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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

竹田青嗣「言語的思考へ─脱構築と現象学」(径書房)

2011年02月17日 | 読書メモ
ご覧の通りの事情で、ここ数日は政治哲学の考察どころではなかった、ということで脈絡もなくこの本を読んでいた。十年前の本だが、7netとかでも新刊書で入手可能である。

言語的思考へ- 脱構築と現象学
竹田 青嗣
径書房
Amazon / 7net

著者は何と言っても現象学の人なので、啓蒙書を書いても英米哲学はあらかたシカトしてしまう、という癖のある人だが、この本はさすがに「言語」を扱っているので英米の言語哲学者の名前もちらほら出てくる。もちろん、たいがい批判的に扱われているわけだが、シカトよりはましである。

というかこの本は著者がいつもシカトしている英米哲学や、薄手の啓蒙書では簡単に蹴飛ばされているポストモダン思想についても、それなりに突っ込んだ読解と批判が述べられているという点で、ある意味これまでこの著者の書いたどの啓蒙書よりもわかりやすい。もちろん著者自身の現象学的言語論も展開されている。

著者の文章はカントやヘーゲルみたいなくどさはないかわり、何かと言うと本質本質本質本質本質という別種の堅苦しさがあるので読むのに時間がかかってしょうがない。読み終えたら引用を交えて何か書いてみたい気はする。

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John Rawls, "A Theory of Justice"

2011年01月30日 | 読書メモ
くそっ。「正義論」の邦訳を読んでいるとやっぱり原書で確認したくなってしまう。

まあ原書の方は安いべ、とかなんとか言いながらAmazonで注文しようとしたら、原書第二版はなぜか半月以上も待たされると出た。信じられねえ、と思いながら迷っていると「初版なら明日にでもお届け可」だと。

ふざけてやがる。

John Rawls, A Theory of Justice: Original Edition,
Belknap Press of Harvard University Press;Amazon


John Rawls, A Theory of Justice: Revised Edition (Belknap),
Belknap Press of Harvard University Press;Amazon

基本的に同じ内容のものを2冊も買う必要なんか本来はないのである。専門家や専門家志望の学生なら、特にこの「正義論」の場合、参照の多くは初版の記述やページ番号に沿ってなされているから、初版を持っておくことに意味があるわけだが、わたしみたいな素人にその必要はない。だから第二版だけあればいいわけだ。去年出た邦訳新版は第二版に沿っているわけだから。それなのに届くのに下手するとひと月待たされるというのではシャレにならない。それで・・・だからその初版の方も一緒に注文する羽目になってしまったという次第だ。アタマにくる。腹立たしい。上の画像がバカでかいのはその腹立ち紛れでしたことだと思ってもらいたい。

(Feb.03,2011追記)
結局、昨日(Feb.02)に上記の2冊を同時に受け取った(笑)。Original Editionの方は前日には届いていたので、厳密には1日の差があるのだが。

好意的に解釈すれば、できるだけ早く届けようというAmazonの努力の結果だとも言えるわけだが、正直、最初からそう表示おいてくれと言いたくなるのは、客の心情としてはいた仕方のないことである。

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野崎昭弘「πの話」(岩波現代文庫)

2011年01月26日 | 読書メモ
なんたる偶然か、ふたつ下で円周率ネタの話を書いて、わたしにとっては懐かしい本の題名をつけたら、来月(2月16日発売予定)その本が文庫で復刊されるらしい。
πの話 (岩波現代文庫)
野崎 昭弘
岩波書店
Amazon / 7net

円周率についてわたしが持っている知識の大部分は今でも、小学生のころにこの本を読んで得たものである。

学校で円周率を小数点以下何桁まで教えるかとか、そんな議論は無意味でバカ気た議論だと、現在のわたしが言うのは、ほかでもない、本当に興味があるならコドモはこういう本を読むし、反対に興味がなければ、いったい学校で何と教わろうと覚えやしない、実際、覚える甲斐のないことだということが、体験的にわかりきっているからである。

なお、上の画像は文庫化される前の「岩波科学の本」の1冊として出ていた(初版は1974年で、その後何度か増補改訂されたようだが、現在では「品切重版未定」)本の表紙画像を、岩波書店のWebページから拝借してきたものである。文庫版の表紙写真は、発売前なのでAmazonにも7netにもまだないのである。

