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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

「共同幻想」についてのメモ

2016年04月03日 | 素人哲学メモ
本来、個々人のそれぞれが独立してもつもので、共有部分などないはずの心的領域が集合的な次元(共同幻想)をもつのはなぜかと考えてみれば、すべての心的領域は〈死〉というただ1点において同期しているからである、ということができる。

ここで「同期している」とは、存在は異なるが本質(参照先)は同一であることの謂である。〈死〉は他のいかなる心的存在、つまり心的領域上の対象や像(後述)とも同じように、個々人のそれぞれがもつものであるが、〈死〉に限っては物理的外延が完全に一致する(なぜなら〈死〉の外延は物理的全宇宙を台とするからである)ために存在は別々であっても本質(参照先)は同一である。

したがって図式的には、存在そのものが単一であるように縮約してしまっても図式の静的な意味は変化しない。さらにこの場合〈死〉の本質(参照先)は明らかに不変であるため、動的な意味も変化しない。結局、実質において〈死〉は万人が共有する単一の心的存在であると見なすことができる。

ただし、そうは言っても〈死〉そのものは心的領域の対象ではなく像にすぎない。どんな大風呂敷も全宇宙を対象として一度に(あるいは有限の大風呂敷で)被覆することはできない。実際の共同幻想は、だから無限遠の〈死〉よりもはるか手前にある、ごくごく小さな共同性へ射影された幻像にすぎない。

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欺瞞、擬制、建前、茶番 ── ひそかな言語行為論(1)

2016年03月29日 | 素人哲学メモ
それらしい語をいくつか掲げてみたが、そのものズバリを言い表す語が思いつかない。改めて辞書を繰ってみても、これだという語を見つけることができなかった。それは単に筆者の語彙が貧困だからなのかもしれないし、ここで書こうとしている事柄に該当する語は本当にないのかもしれない。それが判らない程度には筆者の語彙が貧困であることは確かである(笑)。

とにかくまあ、仕方がないから、以下「茶番」とカッコ書きしてひと括りにする。つまり、茶番と呼ぶには相応しくない場合でも、題名に掲げた語彙のどれかには当てはまっているか、当たらずとも遠からずのことを言っているつもりだということの印として「茶番」とかく。

言いたいことを単刀直入に言ってしまえば、人間の言語はもともと「茶番」だということである。

実際、たとえば「わたしはあなたを愛している」と言葉で語ることは何の証にもならない。真実であることの証にならないことはもちろん、虚偽であることの証にさえならない。「わたしはあなたを」云々という命題についての真実でも虚偽でもなければ、他のいかなる命題についての真実でも虚偽でもない。誰が誰に向かってそう告げる場合でも、何の証にもならない。とにかくそれは徹底的に何の証にもならない、そういう意味で空虚である。

ただ、これをさしあたり「茶番」と名づけて、ここで何かを考察しようとしているのは、確かに言語は何の証にもならない、その意味では空虚である、けれども、そうであるにもかかわらず、そのような言語を発すること、つまり言語行為(発話行為)はなぜか空虚ではない、という自明でない(反省・考察を要する)事実があるからである。

実際、「わたしはあなたを愛している」は空虚であるにもかかわらず、そう口にすることはほぼ常に、かつ確実に何かをしたことにはなる、わけである。しかも、恐るべきことに「何かをした」そのことは後戻りがきかない、つまり、それをしなかったことにはできない。「今のはナシ」だと直ちに言っても、あるいは言語行為ではないどんな行為をそこに重ねたとしても、それ(わたしはあなたを愛している)を言わなかったことにはできない。つまり、それを言う以前の状態に戻すことはできない。

物事はだいたい何でもそうだと言えないことはない、覆水盆に返らずと言う、けれども、それでも言語行為以外のたいていの行為は、応分の代償を支払った上でならそれを「なかったことにできる」ものである。窓ガラスを割ってしまったら、新しい窓ガラスに取り換えればいい。そのための代金を払わなければならないとか、この世界に存在する割れていないガラスが1枚減るとかいった代償を支払うことにはなるが、とにかく「その窓ガラスを割ったこと」はなかったことにできる。それができない、本当に取り返しがつかないのは、たとえば人を殺してしまったとか、そういう極端な場合に限られる。ところが言語行為はどんな些細な行為であっても、人を殺してしまった場合と同じように「取り返しがつかない」のである。

