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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

唐突に part2

2010年10月21日 | 読書メモ
これを紹介してみる。

共立講座21世紀の数学 (16) ヒルベルト空間と量子力学
新井 朝雄
共立出版
Amazon / 7net

大澤真幸「量子の社会哲学」についての感想文を書いているわけだが、それを読んで「そもそも量子力学を文化社会事象・現象のようなマクロな対象に当てはめようと考えること自体が・・・ブツブツ」と思っている人が結構いるはずである。

道具としての量子力学だけを考えればそうだ。貴方はこう言いたいのでしょう、「それは微視的領域の物理学なのだから、文化社会事象・現象のようなマクロな事象・現象にあてはまるわけがない!」と。・・・いや別に、悪質な冗談を言いたいわけではなくて。

けれども量子力学の数学的な基礎はヒルベルト空間論にある。ヒルベルト空間というのは内積が定義された完備な(通常は無限次元で可分な)線形(ベクトル)空間のことである。無限次元ベクトルとは、要は関数のことである。量子力学の場合は波動関数である。そうした関数の集合に対してその位相(トポロジ、すなわち空間の幾何学的構造)が内積(無限次元なので積分形式)によって定まっているなら、それはだいたいヒルベルト空間である。「だいたい」というのは、これだけだと完備性が怪しいからであるが・・・まあ細かいことはいいだろう。

ヒルベルト空間の定義を満たすような対象であればヒルベルト空間の理論的な帰結を適用することができる。不確定性原理なんかもちゃんと導出できる。だから、それは微視的領域の物理でなければ適用できない種類の話ではない。実際、入門レベルでは案外知られていないことだが、同じヒルベルト空間論で基礎づけられている信号処理の分野にも「不確定性原理」がある。信号処理の場合は時間と周波数の不確定性関係になる。外的な制約条件がない場合、時系列信号における事象の時間と周波数は同時に厳密に決定できない。

微視的領域の物理でないものに対して量子力学と同様の図式・状況を見て取ろうとか目論むのなら、だから、まずはヒルベルト空間論をきちんと理解することが大事なのである。そういうところがちゃんとできていれば、物理屋さんも頭からデンパ扱いトンデモ呼ばわりはしないものなのである。大事なのだが、これをちゃんとやろうとする人はなかなかいないことになっている。ヒルベルト空間論はそんなに難しいものではない(そんなに難しかったら携帯電話なんか作れないぜ)のだが、それでも通常は理工系大学の専門課程で扱われる種類の数学である。つまり難しくはないのだが、大学というのはとかく物事を難しく教えたがるところなのである(笑)。

ほんというとわが恩師の教科書でも紹介した上で例の感想文を書きたいところだったが、それをすると俺が誰だか判っちゃうかもしれないしさ(笑)。だからそれ以外で一番いい教科書、特に独学者でもなんとか食いつけそうなものを紹介してみることにした次第である。上掲書は数学屋が読んでも困惑しない程度にちゃんと数学していて、でも書いてるのは物理屋だから、いい具合に物理のイメージが残っている、そこが良書と呼ばれる所以だ。

著者は同じ出版社からもっとぶ厚い上下巻(量子力学の数学的構造)を出していたりするわけだが、あれは数理物理の本格派用だ。そうでなくても「判んないとこがあったら教師でも先輩でも何でも聞きに行ける相手がいる人向け」だ。俺みたいな異分野のボンクラ独学者には、残念ながら歯が立たなかったね、あれは。

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「生きるための自由論」感想の休憩(i)

2010年10月21日 | 読書メモ
脳科学ネタの前半(I)は書こうと思えばどんな風にでも悪口が書けそうなところがあったのだが、後半(II)はさすがに著者の専門だから、素人のわたしがそんな簡単には突っ込めないような内容になっている。感想(3)を書く前にもう少し丁寧に読み込んでみなくてはならないようだ。というわけでアトランダムにメモを書く。

・「第三者の審級」
これは著者独自の術語であるらしいのだが、この本を読む限りのところでは単純に字句レベルで「権威(authority)」と置き換えて読んでも、とりたてて何の故障も生じないように思える。だったらそう書きゃいいじゃないかと一応思うわけだが、ひょっとすると専門の社会学では「権威」という語に対応する外延が日常語とは異なっていて、専門の読者は混乱をきたすのかもしれない。知ってる限り権威は権威だろうと思うのだが、わたしは門外漢だから自信を持って言い切れない。何にせよこの本だけを相手にする限りは「権威」でたくさんである。

・「自由」
そもそも発売前にあった煽りの文句に「人類にとって至上の価値である『自由』」とあることからして変だとは思っていたのだが、著者はそれこそ社会学者らしく、自由を論じても「社会あっての自由」だという前提からはどうしても離れる気がないらしい。わたしにとっての自由は、人類がそれを遺棄しようと、いな、そもそも人類などが存在しなくても、わたしが存在する限り、というより、自由とは何より先にわたしの存在のかけがえのなさのことだ。しかし、これは考え方の根本的な相違だから仕方がない。

・「連帯」
後半ではこの語がとにかくしょっちゅう出てくる。そしていちいち引っかかる。どうも著者は連帯しなければならない、連帯が必要だと感じているらしい。あるいは著者自身はどうでもいいと思っていたとしても、著者が考える社会においては連帯が必要とされている。著者の考える自由は「社会あっての自由」で、つまり多様性の源泉としての自由である。これは言ってみれば社会動力学方程式の「拡散項」、一方で社会が組織された統一体として存続するためには「反応項」もなければならない、その源泉が「連帯」で、そして著者の考えでは、現代社会にはそれが足りないらしい。

いま不足しているということはかつては不足していなかったということで、どうして不足していなかったのかというと権威=第三者の審級が残存していたからだ、というのである。一応権威がなくても連帯は可能だということを示唆するために、(I)の終わりに「エリコに下る道」というのが書かれているが、正直なんのこっちゃ判らぬ。

連帯々々うるせえなと感じる理由のひとつは、著者がどうやら資本主義を超える道を探していて、そのこととこの「連帯」という概念は深く結びついているからだ。つまり最後には「全人類よ『連帯』せよ」という超共産党宣言を出したいのだ、この著者は。

