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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

絶対に働きたくないでござる(2)

2011年08月27日 | チラシの裏
さて、何しにこれを書き始めたのかと言えば、(1)で述べたように、「とっとと働け」というのも「こうすれば働かなくても大丈夫だ」というのも、いずれもわざわざ論じる甲斐のないことなのであって、だから、それ以外のことを書こうとしているわけである。

現在のわたしは曲がりなりにも職を持っていて給料を稼いでいる。本音を言えばそれとても明日をも知れない何かだと思ってはいるが、とにかく勤め人として働いてはいるわけである。もちろんそれは、根本的なところで言って、好きでやってることではない。「根本的なところで」というのは、仕事の中に何らの意義も楽しみも見出さないのかと言ったら、それはそれで嘘になるということだ。とはいえ、もし仮に宝くじが当たったとしたらどうかということになれば、それはもう決まっているわけである。すぐ翌日にだって全部の仕事をやめているはずだ、ということである。

そんなことはどうでもいいことであって、こうなる以前は、これまでに何度か「絶対に働きたくないでござる」という時期を実際に過ごしたことがあるわけである。それは数か月とか、せいぜい数年のことだった。つまり何十年とそれをやっている人に比べたらたいしたことない長さなのだが、そうは言ってもその状態自体が独特の困難な心理状態であるわけである。この心理状態とその困難の質それ自体は、長さには関係がないと思っている。

わたし自身の経験から言えば、この状態から自力で(というか、筋道の立った形で)脱出することは、端的に言って不可能である。つまりこの状態に伴う困難は、そのような状態系列に終了状態を与えるような、つまり問題を解決するような種類の困難では(たぶん)ありえないということである。たとえばその困難が悩みの形で現われているなら、その悩みには何の意味もないということである。

だったらお前はどうして脱出して来れたのだと問われたら、それはまったく非論理的な「気まぐれ」によってだとしか答えようがない。それは自分自身の気まぐれだったり、外側の世間の方から押しつけられた気まぐれであったりもしたが、いずれにせよ気まぐれであったことは間違いない。つまり、何か合理的な考えなり根拠なりがあるような何かによって、それが生じたことはない、ということである。

強いて言えば、人が生きることの上にはそのような「気まぐれ」が内からも外からも生じうることを否定しないことが大切だ、とは言える。何十年も脱出できない人の中には、そもそもそれを否定してしまっているために脱出できないという人が、いるに違いないと思えるわけである。とはいえ、それを大切に思えるかどうかということ自体がそもそも、その人の生まれついた資質だったり、あるいはたまたま抱え込んだ状況の偶然に左右されることだったりして、結局思いのままにはならないことである。

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絶対に働きたくないでござる(1)

2011年08月26日 | チラシの裏
昔、本屋で中島義道の「働くことがイヤな人のための本」というあの本の表紙を見かけて「また無理くさいことを論じる人がいるものだ」と思ったことがあった。

無理くさいというのは、心の底から働くことが嫌だという人が読みたい本というのは、実際に働かずに済む、しかもその手っとり早い方法を教えてくれるような本であるはずで、それ以外のどんな結論が書かれていてもその人は決して納得しない、つまりその本に値段相応の価値を見出さないはずだということである。

それ以外の結論、つまり、途中で何をつべこべ言ったり論じたりしてみせたにせよ、最後は「要するにとっとと働け」ということが結論になるような本だったら、そんな本をわざわざ買って読むまでもないわけである。それは毎日、何かしらの形で世間から、あるいは身近な他人から、明に暗に言われていることである。「心の底から」働くのが嫌だというのは、そうしたことへの反発それ自体を含んでもいる。だから、結論が「こうすれば働かなくても大丈夫だ」である以外の話を、わざわざ金を払って聞こうとは思わないのである。

そしてその「働かずに済む手っ取り早い方法」というのも、実のところそんなのは人から教えてもらうまでもない、その答は自明かつ一意であるわけである。家が大金持ちだとか、そういう特殊な条件は一切ないという前提のもとで、実際に働かずに済む手っ取り早い方法は、いまの日本ならひとつしかない(ひとつあるだけでも結構なことである)。何億円かの宝くじを当てることである。

もちろん、こんなことは本一冊費やして論ずるまでもない自明のことである。だから、その本もジャンボ宝くじのハズレくじ程度の価値はあるとしても、それ以上の価値は絶対にありえないということになる。

