本来、個々人のそれぞれが独立してもつもので、共有部分などないはずの心的領域が集合的な次元(共同幻想)をもつのはなぜかと考えてみれば、すべての心的領域は〈死〉というただ1点において同期しているからである、ということができる。
ここで「同期している」とは、存在は異なるが本質(参照先)は同一であることの謂である。〈死〉は他のいかなる心的存在、つまり心的領域上の対象や像(後述)とも同じように、個々人のそれぞれがもつものであるが、〈死〉に限っては物理的外延が完全に一致する(なぜなら〈死〉の外延は物理的全宇宙を台とするからである)ために存在は別々であっても本質(参照先)は同一である。
したがって図式的には、存在そのものが単一であるように縮約してしまっても図式の静的な意味は変化しない。さらにこの場合〈死〉の本質(参照先)は明らかに不変であるため、動的な意味も変化しない。結局、実質において〈死〉は万人が共有する単一の心的存在であると見なすことができる。
ただし、そうは言っても〈死〉そのものは心的領域の対象ではなく像にすぎない。どんな大風呂敷も全宇宙を対象として一度に(あるいは有限の大風呂敷で)被覆することはできない。実際の共同幻想は、だから無限遠の〈死〉よりもはるか手前にある、ごくごく小さな共同性へ射影された幻像にすぎない。
ここで「同期している」とは、存在は異なるが本質(参照先)は同一であることの謂である。〈死〉は他のいかなる心的存在、つまり心的領域上の対象や像(後述)とも同じように、個々人のそれぞれがもつものであるが、〈死〉に限っては物理的外延が完全に一致する(なぜなら〈死〉の外延は物理的全宇宙を台とするからである)ために存在は別々であっても本質(参照先)は同一である。
したがって図式的には、存在そのものが単一であるように縮約してしまっても図式の静的な意味は変化しない。さらにこの場合〈死〉の本質(参照先)は明らかに不変であるため、動的な意味も変化しない。結局、実質において〈死〉は万人が共有する単一の心的存在であると見なすことができる。
ただし、そうは言っても〈死〉そのものは心的領域の対象ではなく像にすぎない。どんな大風呂敷も全宇宙を対象として一度に(あるいは有限の大風呂敷で)被覆することはできない。実際の共同幻想は、だから無限遠の〈死〉よりもはるか手前にある、ごくごく小さな共同性へ射影された幻像にすぎない。