サールせんせいの本に取りかかる前に、大澤センセイの2冊の方はカタをつけとかないとね。というか本当はこの間に細々書いてきたことの中で全部尽きちゃってる感じなんだけど。まあ改めて本文中からいくつか引用して、それにコメントをつけることにしたい。そのコメントの中にわたしの感想の結論が含まれていると考えてもらいたい。この本の全体的な感想は一言で言えば最初に書いた通り「デンパとかトンデモとか」だと言うしかないのだが、そんな言い方をすることに何の意味もないことは、感想の前篇で述べた通りである。
ここから導かれる結論は、こうだ。知が普遍的で包括的な全体へと到達しようとしても、常に「残余」が現れ、決してゴールにまでは至らない。知は、どんなに普遍的であろうとしても、常に「未だに」という様相を克服できないのだ。逆に言い換えれば、普遍性に至り得ないということ、欠如しているということ、そのことこそが、まさに唯一の普遍的な性質ではないか。
(p.17) |
これがカントールの対角線論法をネタにしてひり出された話なわけだ。別に対角線論法など持ちださなくても、0とインクリメント演算子を導入して定義される自然数の集合は可算でも無限集合だから、インクリメント操作を何度適用しても「決してゴールにまでは至らない」。で、それが何か?
大澤センセイは「行為の代数学」みたいな題名の本を書く割に、数学はあんまり習っていない人なのではないかという気がする。上記引用が本当は何を言おうとしたものかというと、むしろこういうことなのだと思える。
位相空間XにおいてA⊂Xがコンパクト集合であるとは、Aの任意の開被覆Gが与えられたとき、Gの中から適当な有限個を選んでAを被覆できることをいう。 |
つまり包括的な全体なるものは有限な知的探求によって被覆されない、つまり常に残余が存在するということ、つまり非コンパクトであることを主張したいのだとおもえる。上は位相空間論の初歩の初歩で、理学系の人間ならいつでも暗唱できるくらいの定義である。ただ普通は数学の講義でこれを教わるときに、コンパクト性とはそもそも何の抽象なのか、つまり尋常な日本語に直せばもともと何のことであるのかは、案外教えてくれない。たぶん、それはどうしたって数学には必要な厳密さを欠くことになってしまうからだと思う。でもここではあっさり言ってしまおう。要はコンパクトとは普通の日本語で言う「有限」のことなのである。
こう言っただけではピンと来ないかもしれない。ユークリッド空間のような典型的な空間におけるコンパクト集合とは有界閉集合と同値である。つまり非コンパクト集合とは「非有界または非閉」であるような集合のことである。中沢新一がレーニン的な物質の概念にこと寄せて言った「底なし」というのも、要するにこれのことなのだ。中沢センセイの方は、この種の数学を(今はあらかた忘却しているだろうが)どこかで習ってきているなという気配が文章から感じられるところがある。そういう中沢センセイが、レーニンはともかくヘーゲルの弁証法的論理を論じるというところが面白いのだ。ヘーゲルの時代に量子力学はまだない。弁証法的論理があの、通常の形式論理から見ればナンセンスとしか思えないような、いたるところ矛盾した造作をもつのは、物理学でさえまだ量子力学を持たなかった時代に、もともと古典物理(ニュートン力学)の観念論的な双対であるような趣があるヘーゲル哲学が、無理してそれに近い論理を生み出そうとした結果生じたものとして見ることができるのではないか。中沢の本にそう書いてあるわけではないが、わたしはそういう風にあの本(はじまりのレーニン)を読んでいた。
〈私〉がそれに触れることと〈私〉がそれに触れられることとは、別のことではない。(中略)こちらの粒子の知とあちらの粒子の知とは、厳密に同一な事態のふたつの表現なのではあるまいか。
(p.155) |
これもまたEPR実験などを持ち出すまでもないし、ことさら驚くほどのことでもない。物理における力の作用は何だって「相互作用」なのであって、一方が他方に先行する因果的作用などではないわけである。肝心なのはむしろ、ではなぜ我々は「〈私〉がそれに触れる」という因果的作用としてそれを経験するのか、つまり〈私〉がその意図を持つことの心的な因果としてそれを経験するのかということの方である。
要するに、例外状況とは、何が許容され、何が禁じられているかの境界が決定できない社会状態であり、それゆえ、どんなことでも起こりうる状況である。この点まで確認しておけば、われわれは、もう一度、量子力学に回帰することができる。例外状況は、量子力学が主題としている波動[関数─引用者補足]の社会的対応物ではないだろうか。
(p.166) |
で、主権者の決断が量子力学で言うところの波束の収縮に該当すると言いたいらしい。こういうのはどちらかというとサールせんせいのように「宣言型言語行為(Declaration)」だと言った方が危なげがなくていいような気がする、というか、こんなことを言うのに量子力学を持ちだせば、理科系の人間は百人中百人が本書をトンデモだと断定するはずである。また、断定しなければ駄目である。この感想文も最初から断定しているわけだが、断定した後で残余を観照しているわけである。
古典主義時代の哲学は、不完全で歪んだ現れの彼方に本質の領域を望見する。この関係、すなわち、現れの不完全性が普遍的な本質の存在を担保するというこの関係は、無力で憐れな人物を媒介にして運命や法の支配を見出す悲劇の形式と類比的ではないだろうか。だが、量子力学においては、本質は現れの彼方に想定されない。そこでは、普遍的な本質は、現れそのもの、現れとしての現れ、現れの自己分裂であった。ところで、本質(権威ある超越者)と現れ(惨めな個人)との間のこうした合致こそは、喜劇の基本的な構造でもある。
(p.224) |
量子力学の一語を別にすれば、この見解はユニークで興味深いものだと思える。逸脱は本質からの逸脱ではなく、もともと本質というほどのものは個人(コンパクト化された、識別可能な対象)の上に現れる限り逸脱としてしか現れないのだというような。
だが、われわれは、それがすべてではないことを知っている(中略)。観測を通じて、「このX」を捉えたとき、われわれは同時に、「このX以上の何か」「このX以外の何か」を直観するのだ。このように、単一性についての体験の中に常に随伴する、「これですべてではない」「これ以上の何かがある」という残余の感覚こそが、普遍性への通路となっているのである。
(p.343) |
結局この本の中で一番含蓄が深そうな記述というのは、大澤センセイの本文ではなく、本文中で引用されているレヴィナスの次のような記述である。
どうやっても捉えられることのないもの、それは未来である。未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。ベルクソンからサルトルに到るまであらゆる理論によって、時間の本質として広く認められてきた、未来の先取り、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、真正の未来ではないのだ。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捕えるものなのである。未来とは、他者なのだ。未来との関係、それは他者との関係そのものである。単独の主体における時間について語ること、純粋に個人的な持続について語ることは、われわれには不可能であるように思われる。
(p.319-320 E・レヴィナス「時間と他者」原田佳彦訳より) |
この引用ひとつのためにこの本を買う価値はある──とはいうものの、ここで孫引きしちゃったから、このblogの閲覧者にはこの本を買う価値はもうない(笑)。しまった!