もちろんその本は買わなかったし、今にいたるまで読んだことはない。中に何が書いてあるのか、まったく知らないし、わざわざ調べる気もしない。だから、これ以上その本について書くことはない。

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伝達能力の神秘哲学

2011年08月25日 | チラシの裏

(対人関係断絶系少女その7(1/8)/ニコニコ静画・makotoji)

作者の人は、この作品はとにかくフィクションである、実在の人物・団体等とは一切無関係でありんす、と言い張っているわけである。それはまあそうなのだろうが、そうだとするとこんな真に迫ったセリフをどこから思いつくのか、あるいは拾ってくるのか、前者だとするとたいした想像力だと思う。ニコ静で連載一本持ってるだけというのは勿体ないにも程がある。もっとじゃんじゃん描かしてあげるべきである。

ところでこの1コマが含まれるマンガの題名は妙に長くて「趣味が合おうが同志だろうがコミュ能力がないとどこでもぼっちになるものでして」である。いまどきの人はこの主人公の人やその振る舞いを指して「コミュ能力がない」と形容するわけである。作者もそう言うし、コメントを見る限り読者も不思議と思ってないようだから、それで通じているわけである。いつ聞いても不可解な言葉だとわたしは思っている。この主人公の人も単に引っ込み思案がものすごくて、安定した対人関係を築いたり社会組織的な位置を占有したりすることができないでいるというだけで(だけといって、もちろんそれがしんどいわけだが)、べつだん伝達能力が劣っているように描かれているとは思えないことである。

もっとも、流行語というのは字義通りの意味を持っているとは限らない。単にこういう人のことを「コミュ能力がない」と形容するようになっただけで、伝達とは何か、能力とは何かについて、相応にかっちりした意味が意識されて言われているのではないのかもしれない。実際、社会人の間で伝達能力が云々される場合でも同じような語義脱落が生じているようにも思える。たとえば日常語で生命力とか活力と言ったってそれは通常、これらの語がそもそも由来するところの生気論の神秘哲学を含意するわけではないというのと同じことである。仮にそうだとすればわたしなどは修士(理学)の誇りにかけてその無知蒙昧で反文明的な含意を粉砕しなければならなくなるわけだが、どう考えたってそうじゃないからしないわけである。

「生命力」の場合は仮に神秘哲学が亢進したところで、たかだか「思いこみ薬」のあれこれを常用したりするようになる程度のことだが、しかし伝達能力の方はどうか。ともするとそれは今や企業研修の一部になったりしているわけである。つまり「思いこみ薬」よりはいくらか大真面目の次元に、片足くらいは突っ込んできている。それらのことが明に暗に、人々の心に有害無益な圧迫を加えていることは、次第に疑えなくなってきていると思う。この神秘哲学はそろそろ解体されてしかるべきではないだろうか。今のところはこの邪悪な神秘哲学の本質をうまく捉え切れていないと自分でも思う、けれど黙って放置しておくと日本人の過半はいずれ上の1コマみたいに、のべつ人前で涙をにじませることにもなりかねない。そのうち必ずやりたいと思っている。

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字画の挿話

2011年08月25日 | チラシの裏
あと糸井重里氏などが不必要に平仮名使うのも時々いらっとする。「ほんとう」とか「とうぜん」とか。勝手に奔騰とか陶然とかに変換して差し上げようか。ひらがな男子の元を辿れば吉本隆明あたりだと私は思ってるが、友人は「川端康成が諸悪の根源」と断言してた。
(isachibi59)

こういうことを言う人は物書きでなければ文学少女だなと思ってTLを見たら後者だった。

「時々いらっとする」時々?いつもじゃないというところがかえって謎におもえる(笑)。いつもじゃない時々だから、いらっとくる時は変に激しくなるのだろうか。吉本のでも糸井のでもわざと開いているのにイラつくのは誰でもあることだが、「ほんとう」を「奔騰」に(再)変換してやろうかという嫌悪の向け方は初めて見たのでギョッとさせられた。