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M・J・サンデル「リベラリズムと正義の限界」(勁草書房)

2011年01月26日 | 読書メモ
以前買った「正義」だけではどうにも埒があかない感じなのでこれも買ってみた。

リベラリズムと正義の限界
マイケル・J・サンデル著
菊池理夫訳
勁草書房
Amazon / 7net

何が埒があかないのかというと、サンデルは本当にコミュニタリアンなのかそうでないのか、どうにもはっきりしなかったのである。

明確な答はこの本の冒頭に置かれた「第二版への序:コミュニタリアニズムの限界」の中に書いてあった。その肝心なとこだけかいつまんで言えばこうである。「スコーキーのネオナチ」と「アラバマ州のキング牧師」のふたつのデモ行進について、リベラリストは双方ともOKだというし、最も純粋な意味でのコミュニタリアンは(ともにデモ行進のあった地域の意向に逆らうものだということで)双方ともNOだという。つまり双方ともこのふたつを正義として区別する根拠を持たないし持つことができない。それを持つためには、正義が共通善ということと独立してあるものではない、という考えがなくてはならず、そしてそれが自分(サンデル)の立場だ、というわけである。

昨日届いたばかりで今日はやっとそこだけ読んだので、全体についての感想や見解を書くことはできないが、上のことが明確に書かれているというだけで、この本が読む価値のある本だということは、こうした議論に関心を持つ人にとっては明らかなことであろう。もちろん、サンデルの議論が本当にその区別をつけることに成功しているかどうかは、全部読んでみなければ何とも言えない。ただサンデルが「区別がつけられてしかるべきだ」と考えていることは、上のことからきわめて明確である。1+1の答が2なのか3なのかの区別もつけられなかったとしたら、そんな算数が数学としては可能ではあったとしても、それが現実に関連して意味を持つことなどありえないではないかというようなことである。その算数が現実に関連したものであるなら、2と3の区別はつけられるものでなければならない。政治哲学においてもしかりである。

もっとも、逆に言えば、わが国における「公共哲学」なるものの提唱者達、なかんづくサンデルの紹介者達がなぜこれを真っ先に言わないのか(言ってはいるのだが、なんか妙に歯切れが悪そうなのである)、それがいささか不思議である。

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サンデルなう

2011年01月06日 | 読書メモ
ああ、腐りかけの流行語が嬉しい(笑)。

せっかく買ったのでアフィリンクも張っておこう。奥付見たらすでに「83版」となっていた(この数字は普通「刷」と表記するが、早川書房は「版」で通している)。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル著
鬼澤 忍訳
早川書房
Amazon / 7net


すでにいろんな人が指摘していることではないかと想像するが、原題は「JUSTICE: What's the Right Things to do?」である。逐語訳すれば「正義:正しい行いとは何か?」である。「これからの」正義とか、「いまを生き延びる」とかいう文句は入っていない。内容まで考えに入れてもこの邦題はよろしくないと思う。本文訳がどうであるかは、これから読むのでまだわからない。本文訳もクソだったらわたしの場合は原書を買うだけなので、まあ気にしないのだが。

以前このblogでも紹介した「マンガはなぜ規制されるのか」という本について、小谷野敦氏が「帯の推薦文が宮台じゃ読む気が失せる」という意味のことを呟いていたことがあった。わたしも帯に××とか△△の名前を見つけるだけで、本を手に取ることさえ躊躇いを覚える方だったりするから判らぬでもない。宮台真司は(一番流行っていた頃に一切読まなかったおかげだろうか)それほどでもないわけだが、しかしこの本にも帯に宮台真司が一筆書いているわけである。その文章だけ引用してみる。

1人殺すか5人殺すかを選ぶしかない状況に置かれた際、1人殺すのを選ぶことを正当化する立場が功利主義だ。これで話が済めば万事合理性(計算可能性)の内にあると見える。ところがどっこい、多くの人はそんな選択は許されないと現に感じる。なぜか。人が社会に埋め込まれた存在だからだ──サンデルの論理である。