やなこった、とすでに喉元まで出かかっているわけだが、ここは一番我慢して読み込んでみなくてはならない。

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「生きるための自由論」感想(2)

2010年10月17日 | 読書メモ
この本はトンデモを多々含んだ本だと、まずは指摘した。次に本文を頭から見てみよう。と言っても本書の最初の方で脳科学の成果だ含意だ何だとゴタゴタ書かれていることには、わたし自身まったく興味がない(どうでもいい)。「脳科学は自由意志の問題を扱い得ない。リベットの実験結果が証明したのはまさにそのことである」単にそれだけのことを著者が気づいていないだけである。そんなことより何より、まず気になるのは、本書の発売前からわたしが最も疑っていたこと、つまり、この著者は脳科学に屈服したのかどうか、である。屈服したのだとすれば問答無用である。以後このblogでこの著者の著作や発言が肯定的に扱われることは一切ありえない。

結論を先に書いておけば、というか10月14日の記事ですでに書いているのだが、屈服はしていないと思える。この本で述べられている著者の立場は、以下の箇所で最も明確に示されていると思う。

脳科学は、脳の内部に、〈社会〉を見出した。しかし、快感原則を越えた現象とは、脳の外部に広がる〈社会〉の問題である。脳の外にも脳があるということ、脳と脳との関係を問題にしない限りは、それは、決して説明することはできない。(中略)脳の〈内的社会性〉を越えていくこと、〈外的社会性〉にまで視野を拡大するための方法を確立すること、これである。(p.78-79)

以上をわたし流儀に言い換えればつまり、脳科学は当節の流行だというだけで、時代的には意味あり気に見えるのだが、究極的にはナンセンスだと著者は言っていることになる。脳科学がその本質的な研究対象を脳に局限しなくなったら、それはもはや脳科学ではないからである。それは(上記引用の通りの「拡大」が進んだら)単なる社会構築主義の社会学にすぎない。後者がそんなに結構なものであるかはともかく、著者は少なくとも自身の専門である社会学の脳科学に対する優位性を主張する立場に立っているということだ。蟹はその甲羅に似せて穴を掘るという。誰しも同じことである。

けれども疑いが完全に晴れたとまでは言えない。実はさっきの引用部分の中に、その最も怪しい、疑わしい箇所もまた潜んでいるのである。

  脳の外にも脳があるということ、脳と脳との関係を問題にしない限りは・・・

「脳の外にも脳がある」?いったい何を言っているのだろうか?「(生理的)身体の外に身体がある」というなら、まだわかる。我々の手足は身体の外にある対象に対して作用を及ぼすような様態で存在していると考えることは、科学的に言ってまずは妥当である(厳密には疑問の余地があるのだが、わたし自身疑ったことがない)。で、まあそう言えるとすれば、その対象はしばしば他の(身体の外の)身体でありうる(たとえばも何も、性的な意味で)と考えることも妥当だということになろう。その手足の動きを生理的に統制(control)しているのは脳なのだから、脳も当然この生理的身体に含まれている。ここまではいい。

だが、このことから「脳の外の脳」という表現を導くことは、ただの比喩としてもできないはずである。物理として見れば脳は生理的身体の(幾何学的な)内部に埋め込まれた、生理的身体に随伴する制御器にすぎない。つまり自身の内側とか外側とかいうことを知りうるような様態で存在してはいないのである。にもかかわらずこんな表現を用いるということは、この本の著者が多少とも脳科学における基本的な錯誤に引きずり込まれた部分を残していることを示唆している。

もちろん、著者がこんな書き方をしているのは単に「うっかり」していただけだということはありうる。でも脳科学を「拒否」あるいは「全否定」しているわたしなら、こういうところで「うっかり」することはまずない。事実こうして容易に指摘できるわけだ。著者は本文中の別の箇所で「脳科学の含意をただ拒否するだけではダメだ」などと、まるで道理を弁えた大人のようなことを書いているが、それが知的な公平性の現れというよりは曖昧さの現れでしかないということはありうるのだ。そしてその種の知的な曖昧さこそが現実の地獄絵図を招来するということもまた、ありうるのだ。

上記引用部分は批判的な文脈のそれだと言っても、そもそも「脳は(比喩でも何でもなく)〈社会〉そのものだ」という、著者が「脳科学の含意」と主張するものが、その言葉の通りならどれほど恐ろしい含意であるのか、この著者は一番肝心なことに気づいていない。単刀直入に書けば「脳は社会そのものだ」という言明の含意は「恐怖の頭脳改革」である。だってそうだろう。脳が社会そのものだというなら、社会改革とはすなわち脳外科シリツのことにほかならない。小学生にだって判る話だ。


恐怖の頭脳改革 / エマーソン・レイク&パーマー
ビクターエンタテインメント
Amazon

小学生は普通知らないことをひとつつけ加えておけば、こうしたことへの恐るべき鈍感さは、脳科学や脳科学に誑かされたロボット工学やなんかの研究者の間に、さほど珍しくもなく見出されるものだということである。

ここでは特に名を伏せておくが、あるロボット工学の研究者はその著書の中で、現代の脳科学の知見を置いて考えるとロボットに意識や意志を持たせることはいずれ可能だといい(そう考えること自体は勝手だ)、そのロボットが悪事(意図して人間に危害を与えること)を働かないようにするためには、その「意識」に対応する計算機プログラムの中にロボットが悪心を抱いたらそれを制止あるいは封止するようなコードを埋め込んでおけばいいという意味のことを主張し、あまつさえそうすることが「技術者として当然の倫理」だとまで言ってのけた。

もし仮に意識を持ったロボットが存在したら、それはほとんど、あるいはまったく人間と同じ存在だ。だから、もし彼(ロボット屋)の言うような「応用倫理学」の行使が正当化されうるものであるならば、人間に対しても基本的に同様の「応用倫理学」の行使が正当化されるであろうことは火を見るより明らかである。だがそういうことに、そのロボット屋はまったく気がついていなかったのである。

ロボット屋が天下に晒した赤っ恥のことはこの際どうでもいい。だが、この著者もまた同じ種類の鈍感さの持ち主なのか。この疑念は当分、少なくとも本書の以後の部分を読み進める間は維持しておくに値する。

(つづく)

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大澤真幸「量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う」感想(前篇)

2010年10月16日 | 読書メモ
この本がまた「生きるための自由論」にもまして奇妙な本である。トンデモとかデンパだとか、もうそんなこと言うのも面倒くさくなってくる。科学史(物理学史)上の大理論3つ(ニュートン力学、相対論、量子論)と、それぞれが登場した時代における西欧の文化社会事象・現象との間に何らかのつながりがあることを、どれひとつを取り出してもほとんど無理矢理な手口で矢継ぎ早に論じることを延々繰り返し、そんな荒唐無稽の牽強付会(こじつけ、屁理屈)が全部で33章、註を除いて本文343ページ。いったい著者は何をしたかったのか?