糸井のは知らないが吉本くらいの世代が漢語をわざと、また過剰に開きたがるのはそれで育った字体のせいだという気がする。昔の活字はいまどきのそれと違って書体が洗練されていないから、特に哲学・思想系の漢語だくさんな文章をそのまま組むと紙面が真っ黒になる。しかも書体それ自体が無駄に毒々しい。紙もインクも質が悪くて油が滲んでいる。フッサールの古い翻訳あたりを見れば誰でもわかる。立川文庫のたぐいでもいいがこれはそもそも本物がそんじょそこらにはない。いずれにせよこんなもんキモチ悪くて読めやしねえというのが(少なくとも今なら)正常な感性であるはずだ。

吉本はもとが詩人だから字画のこだわりが強い上にこだわり方が常軌を逸している。「本当」は必ず開いて「ほんとう」と書くが、「怒る」は「瞋る」と書かなければ気が済まない。ルビも振らないから初めて読む者はまずこれに面食らわされる。

糸井は吉本の影響も受けただろうが、あれはコピーライタの性質でもあるだろう。わたしの物書きの師匠もコピーライタをやっていた人だったから、物書き稼業を始めたころはとにかく何でもかんでも開け開け、お前の文章は漢字が多すぎていけないとうるさく言われた。あんまり言うから手直しするとき間寛平「開け!チューリップ」を鼻歌で歌うのが癖になって、どつかれた。ポンキッキよりはましだろうと口答えすると何だそれと言われた。

何はともあれ、PCの既定書体がメイリオに変わって以来、わたしなどは前より漢字を使うようになっている。それでも「たどる」を「辿る」と衒うことはしない。「コンピュータ」を「計算機」、「コミュニケーション」を「通信」もしくは「伝達」と書く。無理して開かなくても書体が十分柔らかく洗練されているからだ。

この書体を採用したことは、創業以来何をやっても美的センスだけは1ミリもなかったMS日本法人とも思えぬ大ヒットだ。欧文の既定書体がVerdanaになって、その書体に合わせたのだろうが、よくできた書体であることに違いはない。この書体が長年の悪夢を、明朝やゴチックといった毒々モンスターを、こんどこそ一掃してくれたらと夢想する、が、わが国の場合役所が明朝をやめない限り悪夢は決して去りはしないのである。噫。

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意見を言ってはいけない国

2011年08月24日 | チラシの裏
以下は「高速哲学入門(245)」の続きである。自己フォローである。何せ書いたわたしが驚いているのだからである。

自分で驚いたと言っても、もちろんそれが正解だと思うから書いたことに違いはない。本当かどうかわからないと思ったら「わけの判らぬ」カテゴリに放り込んでいる。

「意見を言う」ことだけではない。そもそもわが国では個々人が生きていることは基本的に認められていないのである。もちろん憲法には認めるべきことが規定されているし、それがあるだけまだましだと言えなくはないのだが、そうは行っても現実の場面で「人権」の2文字、あるいは「基本的人権」の5文字を、真顔で口にするのはかなり厳しいものがあるわけである。厳しいというのは、それを口にしたとたん満座の失笑を浴びたとして(それは普通にありうる)、その場をもちこたえるのは相当に難しいことになるだろうということである。



詩人(最晩年は専らコラムニストだったが)の鮎川信夫が亡くなったとき、同じ「荒地」同人の仲間だった田村隆一が鮎川のことに触れて、正確な文言は再現できないが「日本で個人として生きようとしたら大変なことになっちゃうんだ。結婚もできないしコドモも作れない」という意味のことを述べていた。鮎川はまさにその個人として生きようとした人だったから、同居人がいることもその相手が誰であるかも終生秘匿して生きなければならなかったと田村は言おうとしているように思われた。

そもそも鮎川信夫がどうして私生活のほとんど一切を秘匿し続けたのか、盟友と呼ばれた吉本隆明ですら「よくモチーフが判んねえな」と匙を投げている。実際、吉本は鮎川の同居人が英文学者の最所フミであることを死後知らされてびっくり仰天したという。吉本がびっくりするのなら後は推して知るべしである。そういう意味では、真偽はともかく了解可能な解釈を示したのは田村隆一だけである。