彼によれば米国政治思想は「ジェファソニズム=共同体的自己決定主義=共和主義」と「ハミルトニズム=自己決定主義=自由主義」を振幅する。誤解されやすいが、米国リバタリアニズムは自由主義ではなく共和主義の伝統に属する。分かりにくい理由は、共同体の空洞化ゆえに、共同体的自己決定を選ぶか否かが、自己決定に委ねられざるを得なくなっているからだ。正義は自由主義の文脈で理解されがちだが、共和主義の文脈で理解し直さねばならない。理解のし直しには、たとえパターナル(上から目線)であれ、共同体回復に向かう方策が必要になる──それがコミュニタリアンたるサンデルの立場である。

わたしが読む限りでは割とちゃんとした解説だと思う。いいかえると、サンデル先生の一番胡散臭いところを説明させたら、どうやら現在のわが国では宮台真司が一番適任であった(笑)のだ。世に宮台真司の嫌いな人がたくさんいるのは承知しているつもりだが、その宮台ですらまともな解説を書いてしまう、それほどこの本はちゃんとした哲学書なのだと思って、宮台嫌いな人もこの本は読むべきである。

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デイヴィドソン論文集「真理・言語・歴史」(現代哲学への招待Great Works・春秋社)

2010年12月28日 | 読書メモ
(Dec.23,2010)
とりあえず注文してきた。デイヴィドソンは結構難解で苦手意識があったりするのだけれども。

  第1部 真理(真理の復権/真理を定義しようとすることの愚かさ ほか)
  第2部 言語(墓碑銘のすてきな乱れ/言語の社会的側面 ほか)
  第3部 非法則的一元論(思考する原因/法則と原因)
  第4部 歴史的思考(プラトンの哲学者/ソクラテスの真理概念 ほか)
  補遺 ローティ、ストラウド、マクダウェル、そしてペレーダに応える

こういう目次を示されると著者がデイヴィドソンでなくてもとりあえず読んでみたくなってしまうじゃまいか。
真理・言語・歴史
(現代哲学への招待Great Works)

ドナルド・デイヴィドソン

柏端達也・立花幸司・荒磯敏文・尾形まり花・成瀬尚志訳

春秋社
Amazon / 7net

珍しくAmazonに画像がなくて7netにはあるので、画像をクリックすると7netへ飛びます。

(Dec.28,2010追記)
昨日届いたので恒例のやつを。



デイヴィドソン論文集「真理・言語・歴史」(春秋社)目次

収録論文の出典と謝辞
序論 マーシャ・キャヴェル

第1部 真理
第1論文 真理の復権
第2論文 真理を定義しようとすることの愚かさ
第3論文 方法と形而上学
第4論文 意味・真理・証拠
第5論文 真理の概念を追って
第6論文 クワインの真理観とはどのようなものか

第2部 言語
第7論文 墓碑銘のすてきな乱れ
第8論文 言語の社会的側面
第9論文 言語を通して見るということ
第10論文 ジェイムズ・ジョイスとハンプティ・ダンプティ
第11論文 第三の男
第12論文 文学的言語の居所を突きとめる

第3部 非法則的一元論
第13論文 思考する原因
第14論文 法則と原因

第4部 歴史的思考
第15論文 プラトンの哲学者
第16論文 ソクラテスの真理概念
第17論文 弁証と対話
第18論文 ガダマーとプラトンの『ピレポス』
第19論文 アリストテレスの行為
第20論文 感情についてのスピノザの因果説
補遺 ローティ、ストラウド、マクダウェル、そしてペレーダに応える

解説とあとがき 柏端達也
参考文献
索引

本文512頁(監訳者あとがきを含む)
価格4,725円(税込)

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小谷野敦「歴史に学ぶ禁煙ファシズム」

2010年11月23日 | 読書メモ
本ではなくてWebページに掲載されているコラムである。当然だが読むのはタダである。

短いコラムだし、急いで書いたのか、普段の著者よりは文章も構成も粗っぽい感じだが、わたしが何か言うよりはましだろうと思うのでリンクを張っておく。

  歴史に学ぶ禁煙ファシズム その1
  歴史に学ぶ禁煙ファシズム その2
  日本パイプクラブ連盟ホームページ

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ジョン・ロールズ 「正義論(新訳改訂版)」(紀伊國屋書店)

2010年11月23日 | 読書メモ
(Nov.21,2010)
「よう待たせたな、明日到着だ!代金引換の金用意しとけやゴルァ」という意味のメールが来た。
正義論
ジョン・ロールズ著
川本・福間・神島訳
紀伊國屋書店
Amazon / 7net