ま、割と簡単なことだ。題名が「量子の社会哲学」である。あっさり言えば著者は社会学の基礎論としての社会哲学に、なんとかして量子論の、いや量子力学の論理の本質的な部分(エッセンス)を組み込もうと目論んでいるわけなのだ。

そういう発想自体は、たぶんそんなに珍しいものではない。これを書いてるわたしを含めてデンパな考察、トンデモな思想が必ず一度は構想したがることだと言っていいくらいのことである。で、そういうことを現にやってる本人のひとりとして言えば──わたし自身は一応頑張って正気の範囲に留まろうとしているつもりなのだが──たいていの場合はすぐに量子力学のパラドクシカルで神秘的で日常性を逸脱した、かのような実験結果や主張それ自体に魅せられ、ほとんど瞬く間に尋常な俗世の思考領域を離れて行ってしまう。

真面目で勉強熱心な物理学者やその学生でも、まあたいてい一度はその世界に──具体的に言うと「観測問題」に──魅せられることになっているらしい。物理屋の知人からさんざん聞かされた話だ。そのくらいよくある、ありすぎるくらい陳腐な熱病なので、物理屋の世界ではその処方箋も今やすっかり定まっているのだそうだ。要は一言「ノーベル賞を取ってからやれ」。その一言ですごすごと引き返してくればよし(結構帰ってくるのだそうな)、帰って来なかったらもう知らない、物理の世界からは永久にサヨウナラ、今生の別れである。でもまあ可哀想だから物理学会の特定セッション(要はあれだ、特殊学級みたいなもんだ)の席はいつでも空けておいてあげるよ。

そういう、知識がチャレンジすることとしては最も危険な領域に、正気を保ったまま踏み込み、踏み止まり続けるにはどうすればよいか、この本はその方法論的な試みのひとつなのである。

たいていの誤りは量子力学の実験事実や数学を、無造作に非物理的な領域にスライドさせて適用してしまうことから生じる。わたし自身が以前に試みてみて判ったことだが、確立された量子力学の解釈やそれを支える数学というのは、あくまでも微視的領域の物理学(もしくは物理化学)で使うのに使いやすいように作られている。ほかの領域に持ち出そうとするとあらゆる部分が障害になると言っていいくらい、非常に特化されているのだ。そういう、微視的領域の物理学に強く特化された理論をそのまま非物理の領域にスライドさせたりすればどうなるか?そう、素粒子が意識を持っていたり、あるいは宇宙全体が大いなる意志を、妙にせせこましい道徳観念と一緒に持っていたりするような(笑)典型的なトンデモ理論が、いともたやすく出来上がることになるのである。

だからそういうのはやらないで、この著者は量子力学の論理に内在するはずの本質をとりあえず未知とした上で、その実験事実や理論的主張の集合Qに含まれる任意のq∈Qと、文化社会事象・現象の集合Cに含まれる、これも任意のc∈Cとを無造作に掛けた〈q|c〉をたくさん作り、一冊の本にたたみ込んで総和を取ろうとしているのである。個々の〈q|c〉はほとんどただのこじつけにすぎなかったとしても、総和(平均)を取ればノイズは消え、次第に本質Xのスペクトルだけが浮かび上がってくるのではないか、という、いわばスペクトル逆拡散のようなことを目論んでいるのである。浮かび上がるスペクトルはXそれ自体ではないとしてもCの双対空間上への射影ではありえようし、またCの全体とはつまり社会哲学の全領域に該当しているわけである。

この本で扱われているのは専ら同時代の西欧社会W⊂Cに限定されているわけだが、そのくらい限定した方がいいんじゃね、という読みが著者の側にはあっただろう。また出版社の方にとっても、そういう内容の方が、わが国にはまだまだたくさんいる知識と教養のスノッブな皆さんがたくさん勘違いして買ってくれて、ついでにどうでもいいことをさんざん悩んだりしてくれるかもしれない(それがまた別の本を売るネタになる)じゃないか、という読みがあっただろう。

ともあれなかなか面白い、ユニークな試みではあるとわたしには思える。とはいえ、この作業全体がただのデンパな徒労であるのかないのか、それは、結局最後に何が浮かび上がってきたのか、それによって判断しなければならない。それを後半で書くことにしよう。

(つづく)

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大澤真幸「生きるための自由論」感想(1)

2010年10月14日 | 読書メモ
最初に言うが、この本はトンデモな本である。トンデモな本が心底から嫌いな人は読んでも損するだけである。もっとも、このblogはトンデモではないにしても時々かなりデンパだから(笑)、そう言っただけでは信用しない人もいるだろう。この本の最後の「付・一つの壁から無数の壁へ」を読めば容易に判断できる。近所の本屋で確認するもよし、さしあたり以下の引用で判断してもらってもいいだろう。

さて、これらの特徴、すなわち、第一に、敵とされる他者は、しばしば不可視で、「われわれ」との相違を示す明確な指標をもってはいないということ、第二に、階級格差の底にいるような貧者が、そのような他者の典型的な姿でもあったということ、これらのことを念頭においた上で、金融派生商品にもう一度目を向けてみよう。その中に細切れになって含まれている、サブプライムローン担保証券のあり方は、今述べたような他者の存在の仕方とまったく相同ではないか。サブプライムローン証券は、金融派生商品に確実に混入しているはずだが、それは他の証券の間に入り込み、それらと判別ができない。(中略)そのサブプライムローンの恐怖は、貧困に沈んでいる者たちへの恐怖の変種である。
(中略)
CDSこそは、サブプライムという他者の脅威を排除する完全な「壁」である(はずだった)。しかし、2008年の金融破綻がわれわれに示したことは、CDOにせよ、CDSにせよ、結局は、壁として機能することはなかったということである。つまり、これらの壁は、簡単に破られてしまったのだ。
(「一つの壁から無数の壁へ」)