哲学が公共性ということを論じたり、あるいはそのものズバリ公共哲学と称して論じることに、わたしがたいてい白けた視線を送ることになっているのは、結局そういうことである。根本的なところで互いに生きていることを認める気がない、認めていない社会的現実の上に公共性などを見ようとすること自体がデタラメの所業だとしか言いようがないのである。あったとすれば茶番の体系である。茶番は茶番なりに体系化することは──「言語ゲーム」の理論か何かで──できなくはないことであろう、が、もともと実体も何もない茶番だから、そんなものは次の瞬間には消えてなくなる、あるいは「指令66」ひとつで不連続にひっくり返る何かでしかありえないことは先験的である。

誰かが個人として何かを言えば、それはその意味内容以前に、あるべからざるものの存在が主張されていることになるので、内容に関係なくそれは否定される、つまり「叱られる」ことになるのである。相手がたまたま目上の人間であればそこには「長幼の序」という茶番の理由をくっつけて正当化されることにもなるし、相手が目下の人間であれば、最悪の場合問答無用で殺されることになるのである。言葉が正当化しえないことは現実が回収しにやって来るだけである。

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高速試験対策(1)

2011年08月22日 | チラシの裏
いつものように「哲学」でtwitterを検索していたら、なぜかこんなのが引っ掛かった。

【テストに出ます】××弁の「でっかいが」と「でっかいと」は異なる意味を持つ。
(tukimi1)

何のテストだよwwww

さすがにこれは「高速哲学入門」のネタにはならないわけだが、気まぐれで模範解答を示しておく。「でっかいが」は「that which is large」、「でっかいと」は「much」という意味だ。両者の頭に「Please take」をつけると、この2語は××弁で「取ってくれんけ」と訳してうしろにつけなくてはならない。伏字の××はリンク先でどうぞ。

●(追記)

あー、「取ってくれんけ」は字義通り訳すと「Wouldn't you take (to me)」で疑問形にすべきかな。

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各誌編集者よ、この人物に仕事をくれてやれ

2011年08月22日 | チラシの裏
内田樹の本を手に取ろうとするとき、いわゆる庶民の救世主的な意味での、吉本隆明ポジションとしての内田樹、そういう感じで内田樹に接してしまうのが一番まずいといえばまずいですね。(→)

恐らく、内田もそれをまったく望んでいないような気がするし(本を売る戦略として編集者はまた別のことを感じているかもしれませんが)、福満しげゆきと内田樹の性格の悪さと頭の良さは、庶民として、ちょっといつも彼らを完全に愛することを戸惑わせてしまう(この文章、なんて印象批評臭いっ(笑))(→)

そこがなあ、惜しいといえば惜しい、太宰の母性というか、彼のように愛され読み継がれ、庶民を慰める書物としての役割とは、ぜんぜん違うわけですね。(→)

特に内田樹なんてのは若いころに一度高卒で工場かなんかで働いて、いじめられて、「イヤだ」なんていってすぐやめっちゃってる。それから“思い直して”大学にいって学者になって今があるんですけど(出家みたいですね)、(続く)(→)

フツーの庶民は、お金がなかったり彼のように恵まれてないですから、“思い直して”ガッコにいけるわけでもなし。その場にとどまり続けて頑張って人生の喜怒哀楽をかみしめて耐えているわけですよ。まさに頑張る、踏ん張る。(→)

そこで、軽々しく一抜けちゃった人(内田樹ことウッチーのこと)に、その場にい続けている庶民の、どうして庶民の生き難さ・辛さ・喜びがわかりますか。(→)

みなさんが内田樹を読んで、「なんかこいつズレてんな。もやもやしてるし、まあ言っていることわかるんだけど」となるのは、とどのつまりそういうことなのではないのでしょうか。内田樹を読むなら老子を読んだほうがぜんぜん心傷つきませんよ。(→)

けれどもですよ、内田樹を通して現代の倫理状況や政治的な情報のサバきかたを学んだり、見たり読み込んだりする、いわゆるお勉強のために利用するのは、まあ、かなりいいとは思います。内田も多分そっちのほうが喜ぶでしょうね。
(jmejc; Aug.22,2011)

「いわゆる庶民の救世主的な意味での、吉本隆明ポジションとしての内田樹」って何だ。内田樹みたいな本棚野郎はともかく、吉本をそんな風に読むやつがあるかバカモノ、と最初はムカついてTLをたぐっていたわけだが、読んでるうちに、この人は内田本棚なんかよりもずっとましな書き手じゃないか、ということに気がついた。