上のリンクにお値段は入っていないから、この本に限ってあえて書くが、税込7,875円である。この値段を自腹で払えるかどうかで読者の正義は試されないが、度胸は試されていると言えよう。

読んで感想があったら書くだろうけど、いつのことになるかはまったく保証の限りではない。

(Nov.23,2010追記)
不正義の自治体と人道に対する罪そのものの条例案を告発する記事を書いているうちに日をまたいでしまったが、本はちゃんと届いている。昨日のうちに受け取って、いま手元にある。

twitterでこの本を検索してみても「高い」という声が頻りである。まあ一応書いておくと、確かに高価な本だが中身もぶ厚い。巻末の索引まで含めれば800ページを超える、文字通り大冊である。それも「ハリー・ポッター」の類とは違う、正真正銘の哲学書なのだから、いまから読んでも読み切るだけで年を跨ぐことになるであろうことは確実である。しかもこの本はすでにこの分野の現代的な古典であって、この本自体を対象として批判や考察を加えた書籍や論文の数たるや、どう考えたって死ぬまでかかっても読み切れないほどたくさんあるわけである。

こうしている間にも文明世界のいたるところで大小の不正義が横行しているわけである。本当にこんなむつかしそうな本をちまちま読んでる場合なのか、それ自体を考え込んでしまうところだが、現在の自分を素人哲学と規定し表示している以上は我慢して読んでみなければならない。読んでるうちに世界が滅んだってオレのせいじゃないってことさ。

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「量子の社会哲学」感想(後篇) (ver.0.5)

2010年11月03日 | 読書メモ
サールせんせいの本に取りかかる前に、大澤センセイの2冊の方はカタをつけとかないとね。というか本当はこの間に細々書いてきたことの中で全部尽きちゃってる感じなんだけど。まあ改めて本文中からいくつか引用して、それにコメントをつけることにしたい。そのコメントの中にわたしの感想の結論が含まれていると考えてもらいたい。この本の全体的な感想は一言で言えば最初に書いた通り「デンパとかトンデモとか」だと言うしかないのだが、そんな言い方をすることに何の意味もないことは、感想の前篇で述べた通りである。

ここから導かれる結論は、こうだ。知が普遍的で包括的な全体へと到達しようとしても、常に「残余」が現れ、決してゴールにまでは至らない。知は、どんなに普遍的であろうとしても、常に「未だに」という様相を克服できないのだ。逆に言い換えれば、普遍性に至り得ないということ、欠如しているということ、そのことこそが、まさに唯一の普遍的な性質ではないか。
(p.17)

これがカントールの対角線論法をネタにしてひり出された話なわけだ。別に対角線論法など持ちださなくても、0とインクリメント演算子を導入して定義される自然数の集合は可算でも無限集合だから、インクリメント操作を何度適用しても「決してゴールにまでは至らない」。で、それが何か?

大澤センセイは「行為の代数学」みたいな題名の本を書く割に、数学はあんまり習っていない人なのではないかという気がする。上記引用が本当は何を言おうとしたものかというと、むしろこういうことなのだと思える。

位相空間XにおいてA⊂Xがコンパクト集合であるとは、Aの任意の開被覆Gが与えられたとき、Gの中から適当な有限個を選んでAを被覆できることをいう。

つまり包括的な全体なるものは有限な知的探求によって被覆されない、つまり常に残余が存在するということ、つまり非コンパクトであることを主張したいのだとおもえる。上は位相空間論の初歩の初歩で、理学系の人間ならいつでも暗唱できるくらいの定義である。ただ普通は数学の講義でこれを教わるときに、コンパクト性とはそもそも何の抽象なのか、つまり尋常な日本語に直せばもともと何のことであるのかは、案外教えてくれない。たぶん、それはどうしたって数学には必要な厳密さを欠くことになってしまうからだと思う。でもここではあっさり言ってしまおう。要はコンパクトとは普通の日本語で言う「有限」のことなのである。