何じゃいこれは!正直、マジで呆れてしまった。呆れたついでに、以下の本を改めてオススメすることにした。

ザ・クオンツ 世界経済を破壊した天才たち
スコット・パタースン著
永峯涼訳
角川書店(角川グループパブリッシング)
Amazon / 7net

「土曜日の本」でこれを紹介したときは、こんなつまらぬ数学小僧どもの盛衰記を、いまさら何か大事でもあるかのように読まされたことに辟易して、(とはいえ、別におかしな本ではないから)リンクは張ったが、画像つきにはしていなかった。でも上の大澤センセイの言うのを読んでいると、そういうものでもないかなという気がしてきた次第だ。サブプライムローンが「細切れになって含まれている・・・貧困に沈んでいる者たちへの恐怖の変種」だというような解釈がいかにバカ気たものであって、金融工学用語のアンチョコ本のほかはマスコミ報道や何かの煽り含みの説明を鵜呑みにしたとでも考えなければやりようもない種類の短絡であるか、その程度のことは上掲書を読めばたぶん誰にでもわかるはずである。

この本(生きるための自由論)もそうだし、後から出てくる「量子の社会哲学」もそうだが、一見したところはこの手の心底バカらしい短絡や屁理屈、ポストモダン思想に特有の「ファッショナブル・ナンセンス」の気配がぷんぷん臭う記述に満ち満ちている。こんな怪しい本を、それも2冊とも、曲がりなりにも画像つきのオススメ本扱いにして、おまけに詳細目次までわざわざ書き写してうpしたりしている、そのわけはこれから後でいう・・・つもりなんだけど、自分でもいささか不安だったり(笑)。

(つづく)

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大澤真幸の新刊2冊(とりあえずリンクと目次)

2010年10月14日 | 読書メモ
生きるための自由論 (河出ブックス)
大澤 真幸
河出書房新社
Amazon / 7neticon


「生きるための自由論」目次

まえがき
I 〈自由〉の所在
1. 「心-脳」問題と自由意志
 1.1 問題
 1.2 脅かされる自由意志の地位
2. 心-脳の基本的な関係
 2.1 デイヴィッドソン※の非法則論的一元論
 2.2 心-脳の基本的な関係
 2.3 ベンジャミン・リベット批判
3. 〈社会〉としての脳
 3.1 脳科学の教訓
 3.2 盲視
 3.3 幻肢の治療
 3.4 カプクラ症候群
 3.5 右脳と左脳
 3.6 エイリアン・アーム
4. 可能=受動
 4.1 潜在能力
 4.2 日本語の「(ら)れる」
 4.3 可能と受動
5. 快楽と苦痛
 5.1 快感原則を越えて
 5.2 欲望の原因/対象のギャップ
 5.3 自由の社会性
6. 政治思想的含意
 6.1 新たなる傷
 6.2 エリコに下る道

II 連帯の原理としてのリベラリズム
1. 社会構想の二つの矛盾する目的
2. リベラル・ナショナリズム/憲法パトリオティズム
 2.1 リベラル・ナショナリズム
 2.2 憲法パトリオティズム
 2.3 ナショナリズムの二つのアスペクト
3. リベラリズムへの純化
 3.1 「真の普遍主義」
 3.2 Cogito
 3.3 資本主義との連動
4. 新しくて旧い批判
 4.1 リベラリズムの三つの論拠への批判
 4.2 多文化主義的批判の新しさ/旧さ
 4.3 形式の実質的効果
5. 普遍性の発生
 5.1 マルクスの疑問
 5.2 普遍性の発生
 5.3 資本主義の驚異的な適応能力
 5.4 不寛容への寛容
6. 規範/反規範
 6.1 非公式の(反)規範
 6.2 リベラルな革命がありうるとすれば・・・・・・
7. 自由の根源へ
 7.1 「私は私である」
 7.2 身体の自己所有
 7.3 もうひとつの〈自由〉
 7.4 連帯の原理としてのリベラリズム
付・一つの壁から無数の壁へ
あとがき

見栄講座:本書ではD. Davidsonのカタカナ表記が「デイヴィッドソン」と綴られている。・・・どうだっていいことだが、大澤センセイくらい偉ければともかく、素人がそう綴ると哲学徒が嬉しがる。彼らを喜ばせたくない(むしろ舌打ちさせておきたい)なら「デイヴィドソン」と綴ろう。


量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う
大澤 真幸
講談社
Amazon / 7net
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「量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う」目次

まえがき
第I部 科学革命以前
 第1章 寓話:神のすべての名
 第2章 リンゴは法則を知っていたのか?
 第3章 立体芸術への視線──円の呪縛
第II部 最初の科学革命
 第4章 二種類の眼
 第5章 科学と芸術の聖俗革命
 第6章 科学・王・資本
 第7章 光の運命
第III部 相対性理論と探偵
 第8章 観測者の否定神学
 第9章 相対性理論と探偵
 第10章 無意識の発見
 第11章 音楽の脱合理化
第IV部 量子力学の神秘
 第12章 現実性としての可能性
 第13章 二つの孔
 第14章 キュビズムとEPR効果
第V部 誤りえない指導者と必然的に失敗する指導者
 第15章 「例外状況における決断」としての観測
 第16章 二人のモーゼ
 第17章 失敗する指導者
第VI部 「現れ」と「本質」
 第18章 騙される観測者
 第19章 「現れ」vs.「本質」
 第20章 キリストとブッダ
第VII部 レーニンの神的な暴力
 第21章 神的な暴力
 第22章 量子力学とともにある「歴史哲学テーゼ」
 第23章 革命における「党」の機能
 第24章 独裁という名の民主主義
 第25章 死せる文学の秩序──スターリニズム
第VIII部 時間の発生
 第26章 注意と散漫
 第27章 遡行的因果関係
 第28章 量子力学の隔時性
 第29章 物理学における「時間」
 第30章 事前/事後の様相転換
 第31章 時間的諸次元の発生
 第32章 三次元主義から四次元主義へ、そしてさらに・・・・・・