なにか買いモノに行こう!→でも店員に嫌な気持ちにさせられたらやだなあ→やっぱ今日は買い物やめとこう の流れで買い物を取り消しする現代日本人の数、およそ数百万人はいるんじゃないか。接客業じゃなくとも今の日本の接客レベルは欧米並みになってきてるからね。(→)

レジでたくさん買い物したというのに店員が舌打ちしながら「ありがとござたー」とか。
(jmejc; Aug.12,2011)

確かにコンビニやスーパーなんかで、いかにもコイツは中学のとき「ちくわ部」だったんだろうな、という感じの店員はいまどき少なくないわけである。店員なんかやってるより「おうこら、カラーボールbaaaaaan!」とかやらした方がよっぽどイキイキした顔をしそうな。

大学のさー、センセの、日本語で論文書くとき、あれ変だよね。句読点が。横書きなのはいいとして、点は「、」じゃなくおもいっきり「,」で“カンマ”って感じだし、丸は「。」じゃなくてモロ「.」“ピリオド”って感じ。あれ、西欧じゃそうだからやってるだけなんだよね。別に「、」「。」でいいのに(→)

属国根性というか、植民地らしさが溢れてるよねえ。「,」「.」を無批判に使って論文を書くこと、またそのような論文体で書く人たち……というか、これ国内のすべての学者さんたちだから、そんなもん敵にまわしたくないのだけれど(笑)まあ、マニアなツイートだと思ってくだされば。(→)

あのスタイルでポストコロニアリズムについて書かれていたら、「お前さん、本当はやる気ないでしょう」といいたくなるよ。国内の論文はすべて「,」「.」だなどと意味のない欧米マネで植民地コンプレックスを見せつけるのではなく、ただちに「、」「。」にした方がいいと思うのです。
(jmejc; Aug.9,2011)

これは確かにある。また、これをやりたがるのが文系のセンセイに多いわけである。理系にも多いのだが、たぶん、この規則を強いられたら一番反発するのは、知的な界隈に限って言えば間違いなく計算機科学者だということは自信を持って言える。プログラミングでそれを多用する計算機屋の感覚からすると、カンマやピリオドに「全角文字」を使うことより気色の悪いことはない。もともとプログラマであるわたしなどは、ほとんど生理的嫌悪感の次元で使いたくない何かである。縦書きはもちろんのこと、横書きでも日本語を打つなら句読点はテンマルの方が、断然違和感がない。

ちなみに、この句読点の規則はしばしば学術学会雑誌の投稿規則であったりする。わたしが学生のとき投稿論文を書いた国内のとある学会誌がまさにそうだった。あまりにも気味が悪いので、論文にケチがついたのを幸い、そのまま引っ込めたりしたものであった。いやもう師匠から叱られたの何の。

そうでない場合でも師匠の教授がこの規則の信奉者だったりする場合がある。弟子が勝手に違うことをすると嫌われるので師匠に倣っているうちに、自分自身もこれでないと書けなくなったということはありうる。そういう意味ではこの規則は、植民地コンプレックスというよりは(もともとはそうだったとしても)習慣化した文章作法というのは生理的感覚に食い込んでしまう何かであることの、その結果である側面が大きいかもしれない。

もうひとつ。

デビッドさん「こんな状況で、よく日本人は暴動を起こさないなあ」太郎君「暴動? 一日12時間近く働いて、安くなった単価分の3倍は働き、仕事は常に抱えすぎ、利益がでたかと思えば株主へ。正直、布団にクッタクタになってみだりに寝込むことだけが、革命的な日本人の暴動なんだよ」
(jmejc; Aug.10,2011)

だよなあ。「革命的」かどうかは知らんが、わたしもそう思う。オーベー人が暴動を起こしたりしているの映像を見るたんび「こいつら仕事しなくていいんだろうか。その仕事がないということか。でもそんならそれで職安に行かないと、あとでカアちゃんに怒鳴られたりするんじゃないか」と思ってしまう。ところで「みだりに寝込む」って珍しい言い方だな。

まあ、だいたい面白い指摘が多いのだが、たまには変なことも書いている。

アレね、(金)メダルを噛むっていうの、いつからどこからはじまったかねえ。むきだした性欲や欲望を叩きつけられているみたいで不快なんだけど。一瞬の勝利者の笑みを映し出す点では美しいが、メダル→噛むではただの脊髄反射のバカだよね。変わりに銀紙でも突っ込んであげたいよね。
(jmejc; Jul.21,2011)