こう言っただけではピンと来ないかもしれない。ユークリッド空間のような典型的な空間におけるコンパクト集合とは有界閉集合と同値である。つまり非コンパクト集合とは「非有界または非閉」であるような集合のことである。中沢新一がレーニン的な物質の概念にこと寄せて言った「底なし」というのも、要するにこれのことなのだ。中沢センセイの方は、この種の数学を(今はあらかた忘却しているだろうが)どこかで習ってきているなという気配が文章から感じられるところがある。そういう中沢センセイが、レーニンはともかくヘーゲルの弁証法的論理を論じるというところが面白いのだ。ヘーゲルの時代に量子力学はまだない。弁証法的論理があの、通常の形式論理から見ればナンセンスとしか思えないような、いたるところ矛盾した造作をもつのは、物理学でさえまだ量子力学を持たなかった時代に、もともと古典物理(ニュートン力学)の観念論的な双対であるような趣があるヘーゲル哲学が、無理してそれに近い論理を生み出そうとした結果生じたものとして見ることができるのではないか。中沢の本にそう書いてあるわけではないが、わたしはそういう風にあの本(はじまりのレーニン)を読んでいた。

〈私〉がそれに触れることと〈私〉がそれに触れられることとは、別のことではない。(中略)こちらの粒子の知とあちらの粒子の知とは、厳密に同一な事態のふたつの表現なのではあるまいか。
(p.155)

これもまたEPR実験などを持ち出すまでもないし、ことさら驚くほどのことでもない。物理における力の作用は何だって「相互作用」なのであって、一方が他方に先行する因果的作用などではないわけである。肝心なのはむしろ、ではなぜ我々は「〈私〉がそれに触れる」という因果的作用としてそれを経験するのか、つまり〈私〉がその意図を持つことの心的な因果としてそれを経験するのかということの方である。

要するに、例外状況とは、何が許容され、何が禁じられているかの境界が決定できない社会状態であり、それゆえ、どんなことでも起こりうる状況である。この点まで確認しておけば、われわれは、もう一度、量子力学に回帰することができる。例外状況は、量子力学が主題としている波動[関数─引用者補足]の社会的対応物ではないだろうか。
(p.166)

で、主権者の決断が量子力学で言うところの波束の収縮に該当すると言いたいらしい。こういうのはどちらかというとサールせんせいのように「宣言型言語行為(Declaration)」だと言った方が危なげがなくていいような気がする、というか、こんなことを言うのに量子力学を持ちだせば、理科系の人間は百人中百人が本書をトンデモだと断定するはずである。また、断定しなければ駄目である。この感想文も最初から断定しているわけだが、断定した後で残余を観照しているわけである。

古典主義時代の哲学は、不完全で歪んだ現れの彼方に本質の領域を望見する。この関係、すなわち、現れの不完全性が普遍的な本質の存在を担保するというこの関係は、無力で憐れな人物を媒介にして運命や法の支配を見出す悲劇の形式と類比的ではないだろうか。だが、量子力学においては、本質は現れの彼方に想定されない。そこでは、普遍的な本質は、現れそのもの、現れとしての現れ、現れの自己分裂であった。ところで、本質(権威ある超越者)と現れ(惨めな個人)との間のこうした合致こそは、喜劇の基本的な構造でもある。
(p.224)

量子力学の一語を別にすれば、この見解はユニークで興味深いものだと思える。逸脱は本質からの逸脱ではなく、もともと本質というほどのものは個人(コンパクト化された、識別可能な対象)の上に現れる限り逸脱としてしか現れないのだというような。

だが、われわれは、それがすべてではないことを知っている(中略)。観測を通じて、「このX」を捉えたとき、われわれは同時に、「このX以上の何か」「このX以外の何か」を直観するのだ。このように、単一性についての体験の中に常に随伴する、「これですべてではない」「これ以上の何かがある」という残余の感覚こそが、普遍性への通路となっているのである。
(p.343)

結局この本の中で一番含蓄が深そうな記述というのは、大澤センセイの本文ではなく、本文中で引用されているレヴィナスの次のような記述である。

どうやっても捉えられることのないもの、それは未来である。未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。ベルクソンからサルトルに到るまであらゆる理論によって、時間の本質として広く認められてきた、未来の先取り、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、真正の未来ではないのだ。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捕えるものなのである。未来とは、他者なのだ。未来との関係、それは他者との関係そのものである。単独の主体における時間について語ること、純粋に個人的な持続について語ることは、われわれには不可能であるように思われる。
(p.319-320 E・レヴィナス「時間と他者」原田佳彦訳より)

この引用ひとつのためにこの本を買う価値はある──とはいうものの、ここで孫引きしちゃったから、このblogの閲覧者にはこの本を買う価値はもうない(笑)。しまった!