第33章 無知の神

あとがき

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サール「志向性」

2010年10月12日 | 読書メモ
(Jan.30,2010)
そう言えばしばらく品切れだったこの訳書が増刷されているようだ。
「セブンアンドワイ」が「セブンネットショッピング」になってからはリンクを作っていなかったので、試しに作ってみる。
志向性―心の哲学
John R. Searle
誠信書房
Amazon / 7net


(Oct.12,2010追記)
なんかいつの間にかまた表紙画像が表示されなくなっているので、他のリンクと同じスタイルに改めた。

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H.L.A. ハート「法の概念」(みすず書房)

2010年09月02日 | 読書メモ
「制度論の構図」に促されて読み出したもう一冊。
法の概念
H.L.A. ハート著・矢崎 光圀訳
みすず書房
Amazon/7net

わたしにとって法学というのは哲学以上に縁の薄い世界である。縁が薄いどころではない。誰でも知ってるような法律の条文を別にすれば、あらゆる知識分野のうちでわたしが最も何も知らない分野であると言って間違いない。我ながら薄気味悪くなってくるほど、わたしのアタマの中は「法律的なもの」に関する知識だけがきれいさっぱり抜け落ちていて、空白のままなのである。

なんでそんなことになってるのかと言えば、どうもわたしはコドモの頃から、法律というのは、現実がどうあれ本質的にはジャマなものだというか、社会秩序が失敗した場所にあらわれる茶番とか必要悪とか、そういった種類のものだという感じしか持ったことがないのである。きっぱり言えば、それは知識とか知性とかいうものに属する何かだとは金輪際思ったことがなかった(し、たぶん今も思っていない)。欧米の社会では弁護士というとソンケーされる職業の第一だというのが、どういう観点から考えてもまったく判らない。判ったふりをする気にさえならない。欧米人は時々アタマがおかしいんじゃないかと思える、その理由の筆頭みたいなものである。

それはたぶん偏見とか誤解というものには違いあるまい、とも自分では思っているわけだが、この年齢になるまで、その偏見と誤解をどうにかするような契機は一度もなかったわけである。せっかくだから、この機会に少しでも取り返しをつけたいと思っている。わたしの偏見と誤解がどうあれ、法のようなものが社会にかかわって存在することに違いはない。少なくともその様態が判らないということだけは、知的に不満足なことである。

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ストローソン他・門脇+野矢編「自由と行為の哲学」(春秋社)

2010年08月24日 | 読書メモ
「自由と行為の哲学 (現代哲学への招待Anthology)」
原著者:P.F. ストローソン, ピーター・ヴァン インワーゲン, ドナルド デイヴィドソン, マイケル ブラットマン , G.E.M. アンスコム, ハリー・G. フランクファート,
編者:門脇 俊介, 野矢 茂樹
訳者:法野谷 俊哉, 三ツ野 陽介, 近藤 智彦, 小池 翔一, 河島 一郎, 早川 正祐, 星川 道人, 竹内 聖一
春秋社刊

7net
/ Amazon

さっき注文してきた。ひと通り読んだら(いつのことかは判らないが・・・)感想を書こう。

今年の夏休みはまるまる一週間、実家の居間で高校野球を見ながら(!)ずっと「制度論の構図」を読んで過ごしていた。読むほどに、制度論や権力論を含む社会的存在論をこの本の先へ進めるには(あるいはこの本が、ひょっとすると不必要に難しく受け止められてしまっている、その場所から解き放つには)、まさに「自由と行為の哲学」が重要だということを改めて感じた。

(Aug.24,2010付記)
この本の目次が知りたい人が結構いるらしい。そういう検索語でググってこのblogに来る人がちらほらいるので、調べたら版元のサイトにも目次が掲載されていない。困った本屋だ。わたしは著者と訳者の名前のリストを見ただけで「これは買い」だと判断したわけだが、そういう人ばかりではないのである。

本は今日届くので、読む前に目次を書き写すことにしよう。この本自体がどうであれ、「自由と行為の哲学」への関心が高まることは、ほとんどあらゆる意味で望ましいことだとわたしは思っている。

●「自由と行為の哲学」目次と各論文の初出

序論 野矢茂樹

第I部 自由
第1論文 自由と怒り P・F・ストローソン (法野谷 俊哉訳)
P.F. Strawson, "Freedom and Resentment", Proceedings of the British Academy, 48, 1962.
第2論文 選択可能性と道徳的責任 ハリー・G・フランクファート (三ツ野 陽介訳)
Harry G. Frankfurt, "Alternate Possibilities and Moral Responsibility", The Journal of Philosophy, 66, 1969.
第3論文 意志の自由と人格という概念 ハリー・G・フランクファート (近藤 智彦訳)
Harry G. Frankfurt, "Freedom of the Will and the Concept of a Person", The Journal of Philosophy, 68, 1971.
第4論文 自由意志と決定論の両立不可能性 ピーター・ヴァン・インワーゲン (小池 翔一訳)
Peter van Inwagen, "The Incompatibility of Free Will and Determinism", Philosophical Studies, 27, 1975.

第II部 行為
第5論文 行為・理由・原因 ドナルド・デイヴィドソン (河島 一郎訳)
Donald Davidson, "Actions, Reasons, and Causes", The Journal of Philosophy, 60, 1963
第6論文 実践的推論 G・E・M・アンスコム (早川 正祐訳)
G.E.M. Anscombe, "Von Wright on Practical Inference", P.A. Schilpp and L.E. Hahn (eds.), The Philosophy of Georg Henrik von Wright, Living Philosophers Series Volume XIX, La Salle III: Open Court, 1980.
第7論文 計画を重要視する マイケル・ブラットマン (星川 道人訳)
Michael E. Bratman, "Taking Plans Seriously", Social Theory and Practice, 9, 1983.
第8論文 反省・計画・時間的幅をもった行為者性 マイケル・ブラットマン (竹内 聖一訳)
Michael E. Bratman, "Reflection, Planning and Temporally Extended Agency", The Philosophical Review, 109, 2000.

