惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN1-1-01c (ver. 0.1.1)

2011年04月09日 | THN私訳
1-01 観念の起源(承前)

このことを裏づけるため、もうひとつの平易で説得力のある現象を考察する。それは、ある印象を起こす機能がたまたまその作用を妨げられている場合、たとえば生まれつきの盲人聾者のような場合である。

ヒューム自身は盲人でも聾者でもなかった、つまり盲人や聾者の経験については知るよしもなかったはずだから、この例は不適切であるように思われる。

そうした場合は印象が失われるだけではなく、対応する観念もない。心の中にはその形跡さえ現れないのである。これは、感覚器(organs)が完全に破壊されているときばかりではなく、特定の印象を生み出すように感覚器を働かせたことが一度もないときも同様である。パイナップルの味の観念は、それを実際に味わってみなければもつことはできないのである。

そうだろうか。食わず嫌いということはあるし、その逆もある。もちろんその場合の観念は感覚器の事実に関して間違っているか、無関係な観念だということにはなるのだろうが、それにしても印象なしの観念であることに違いはないのではないだろうか。

しかしながら、以上の考察と矛盾するひとつの現象がある。その現象は、観念が対応する印象に先行することは絶対に不可能であるとは必ずしも言えない、ということを証拠だてるものであるようにも思える。両目から入ってくるさまざまな色の観念、聴覚によって伝えられるさまざまな音の観念のそれぞれは、どれも似ている一方、実際には異なっている。この点は容易に認められると思う。さて、上記が異なる色彩について真であるとすれば、同じ色の濃淡が異なる場合についても、濃淡の度合いのそれぞれは独立していて、それぞれが別個の観念を生むのでなければならないということになる。なぜなら、これを否定すれば、次のような矛盾が生じる。濃淡を少しずつ連続的に変え、ある色がいつの間にかもとの色と異なる色にすることができる。そのとき色彩について濃度の相違を一切認めないとすれば、はじめと終わりの色は同じ色だということになってしまう※。

えーっと、これは何て言ったっけ・・・ああそうそう、「ソライティーズ・パラドックス」というやつである。

ある人が三十年間視覚を保ち続け、今やあらゆる種類の色彩を完璧に熟知しているが、唯一ある特定の濃度の青色だけは見たことがないと仮定する。そこで、彼が唯一見たことがない濃度の青だけを除いてすべての濃度の青を、最も濃いものから最も薄いものまで順に並べてみせたとしよう。そうすると、彼はあるべき位置にあるべきものが欠けていることに気づくはずである。つまり、色の濃度の連続的な変化が、その位置でだけ少しばかり大きくなっていることに気づくはずである。さてどうしたものだろう。彼は見たことのない、彼の感覚が運んだことのない[したがって観念に先行するはずの印象を持たない]濃度の青色についての観念を、自らの想像によって補うことが可能なのだろうか。わたしの信じるところでは、それは不可能だと考える人は稀であるはずである。このことは素観念が常に対応する印象から来るとは限らないということを証拠だてるものである。ただこの例は非常に特別で特異なものであり、とるにたりないことであって、この一事をもって上述の一般則は覆されるべきだというほどのことではないのであるが。

とはいえ、これを例外として除いたとしても、「印象が観念に先行する」原則にはもうひとつ制約があることに留意しておくことは悪くないことである。観念が印象の像であるように、一次的な観念はその像として二次的な観念も作ることができるということである。これは観念に関する目下の考察から言えることである。正確に言えばこれは規則の例外ではなくその説明である。観念は新しい観念をそれ自身の像として生み出すのである。しかし、はじめの観念が印象から来ると想定される限り、「すべての素観念が直接もしくは間接に対応する印象から生じる」こと、これが真であることに変わりはないのである。

以上が人間本性の学においてわたしが立てる第一の原理である。この原理はその見かけの単純さによって軽んじられるべきものではない。なぜなら、印象と観念のどちらが先行するのかという問題はかつて、生得観念なるものがあるのか否か、すべての観念が感覚と反省から生じるのか否かをめぐって百家争鳴の大論争になった、その問題と同じ問題だからである。延長の観念や色彩の観念が生得的(innate)でないことの証明として、哲学者達はただそれらの観念が我々の感覚(sense)によって運ばれることを示した(shew)だけであった。情緒の観念や欲望の観念が生得的でないことの証明としては、我々はこれらの感情に先行する経験をもつと言うだけであった。これらの論証を注意深く検討すれば、彼らが証明したのはただ、観念がより活発な他の知覚によって先行されること、観念はその知覚から生じ、またその知覚を再現するということだけだったのである。問題についてこうして明確に述べたことが論争を一掃することを、また、我々の論究においてこれまで以上にこの原理がもっと用いられるようになることを、わたしは望むものである。
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