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John R. Searle: Thinking About the Real World

2010年11月02日 | 読書メモ
John R. Searle: Thinking About the Real World
Dirk Franken , 他
ontos verlag
Amazon

これは「オススメ」扱いではなくて、単に自分の買った本を紹介しているだけである。昨日届いて、まだ封も切ってないのである。

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中沢新一「はじまりのレーニン」(岩波現代文庫)

2010年11月02日 | 読書メモ
(Oct.27,2010; 「『量子の社会哲学』・・・困ったなー」からの続き)
・・・というわけで。ソ連崩壊直後にこんな本出すんだから(しかも岩波!)中沢センセイはまったくイタズラ坊主だとしか言いようがないが、十数年経った今でもこの本は相当面白い。「量子の社会哲学」のバカ話33連発に辟易させられた人の口直しにもどうぞ・・・って、もっと辟易させられたりして(笑)。
はじまりのレーニン (岩波現代文庫)
中沢 新一
岩波書店
Amazon / 7net
icon


(Nov.1,2010追記)
この本についての批判的な書評を掲載しているページへのリンクを張ることにした。

  中沢新一「レーニン礼賛」の驚くべき虚構

書評の著者の現在のホームページ。

  Web Iwakami - 岩上安身オフィシャルサイト

なんでこれらのリンクを張るのか。「はじまりのレーニン」を1994年に読んだわたしにとっては、この批判に書かれていることは一応全部知ってることで、その上で上記の「オススメ」を書いているわけである。けれどもソ連が崩壊してからもう20年、地下鉄サリン事件もはや15年前の出来事である。若い読者がそういうことをあんまり知らずに中沢センセイの本を読むと、あらぬ過大評価をやってしまうかもしれないよな、ということを、上の書評のページを読んでいるうちに気づいたからである。

もとよりわたしの評価は上掲リンク先の評者の観点とはまったく異なる場所からしているつもりだ、けれども中沢センセイは基本的にイタズラ坊主で、こういう生真面目な評者の手にかかるとたいていケチョンケチョンにやられてしまうような、非学術的とは言わないまでも境界的というか神秘主義的というか、つまりすっげー怪しい部分をたくさん抱えている人だということも、その著書を読む際には忘れない方がいいとは思う。レーニンの思想をどう評価する(評価しなおす)にしても、二十世紀最大の大惨事を引き起こした張本人で極悪人だという事実を忘れない方がいいのと同じように、である。

・・・これじゃ判りにくいな。もっと判りやすいことは中沢センセイ本人が言っていた。あれは確か故・河合隼雄との対談集だったと思うのだが「パンク(・ロック)がどうして面白かったのかというと、パンクは悪を肯定したからです」という意味のことを中沢センセイは語っていた。そんなこと軽々しく言っちゃうからイタズラ坊主なのである。でも、これ正解なんだよなあ。

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「量子の社会哲学」・・・困ったなー

2010年10月27日 | 読書メモ
大澤センセイの「量子の社会哲学」感想文の後篇を書こうとして書きあぐね、あっちこっちひっくり返してどうやら「よかった探し」ができたような気がして、さて書こうかとした途端、どうもこの本の数少ない「よかった」部分というのは、この本でもネタに使われている中沢新一「はじまりのレーニン」のキモの部分を、無茶苦茶いい加減な量子力学の比喩を使って、わざわざ判りにくく言い換えただけではないか、ということに気づいてしまった。

え、そうなのかと思う閲覧者がいるかもしれない。中沢のレーニン論はべつに量子力学など比喩としても使われてはいない、それどころか直接対比されているのはヘーゲルではなかったか。

でもそこで重要なのが中沢のレーニン論のキーワードである「底なし」だ。レーニンの唯物論はマルクス・エンゲルスの線に沿ったものでヘーゲル観念論の転倒だと普通は思われているが、そうではない、レーニンのいう「物質」概念を素直に受け取ったとして、仮にそれをもう一度観念論の側に転倒(レーニンがそう呼んだところの「とんぼ返り」)させたとしたら、それは観念の「底なし」の領域を含み込むような途方もない代物になっていたのではないか(レーニン自身はその後革命で忙しくなってそれを完成できなかったのだが)、というのが中沢センセイの主張なわけである。