読書案内
後記
収録論文のデータ
索引

(Aug.28,2010)
訳者名に漏れがあったのを修正し、各論文に訳者名を加えた。まだちょっとずつしか読んでいないので感想を書くなどというわけにはいかないが、とりあえず、この本は「読書案内」も大変充実している、ということを追記しておこう。

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盛山 和夫「制度論の構図」(創文社)

2010年06月11日 | 読書メモ
制度論の構図
(創文社現代自由学芸叢書)

盛山 和夫
創文社
Amazon/7net

こないだ買って今読んでいる途中。

とにかく現在は心身ともに全部がダウンしきっているので、書評らしいことを書く気力もない。ただ思うのは、MSWは本来このセンセイとかが訳してくれると一番いい本だということである。もっとも、この本の著者はわが国の社会学ではトップクラスに偉い東大教授の人である。そんな偉い人がいまさら異分野の翻訳など手がけるとは思えないから、このセンセイの弟子筋とか学生とかで普通に日本語が書けるというような、だいたいそんなあたりの人がやってくれたらいいなあ、と思う。

あちこちで眺めているとこの本は難しいとか退屈だとかいろいろ言われている。まあ東大の先生が書いた本だから退屈なのは確かだ(笑)。読んでるうちに居眠りするほどつまんない大学教師の文章なのである。しかしこの本の初版が出たのは15年くらい前だが、今ならそれほど難しくはない。MSWを「読んだ」という人なら読みこなせるはずである。そして文章の退屈はともかくとして、内容それ自体は刺激的で面白い本だということもわかるはずである。MSWを読んだ後に読むべき制度論の、日本人による著作のうちで現時点ではたぶん最上のものである。

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色川武大「うらおもて人生録」(新潮文庫)

2010年05月03日 | 読書メモ
うらおもて人生録 (新潮文庫)
色川 武大
新潮社
Amazon/7net


このblogでも何度か紹介してきた桜井章一の人生談義は、ユニークな身体論の本として読めば面白い、興味深いことがたくさん書かれているけれど、本当のことを言って、人生がどうのこうのということになるとそんなにタメになりそうなことは書かれていないと思う。現役で仕事を続けてはいるが、かつての「雀鬼」も今は孫も何人かいるようなお爺さんになったなと感じるところがある。

それはそれで、いずれはそうなる、あるいはすでになりつつある人にとっては参考になるだろう、けれどもたとえば、わたしみたいに孫はおろかコドモもいない、予測可能な未来に存在しそうな気配もないという人にとっては「ああ、それはよかったですね」という言葉しか出て来ないということになっても仕方がないのである。

そういうんじゃなくて本当に人生のタメになるような本が読みたい、という人がいるとしたら、わたしならこの一冊を薦める。他に薦めるものは何もないと言いたいくらい、現代日本ではほとんど唯一の「人生指南」の本だと思う。だいたい、桜井章一を退けても薦めたい、薦めても誰からも叱られずに済みそうな(笑)人生談義の本となったら、それはもうこの本を持ち出してくるよりほかにないわけである。

といってこの本の中に文字通り「タメになる」ことが書かれているかというと、本当はそんなには書かれていない。ご本人がこの本の最初の方で「俺なんてくだらん男なんだよ」と書いている通り、そういう言い方をすればまったく滅茶苦茶な人生を過ごしたといっていい人である。この本の中でも具体的に「これをこうして・・・」的なことが書かれている箇所はいくつかあるけれど、それをそのまま受け取って実践する人がいたら、絶対に保証できるが、人生破滅の一直線を突き進むことになるはずである。だって本人がそうなんだから。

どこのイシャが診断書にそう書いたのか知らないが「心臓破裂」で亡くなったと、死後に出たたいていの本の奥付にはそう書かれていた。交通事故やなんかで物理的に圧迫されたわけでもないのにそんな死亡理由があってたまるかと思うわけだが、色川武大ならひょっとするとあってもおかしくないかも、と思わせるところがある、事実それほど凄惨な生涯を送って終えた人である。この本の中でも字面の上では「9勝6敗」ということを著者色川は語っている(これは色川の十八番だ)が、ご本人は時々ひょっこりAクラス、いや阿佐田哲也杯に因んで言えばS級の優勝争いに顔を出しては皆を驚かせたりしたことがある程度で、あとはほとんど2勝13敗くらいの戦績で低迷し続けたと思う。閻魔様が競輪新聞を参照して実証的に評定するならそういうことになるしかなかろうと思う。

そんな人が人生の来し方を語った本がどうして人生指南の書としてオススメで、たとえばamazonのカスタマーレビューでも手放しで絶賛している感想ばかりであったりするのか。要するに色川武大という人は、昔の言葉で言えば生涯を「ツッパリ」通した人だということになると思う。人と世間の性懲りのなさや抜け目のなさ、社会制度のびくともしない理不尽と頑健さ、さらには天然自然のどうしようもない雄大さといったことにその都度ぶちあたってはやりこめられたり敗北感や劣等感を抱いたり、時には感嘆の表情をさえ浮かべたりしてみせながら、その実最後までこれらのあらゆる強力に対抗して文字通り自分を「ツッパ」るように存在させ、そのままの姿勢で生涯を押し通す道を進んだということである。

そういうことをすればひとりの人間の生涯は凄惨なことになるのに決まっている。確かこの本の冒頭には「優等生は読まなくていい」という一言が書かれていた。それはつまり(天然自然を含めて)強勢をもつものの強さに乗っかって生きしのいで行けるならそうすればいい、人の書いたものを読むまでもなかろう、という意味だと思う。けれども何かの不運からそうできなかったか、あるいはできたとしても確かに自分の力ではない力の上に乗っかって生きて行くことにどうしても納得できない人はどうすればいいのか。どうするも何も本当は破滅の道があるだけなのだ。しかし、その道をせめて最後まで走り切ろうと思うなら──思うはずだ──たとえば俺はこんな風にやってきたのだが、という体験の過去と現在がこの本には書かれているのである。