人殺しが取り返しのつかない行為であるのは、殺された人が世界※にひとりしかいない(いなかった)からである。実際、人殺しでなくても「世界に絶対にひとつしかないもの」なら何であれ、それをこの世界から失わせることは、人殺しと同様に「取り返しがつかない」ことだということになろう。そう考えると、どうやら我々が言語行為を行うときはいつでも、その都度「世界に絶対にひとつしかない」何かを失わせているのである。それを何と呼ぶべきかは(まだ)判らないのだが。

※厳密に言えば時間軸も含まれるので「宇宙」と呼ぶべきかもしれないが、無用に大袈裟に響きそうだから「世界」としておく。

言語行為の顕著な性質についてもうひとつ述べておくと、最初の方で言ったように「わたしはあなたを愛している」は何の証にもならないという意味では空虚であるが、言語行為としての内容は空虚ではない。同一の場面で「わたしはあなたを愛している」と言うかわりに「わたしはあなたを憎んでいる」と言ったとしたら、一般にその結果(効果)は異なるのである。あらゆる意味で空虚だったら何を言っても結果は変わらないはずであるが、字面が変われば結果が変わる、ということは何らかの意味でそれは内容を持っていると考えざるを得ないのである。言語行為は単に取り返しのつかない行為として生起するだけではなく、一般に空虚でない内容を持ち、その内容は(少なくとも)パラメタとして字面をもつ、と言うことができそうである。

以上、「茶番」の内実には全然踏み込めなかったが(笑)、とりあえずこんな道具立てで踏み込んで行けたらいいなと。

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新・書かない読まない人の物語論(断片1)

2016年03月22日 | 素人哲学メモ
物語ということにまつわる大きな謎のひとつは、同じ物語のテキストについて、それを書くことと読むことはまったく違う経験だということである。

実際、物語をたくさん読んできた人が、その経験の蓄積によって(新たに)物語を書くことができるかというと、たいていはまったく書けない(笑)わけである。「よく書くためにはたくさん読まなければならない」というのもおそらく本当のことである(優れた作者達が繰り返しそう証言しているのに、それを疑っても仕方があるまい)が、それにしても、書くことの経験は読むことの経験とは何かまったく別のことである、そのことは疑いようがない。

ほとんどの文章は、ほとんど誰にも読まれない文章だということを理解する必要がある。

特定の誰かから依頼されて、なおかつ、ほかならぬその依頼主のためにだけ書かれたというような、そういう例外的な場合は別にして、一般に書かれた文章は偶然以外で他人に読まれることはないのである。そう思っていた方が、少なくとも書く側の認識としては健全である。

わざわざそう警告してみたくなるくらい、世の中には「せっかく書いたのに誰も読んでくれない」などと日々嘆いては心を腐らせている(ついには病んでしまう)書き手がたくさんいる。また、われわれ現代人の間には「人は何しにそれを書くのか、読んでもらうためにこそ書くのだ」という「言語コミュニケーションの神話」のようなものが存在して、やたらと広く信じ込まれていたりもする。だがそんなものは根も葉もない神話であって、現実はまったくそうではないし、かつてどこかでそうであったためしもないのである。

たとえば百万部のベストセラーだって、その本の購入者が本当に読んでいると仮定しても、全人口の1%にも満たないのである。しかも大半の購入者は、読んだふりをしているだけで、実は全然読んでなどいない(読者としての自分の胸に手を当てて思い返してみるべきである)。誰かが書いた文章を誰が読むのか、そのことに偶然という以上の説明をつけることが可能であったとしても、それは社会学のような知的探求に属する課題であって、実践的な文章術の問題ではまったくないと言われるべきである。

ただそうは言っても、文章を書くとき、それを読む人や、その人が読んでいるさまをイメージしながら書くということは、素人でもプロでも普通にすることである。それは、多くの物語の作中には、作者とは別の(作者の実像とは似ても似つかない)架空の「語り手」がいるというのと同じように、実際には存在しない架空の「読み手」にほかならない。架空の「語り手」に語らせることで読者はスムーズに読み進めることができるように、架空の「読み手」に読ませることで、書き手はスムーズに書き進めることができる、そんな対称的な図式が存在する。