レーニンの考えが本当にそこまで及んでいたか、そのこと自体の当否はともかくとして、その本の中で中沢が言っている「底なし」というのは、つまり大澤センセイが「量子の社会哲学」で示唆したがっている(けれども大澤センセイの量子力学理解が粗雑にすぎて、あんまりうまくできていない)ことにぴったり当てはまっているのである。

同じことを別の比喩を用いて語ったっていいではないか、とは一応言えるのだが、中沢のいう「底なし」はそれを「レーニンの笑い」と通低させることによって、ヘーゲルに発する弁証法的論理について非常に興味深い、ユニークで未来性のある観点を提示できているところがあったと思う。また、単なる奇想天外の読み物としても「はじまりのレーニン」は、かなり面白かったのである。

それに比べると大澤センセイの本はどうも、話のひとつひとつがいかにもただのこじつけにしかなっていなくて、どう好意的に読んだとしても、本一冊を貫く議論の軸に欠けているという印象が拭えない。実際これまでWeb上にあらわれた書評の多くは適当にふたつみっつのバカ話を取り出しては「全篇かくのごときバカ本である」的に決めつけているものがほとんどだ。そこまで言わなくたっていいじゃないかとわたしは思う、けれどもまあ漫然と読み進めればそういう感想になるしかないだろうとも思う。数少ない美点が中沢のいう「底なし」の再解釈、残りはただのこじつけ、となると、これはやっぱりお値段相応の本だとは言えないよなあ、ということにはなってしまうのである。

まあ感想文の後篇は後篇でそのうち出てきます。今日のところはこのくらいで。

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「生きるための自由論」感想の休憩(iii)

2010年10月23日 | 読書メモ
そろそろまとめようと思っていたのだが、どうにもうまく飲み込めた感じがしない語彙がふたつある。普遍主義(universalism)と特殊主義(particularism)である。いまWebで検索をかけてみると、どうもこの語彙はナショナリスティックな素人政治哲学をいたく刺激する類の語彙であるらしく(笑)、検索するとまあ出るわ出るわ、嫌っ気をたっぷり含んだページばっかりどかどか出てきて、まともな用語解説がゼーンゼン見当たらない。やっと一番それらしいのはWikipediaの「集団主義」の項にあるのだが、これも

グレゴリー・クラークによれば、「人間関係社会」、「原則関係社会」という把握は、身近にある具体的個別的な環境や人間関係にこだわる志向と普遍的抽象的な原則にこだわる志向ということで、社会科学で広くいわれている「個別主義(Particularism)」、「普遍主義(Universalism)」という把握と根本的には同じで・・・

などというもので、それ自体について説明してあるわけではない。まあ何となく雰囲気はわかるんだけども。

もともとは学術用語だと言っても、実態としてどう見ても怪しい使われ方しかしていない語は放っときゃいいかな、という感じもするわけだが(笑)、困ったことに後半(II)の終わりにかけて著者は普遍性がどうのこうのとうるさいのである。人社系の文脈に通じた人にとってはそうではないのかもしれないが、根が理工系のわたしには「普遍性」のこの本における用法がどうにもピンと来ない。この語が出てくるたびにその箇所でわたしのアタマが(著者の記述が、ではない)空転する感じで、著者の論理を的確に辿れない感じになってしまう。

ピンと来ないだけでなく、読んでいるとどうもこれは「人類にとって普遍的」ということらしい。著者はたぶん、つまんない言葉のトリックを使っている。あるいは気づかずに使っているのだろうか。「私は私だ」の自同律への違和こそが普遍性への(その連帯への)道を開く、みたいなことを著者は言う。一見すると結構そうに思えるかもしれないが、その普遍性ははじめから「人類」の線で頭を押さえられている、だから結構そうに思えるだけなのだ。