こう書いてもまだ立派すぎるということになるかもしれないからもうひとつだけ書いてみる。わたしなどが何より驚いたのは、ご本人の死後も色川武大の母親という人は存命で、どこかの週刊誌の取材に答えていわく「あんな穀潰しの極道息子が」というような意味のことを吐き捨てるように語っていたことであった。色川武大は進退きわまるような危機に陥るたんび生家に転がり込んでは、しばらくほとぼりを冷ましているということがちょくちょくあったものらしい。今でいうところのニートである。そうでなければ実の母親が、息子が死んだと報されて吐き捨てるように言うわけもないだろう。そういう、ほんとの「裏話」は、さすがにこの本の中には直接的には書かれていない(笑)。

見た目はどんなに格好よくても、ツッパリの不良少年がバイクで転んで早死にもせずに生き延びたという場合は、たいていそういうみっともないエピソードのひとつやふたつは隠されている。けれどもそのカッコ悪さ、みっともなさの次元で折れてしまうわけにはいかない自分がすでに存在していたら、その人はいったいどうすればいいのか。何をどうすることが「生きている」という言葉にかなうことでありうるのか。曲りなりにもそれに答える、答えようとする姿勢で書かれた本は、少なくとも現代日本にはこの一冊しか存在していない、とわたしは思う。

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ミシェル・フーコー講義集成7「安全・領土・人口」(筑摩書房)

2010年04月14日 | 読書メモ
ミシェル・フーコー講義集成〈7〉
安全・領土・人口
(コレージュ・ド・フランス講義1977-78)

Michel Foucault
筑摩書房
Amazon/7net

中山元「フーコー 生権力と統治性」のネタ本のひとつである。左の紹介文でも書いた通り、この本は高価(6,825円也)なので、このクソ不況のさ中にやたらめったらオススメするというものではない。中山本その他のフーコー権力論の解説書を読んで、この上はどうしてもフーコー自身のテキストにあたってみなくてはの感じを持った人が買って読めばいい本である。けれども内容の充実は十分値段に見合っていると判断したのでここにリンクを張ることにした。フーコーもおフランス哲学の伝統に沿って著書はレトリカルに懲りまくっててもう、とにかくわかりにくいのだが、これは講義録だから一読してチンプンカンプンというような箇所はない。ただし分量がハンパじゃない。四六版ではないA5版で500ページ、各ページが文字でびっしり埋まっている。ただ漫然と通読するだけでも季節がひとつ過ぎてしまうことだろう。

中山本のネタ本としてもう一冊(同8「生政治の誕生」)あるのだが、そっちはまだページも開いてない。正直、こっちを開く前に夏が過ぎてしまうかもしれないと思っている。

ps. これを今日書いているのは、つまり、これの英訳本を今日注文したからなのだが、その英訳本はペーパーバックで2,000円しなかった。もちろん造本とかは日本語訳の方が圧倒的にいいに決まっているが、それにしてもなんで3倍以上も違うんだ・・・

ps.2 そう言えば、「土曜日の本」を専らそこで買っている本屋の親父が、学校の図書館とかは5000円以上の本は備品扱いになってしまうから滅多に買ってくれないのだとか何とか言ってボヤいていた。この本なんかは熱心な高校生とかにたくさん読まれるべきではないかと思うわけなのだが、まあ、学校の図書館にそんな結構な本などがあったためしがないのは、俺が高校生の頃でもそうだったっけな。

(Apr.17,2010追記)
注文してあった英訳本を今日受け取った(昨日には届いていたらしい)。どうもこの表紙が妙にカッコいいので、大きい画像で貼ってみる。ただし画像が大きいからって大きくオススメしているわけではない。おフランスの哲学者の中でもフーコーは英米でも必読文献の筆頭(だとわたしには思える)で、ほとんど例外的な世界性を持っている。フーコーのテキストが英米でどう訳されているか、単に英米哲学の文献を読むためにもそれを知っておく必要と価値があるのである。

Foucault, Michel, "Security, Territory, Population: Lectures at the College De France,"
trans. by Graham Burchell, Arnold I. Davidson (ed.), Palgrave Macmillan, 2009

Amazon


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レヴィナス「実存から実存者へ」(ちくま学芸文庫)(ver. 2.0)

2010年04月11日 | 読書メモ
(Mar.10,2009)
現象学系統で一冊。入門書とは言えないが、読んで面白い一冊。
実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)
E・レヴィナス著・西谷修訳
筑摩書房
Amazon/7net

サルトルはレヴィナスのフッサール論文を読んで現象学に走ったと言われている。この本はそのフッサール論の本ではない、どっちかいうとハイデガーの存在論に楯突いている本なのだが、実はこの本の方がサルトルのキモチがよくわかるような気がする。

(Apr.11,2010)
「倫理と無限」を紹介したら検索して見に来た人が結構いたので、改めてこちらもオススメしてみることにする。この本はレヴィナスが「ある(イリヤ)」について述べた最初の、また最も目の詰まった現象学的分析をやっている本として有名なのだと思うが、わたしがこの本をオススメするのは必ずしもそれではない。そっちはそっちで面白いけれど、計算機屋のわたしが読めばそれは「ヌルポインタ参照」のことだと直ちに判ってしまう(いやもちろん皮相きわまりない理解だということは判っているのだが、これ以上の明解な説明に、わたしは出会ったことがない)から困る。

それよりも、この本で最初に出てくるのは「怠惰」あるいは「疲労」の現象学的分析というべきものだ、ということの方を強調したいのである。それもアレだ、朝目を覚ましたのはいいがどうしても寝床から出る気にならない、というあれ、いっぱしの怠け者(?)なら経験したことがないはずがないあの経験を取り上げているわけである。

現象学が何であるか、フッサールやハイデガーの哲学がどんなものであるかはとりあえずどうでもよい、というかあんなものがそう簡単に素人にもわかるというものではないと思う。だがわたしの知る限り哲学が「怠惰の哲学もしくは現象学」から始まっている本はこの本くらいのものである。去年の感想でレヴィナスから現象学に引き込まれた「サルトルのキモチがわかる」と書いたのもそういう意味である。

