較に由来し、測定と並置によって訂正される(程度の)厳密でない基準を使用するのであれば、彼ら(数学者)の第一原理は確実で誤りのないものであるとしても粗っぽいものでありすぎて、彼らがその第一原理から引き出すのを常としているあの、微に入り細を穿った推論を供与するにたりないのである。(そもそも)その第一原理は想像と感覚を根拠としているわけである。ゆえに、結論がこのふたつの能力を超えることはできない。いわんやこれらと矛盾する結論を導くことなどできるわけがないのである。

(つづく)
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