その違和は確かに「普遍性」への道を開くだろうとわたしも言う、けれど「その違和、その残余においてこそ、彼(レーヴィ)は、人間である」のではない。その違和、その残余において、彼は人間であるところを超えてただの「畜生」、もしくはただの「肉塊」でさえありうることになるはずである。ユニバーサルのユニバースは宇宙である。最後は最も基本的な実在の次元まで落ちて行くのが、自然科学における「普遍性」の究極的な含意である。それが見過ごされている。素粒子とまでは言わないにせよ、畜生や肉塊の連帯とはいったい何のことだろうか?何であるかは判らぬが、わたしにはとっても嫌な予感がする。

このトリックの出所はひょっとすると「社会あっての自由」だという社会学的な自由観が本質的に抱え込んでいる欠陥なのではないかとさえ思う。

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蔵本大々々先生の本

2010年10月22日 | 読書メモ
つーかそもそも反応拡散方程式って何だ、という閲覧者にはわが国の、いな世界レベルの第一人者、蔵本大々々先生の本を紹介しておこう。

非線形科学 (集英社新書 408G)
蔵本 由紀
集英社
Amazon / 7net
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散逸構造とカオス (現代物理学叢書)
森肇・蔵本由紀
岩波書店
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前者はたぶんこの分野(非線形科学)の入門書・啓蒙書として今読めるものの中では最も優れた本である。全部読んでるわけじゃないから確証はないが、ひょっとすると世界で最も優れた入門書・啓蒙書かもしれないと思う。よほどの科学嫌いは別にして──と言ったとたん対象読者が1/10くらいになってしまいそうなのは悲しむべきことだが──本当に誰にでもオススメできる本だ。ただしこの本に数式は出て来ない。この本に出てくる非線形現象のいくつかに典型的にかかわっているのが反応拡散モデルなのである。

後者は非線形系の自己組織化現象の数理を学びたい人のための、これも優れた教科書だが、レベルはもうとんでもなく高いよ。ついでに言うとお値段も高いよ(笑)。本当の専門家でもない限りまず全部ちゃーんと読んで理解するなんてことは無理である。オレだって全部は読んでねえし判ってねえし(笑)。ただ「反応拡散方程式とは何ぞや」ということを数理的に徹底的に理解したかったら、とにかくこの本まではまず絶対にクリアしなければならない、という目標として掲げておかなければならない金字塔の本なのである。

ともあれこの分野を専門にやる人、やろうとしている人以外は、とにかく一度前者を読むべきである、というか読まなくては駄目である。ほかのはもうマジで何も読まなくていい。このblogのヨタ話なんぞ真っ先に忘れてもらって結構だ。とにかく「非線形科学」を読め、である。

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「生きるための自由論」感想の休憩(ii)

2010年10月22日 | 読書メモ
本当はこんなに手間暇をかけるつもりはなかった。どうせつまらん本なんだろう、くらいに思っていたし、実際つまらん本だと思うのだが(笑)、なんというかちょうどいい具合にツッコミ処の豊富な本なのである。変に立派な哲学書を読むよりも、こういう、ほとんどいたるところ隙だらけのおバカな本の方が、素人哲学はいろいろ自分で考えたり、そこかしこに空いている大小のスキマに自分の考えを挿入してテストしてみる余地があっていいのだ、ということのようである。

昨日もちょろっと書いたが、この本の後半は反応拡散方程式のイメージを重ね合わせながら読むのが一番いいのではないかという気がしてきた。つまり自己組織化現象の枠組みで眺めたときに、この著者の考えのどこが妥当で、どこがつまらぬネオ・マルクス主義の三百代言なのか、なんとなく分離できそうな予感があるのである。

たとえば著者は現代の文明世界で「格差」の問題が深刻化している原因を結局のところ「資本主義のせい」にしたがっている。感想(1)でボロカス言った付章にはそれが一番露骨に出ている。そこで活路を開くであろうオルタナティブこそは著者の考えたリベラリズムの新機軸でござい(笑)、という筋立てになってるのだが、結局オチるところがあそこ(付章)だと知った上で読んでいると、なんべん読んでも絵に描いた餅にしか見えないわけである(笑)。一方ではなんかイイ線ついてるような箇所もチラホラあるのにだ。このちぐはぐな感じを取り除くためには、当然ながら著者の記述をいじくり回しているだけでは駄目で、何か外からもうちょっとましな枠組みをあてて、図式そのものを矯正する必要があるのだ。そしてその枠組みとして、わたしの手持ちにあるもので使えそうなのは、やはり自己組織化なのである。

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