真面目な話、怠惰についての考察を含まない倫理学、「義を見てせざる」勇なき人や人の状態についての考察を含まない倫理学など無意味だとわたしは思っている(実際、この本を読んだ後で知ったことだが、そういう「哲学」ならちゃんとあるのである。合理性論の一部で「意志の弱さ」についての哲学的分析というものが、ちゃんとあるのだ)。この本は、だから、哲学の背景を持つものとしては唯一まともな倫理学であるレヴィナスの後年の議論の哲学的基盤となった本なのである。仔細に分け入って読めば読むほどわけがわからなくなる本であることも確かなのだが(笑)、それを言ったらレヴィナスの著作は全部そうだ(笑)から、レヴィナスを読むならまずこれを嫁、「顔」がどうしたこうしたという話はその後でいい、とわたしなら言う。

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中山元「フーコー 生権力と統治性」(河出書房新社)

2010年04月07日 | 読書メモ
(Mar.25,2010起稿)
フーコー 生権力と統治性
中山 元
河出書房新社
Amazon/7net

もうまったく題名の通りの本である。M・フーコーの1970年代の仕事を解説した本である。これをフーコー入門としていいかどうかはよくわからないが、「生権力」とか「パノプティコン」とかいう語彙にあまり馴染みがないが興味はあって、しかしフーコーの著作を読んでもいまひとつよく判らなかったという人は、この本を読むともう少しは判るかもしれない。「しれない」というのはつまり、この本は昨日届いたばかりでわたしもまだ読み始めたところだからだ。「しれない」でも判りやすさの傾向性はあるはずだ、というのは、フーコー自身のテキストにあるような回りくどさは、著者自身がダイジェスト(消化)する過程でだいぶ軽減されていると思えるからだ。

それが例としていいか悪いか、当たっているかいないかはさておいて、著者は歴史的な事例からいま現在の事例をも引き合いに出しつつ、フーコーの権力論の鍵概念を、フーコーの著作からの引用を交えて解説している。歴史的な方はともかく、現在の事例について言えば、今日読んだ限りのところではまあ、大体合ってると思うから、わたし同様「フーコー好きのフーコー知らず」な読者にはおすすめしてみたい。ちと高い(2,940)んだけどな。

(Apr.07,2010追記)
この本、上では「ちと高い」と書いたが、この本の特に後半でネタ元になっているフーコーの講義録は、主なものだけ揃えても軽く万札が飛んで行くほどバカ高いのである。

正直、あんな高価な本は、内容にかかわらず気軽にオススメする気にはならない。さしあたり最小限の書誌情報だけをここに掲載しておく。

  ミシェル・フーコー講義集成7「安全・領土・人口」(ISBN 9784480790477)
  ミシェル・フーコー講義集成8「生政治の誕生」(ISBN 9784480790484)
  (ともに筑摩書房)

つまり今日この2冊を買ったわけだが(笑)、読み込んでみた上で値段分の価値があると思ったら画像つきのアフィリンクに格上げさせていただこう。

中山元の本もようやく読了した(いまわたしは空いてる時間の大部分を私訳作りに費やしていて、読書は通勤電車の中くらいしかできない)。結局のところ上記の講義録のダイジェストだと言えばいい本だと思う。訳者の文章にわかりにくいところはほとんどなかったし、フーコーの権力論の平易な入門書・啓蒙書として中学生にもオススメできる。上の2冊の内容が1/4くらいの値段で読めるのだから、さしあたりアタリをつけてみたい向きには・・・やっぱ高えよ。特に中学生や高校生には。

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唐突に

2010年03月29日 | 読書メモ
こんな本をオススメしてみる。
言語と計算 (4) 確率的言語モデル
北 研二 , 他
東京大学出版会
Amazon/7net

この本はわたしがまだ複雑性の研究をやっていた頃に読んだもので、結構古い本(1999年刊)だ。「これからは言語学もこれかな」と当時感じたものだったが、あにはからんや、確率的言語モデルと言ったら和書では今でもほとんどこれ一冊しかないくらいの状態のままである。応用研究としては相当に進んでいるはずだと思えるのだが、やっぱ言語学としては異端すぐるのであろうか。

・・・と書いてうpしたのが今朝の早朝で、出勤前のことだ。さっき帰ってきて、これから続きを書く。

なんでこれを唐突にオススメしようとしているのかといって、いつもの気まぐれには違いないのだが、サールの本の私訳を作っていると、一応言語哲学だからやっぱり非常に論理的なのである。論理的というのはこの場合、概念や命題の外枠が、ひとつひとつかっちり画定されているというような意味で言っている。それは、そうでないと哲学の実行にならないのだから仕方がないわけだが、わたし自身は感覚的に、言語というのは本質的に曖昧なところがあるものだと思っていて、その感覚を手放したくないと思っているところがあるわけである。この本はそうしたわたしの感覚がただの感覚ではなく、少なくとも応用上の意味が確かにあるということを、どちらかと言えばオーソドックスな言語学よりはより計算機屋の語彙に近いところで示して見せてくれた本である。

生物学で言えば、たとえば遺伝型と表現型の対応関係は、古典的には「ひとつの遺伝子にひとつの形態」を対応させるイメージで考えられていたわけだが、分子生物学の研究が進むにつれてそうした見方はされなくなっている。現在では、ひとつの遺伝子は複数の形質発現に影響しているし、逆にひとつの形質発現は複数の遺伝子に依存しているという見方が普通になされている。

言語だってそうであるはずだ、というか、少なくとも一度はそう考えてみることは必要なことではないかとわたしには思える。我々は常識的には語の意味が、辞書がそう構成されているように、特定の語に特定の意味が対応するという見方に、少なくともそのイメージから容易には抜け出せない程度には慣れている。でもその見方は遺伝型と表現型の対応関係の古典的なイメージと同様に、本当は言語のイメージとしても古典的にすぎるのではないだろうか。

確率的言語モデルは、少なくともこの本で扱われているのは、言語の音韻ないし統語論(構文論)の範囲での確率モデルである。そうしたモデルを用いることは、少なくとも音声入力や自然言語の機械的解析といった、まったく技術的な応用の領域で有意味な成果を挙げている。けれどもこの考えはもっと先を考えることができるのではないか。つまりモデルを確率論的にすることは、単に技術的応用のメリットがあるばかりではなく、言語とは何かにおいて本質的な何かを反映しているのではないかということだ。むろんこの本にはそこまで露骨なことは書かれていない。でもそんなことを考えながら数式やアルゴリズムを追っていると、非常に刺激的な本である。少なくともわたしにはそうだった。

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