そう考えてくると「よく書くためにはたくさん読まなければならない」という、あの実践的な教訓の根拠は、架空の「読み手」のイメージを充実させることにあるのかもしれない、そう思われてくる。

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疎外論についてのメモ

2016年03月20日 | 素人哲学メモ
※以下のメモは松尾匡氏による疎外論のテキストを参考にして作成した。

「疎外」はもともとヘーゲル哲学の用語Entfremdungの訳※で、理性(観念)の作り出したものが物質として実現されたときに、理性の思い通りにならないものになってしまうことを意味した。ヘーゲルは事物が理性(観念)の思い通りになることを、あるべき自由な状態と考え、そうならない、あるべからざる状態を「疎外」された状態と呼んだ。

※ent-は分離、fremdは「外国の」「異郷の」「よそよそしい」などの意味がある。

フォイエルバッハはヘーゲルのこの観念論(観念が先にあり、事物は観念から作られる)を転倒し、観念は事物としての人間が作り出すものであり、その観念がひとり歩きして、作った人の思い通りにならなくなることが疎外だと主張した。つまり疎外とは個々人の思い込み、いわば病としての観念だと見なした。したがって、そのような思い込みを捨て、病を治療することによって疎外はなくなるはずだと考えたのである。

マルクスはフォイエルバッハの唯物論を受け継ぐ一方でこれを批判し、疎外が生じる原因を「社会のしくみ」に見出した。観念は個々人の産物だが、その疎外はどの個人にも、個人の集まりにも還元されない、言うなれば〈みんな〉という超越的な(個々人の観念から参照されはするが、個々人の観念領域には属さない、その外にある)存在に発する作用として生じるのである。

この考えによれば、〈みんな〉のあり方(=社会のしくみ)を変えなければ疎外をなくすことはできない。〈みんな〉はいかなる特定の個人や個人の集まりにも還元されない、その外にあるもの(個々人を点とし、人々の集まりをひとつの平面と見なせば、その平面に含まれない、宙に浮かんだ1点)だからである。

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「愛情と友情の違い」についての不完全すぎるメモ

2016年03月18日 | 素人哲学メモ
愛情と友情の違いについては判りやすいいくつかの事実がある。まず、愛情に関して嫉妬を抱く人はたくさんいるが、友情に嫉妬する人はいないということがある。

もうひとつ、キリスト教でいう神の愛(アガペ)などを別にすると、つまり話を人間に限った場合、その愛情は基本的に「生活をともにする」ということに本質的なかかわりを持っている。四六時中ベタベタひっついていたりはしないとしても、最低限「日々起居をともにする」ことが、そうなる前は愛情の達成目標であり、なった後では維持課題である。

友情においてはそのようなことは少しも本質的ではない。どちらかと言えば友情の本質は「死をともにする」こと、つまり「死ぬときは一緒だ」という言い草の方にあるのではないだろうか。

もちろん男女や家族の心中事件は珍しくないが、そうした心中は追い詰められた結果である。普段から「死ぬときは一緒だ」と言って愛情を確かめ合っている男女も家族もいないと思う。

愛情には自己犠牲、つまり相手を生かすために自分が死ぬという行為がありうるが、友情にそれはない。「お前だけを死なせはしない」それが友情ではないだろうか。

また「初美を殺して僕も死ぬ!」と言い出すことが(縺れた)愛情にはありうるが、友情にはない。(縺れた)友情にありうるのは「どうしてもと言うなら俺を殺してから行け」という台詞であろう。

愛情には片想いということがある。後には両想いになるとしても最初は必ず片想いから始まるのが愛情ではないだろうか。友情に片想いということはまずない。そのかわり友情には裏切りがあるけれども。

愛情には自己愛(self-love, prudence)という形がある。友情にはない。実際「自己友情」という言葉はない。自分が自分の友(friend=味方)であるのはあらゆる自分にとって自明のことにすぎないからであろう。

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