これはひどい思い込みと言いがかりだと思う。そんなこと言われたって、あの色と形は日本人の目には煎餅ないし板チョコ以外の何物でもないわけである。つまり、なんか齧ったらいい音がしそうだし、またそこで芳しい、よい香りが漂いそうな何かである。ましてや誉ある場で授けられた特別製の、そのまた最高級品である。つい齧ってみたくなるのは人情というものである、とわたしは理解している。

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貧困の国では哲学が流行る、哲学の国には貧困が蔓延る

2011年08月22日 | チラシの裏
独り言の続き。

ネタ探しのためにtwitterを検索していると、どうしてもそんな気分になってきてしまう。わたしと大差ない素人哲学の呟きにしても、専門家やその卵が暇潰しに呟いているのにしても、である。「金無きに因する思想」ばっかりではないか。何が何でもカネが欲しい、という連中が「哲学とかくだらねー」とか反発して呟いていることも含めて、である。

実際すでにそれだけ長いこと、わが国は経済成長とか、そういうものから見放され続けているわけである。経済成長率の高さはその国や社会の豊かさの指標としてはそれほど的確なものではないだろうが、成長率の低さはその国や社会の駄目さ加減の指標としてこの上もなく的確であることは間違いないと思えてくる。そういう意味に限って言えば、この20年間わが国はずっと、世界で最も駄目な国であり社会のひとつであり続けてきたことになる。



もっとも、ある社会学者が言うには、この20年以上日本が経済成長し損なってきたのは、ひとえに円高のせいだということになるらしい。それも1995年のあれではなく、1985年のプラザ合意以後の円高のせいだ、と。

  盛山 和夫「経済成長は不可能なのか」(中公新書)Amazon / 7net

この本にはわたしが読んでも怪しいと感じる、というか専門の経済学者から見ればたぶん噴飯物であろう記述がたくさんあって、積極的にオススメする気にはならないのだが、それでもリンクは張ってみる、というのは、経済成長は経済政策が作り出すものではない──マーケティングが市場(ニーズ)を創出したためしがないという意味で──という点に限って言えば考え直されてしかるべき観点がいくつか示されているように思えるからである。つまり著者の言うことを鵜呑みにするとひどい目に会いそうだが、経済学者をはじめとして専門家の御託を鵜呑みにしてひどい目に会い続け、しかも自分でそのことに気づいてない人の目からウロコを落とすくらいの効用はありそうだということである。



何はともあれ哲学や思想が貧困の言い訳だったり、ましてや貧困の擁護などであってはならないとわたしは思っている。そういう結論が出そうに思えたら先験的かつ自動的に疑ってかかった方がいいとさえ言える。それじゃまるで神秘主義だということになって気味が悪いと思えたら、哲学の方は暫時よして違う方向に目を転じてみるのもひとつの方法だということは、わたしが経験的に体得してきたことのひとつである。

具体的に言うとわたしの場合は技術書や技術雑誌をめくってみることがそれにあたっている。哲学書や思想書のたぐいに読みふけった時期の後でおもむろにそういうのをめくり返していると、哲学とか倫理とかの観念的な事柄はすっぽり抜け落ちた、実際そんなことには一切かかわらないで済む、まったき「ブツ」の世界が大変清々しいものに感じられるのは、本当のことである。あるいは同じことが、生物屋が観察の手を止めて生き物──ヒトを含む──の世話を始めたり、アーティストが作品制作を放ったらかして猟色(人によっては美食)三昧に耽ったりすることについても言えるのかもしれない。

●(追記)

結論を書くのを忘れていた(笑)。要は哲学みたいなものが社会に貢献することが可能だとしたら、今の日本であればそれは「成長の哲学」というようなことだけであるとわたしは思う。

昔の経済成長はよくも悪くも半分は幸運と外的要因に支えられていた。残りの半分も人々が遮二無二豊かさの方へ向かって突っ走ったということで、いずれにせよ、社会や個々人が豊かになるとはどういうことなのか、それが考えられていたとは言えないものだった。いいかえればオーベー諸国の思想家もそんなことはほとんど考えていなかった。それを考えていると称する哲学思想のほとんどは実際、「心の哲学」の多くが心をなきものにせんとする哲学であるのと同様、心の底では(人民大衆の)豊かさをなきものにしたい知識層の怨恨を必ずどこかに隠していた。

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電子流言論(2)

2011年08月19日 | チラシの裏
もともとわたしは社会学や社会心理学の専門家ではないし、ましてや流言蜚語や都市伝説の研究者ではないわけである。せいぜい学生だったころに複雑性や自己組織化現象の勉強や研究をやっていて、当時急速に普及しつつあったインターネットと、その電子掲示板を介した伝達において、明確な定義はできないもののあるとしか思えない特徴的な言語の組織化現象について、これ論文のネタになんないものかと一時期検討したことがあった程度である。

結局それには手がつかなかった、というか、手持ちの知識であれ方法であれ歯の立つところが見当たらなかったので、将来の課題だということで棚上げにした。自分の関心はどうやら行為の意図とか、あるいは自由意志というところに向かっていて、それについて何か意味のあることを考えるとしたら、それはもはや残念ながら科学ではありえない、ということに気づくようになっていたからである。もっとも、その時点ではそれが哲学の領域だということさえ知らなかった。



いわゆる流言蜚語のたぐいと電子流言の間で何が異なるのかと言えば、まず第一に通常の流言蜚語が話し言葉の口伝えで拡散して行くものである一方、電子流言のそれはほぼ例外なく書き言葉のそれだということである。つまり通常の流言蜚語と比べると、はるかに作為的な要素が大きいものである。たとえばエロゲをやってる最中にクソ真面目な話を、話し言葉でやるのは相当に困難なことであるはずだ(実際、わたしはやったことがない)が、書き言葉でやるのは何でもないことである。

もうひとつ、電子流言の場合、そこに含まれる虚偽は事実の虚偽であるよりはずっと多く解釈の虚偽である。多いだけでなく、これがまさに電子流言に特徴的な深刻さの次元を与えている。事実の虚偽は検証可能な訂正情報を流せば大なり小なり打ち消すことが可能であろう、が、解釈の虚偽は訂正しようがない。それはつまりもともと存在しない事柄であり、その意図があったかどうかにかかわらず、そこで初めて創出された事態であるからである。「それは誤解だ」と弁解したり否定したりすること自体がその事態の存在を追認し、さらに強化することになってしまうことさえありうる。

後者の明瞭な事例のひとつとしては、ついこの間、某地方テレビ局が誤ってしでかした「Csさん」テロップについてのtwitter上での呟きを挙げることができると思う。実際に起きたことはCG製作者の悪ふざけと放送局の操作ミス、あとは、誤って映ってしまったテロップを直ちに退けることができない仕組みであったらしい技術的な不備といったものである。けれどもtwitter上の呟きの大多数はそうした通常の解釈をはるかに逸脱した解釈の上でなされていた。たとえば、件のCG製作者は端的に悪意から、つまり、同じテロップの上に表示されていたところの米産地やその農家を侮蔑する意図をもってあのようなテロップを作成したのだというような。そう解釈しているのでなければありえない悪辣な罵言が山ほど流されていたわけである。ここでいう「解釈の虚偽」というのは具体例で言えばそういうことである。

この先で書く予定のことを今のうちに断っておくと、この「解釈の虚偽」というのを文字通り受け取られると困る。電子流言に固有の特徴をごく素朴に言ってみればそんな風にも言えるというだけで、電子的な伝達媒体の上を流れる書き言葉のうちで、解釈の虚偽を含むものはみんな電子流言かと言えば、決してそうではないわけである。

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電子流言論(1)

2011年08月19日 | チラシの裏
一昨日くらいに、某作家が某オンライン雑誌のインタビューで「原子力発電所の事故に伴って起きる風評被害の責任は政府と電力会社がとるべきだ」などとバカなことを言っているのに苦言を呈した。そんな言い草はまるで、ナチスが反ユダヤの暴動を起こしたら、その責任はユダヤ人社会が取るべきだと言うようなものである。デリダ研究で名前を売ってきたくせに、そのデリダが冥府で戦慄しそうなことをよく言えるものだ。

その作家がなんでそんなバカなことを言うに至ったのかははっきりしている。その作家は震災後、というより福島原子力発電所の事故の後、放射線物質の飛散に伴う影響がどれだけ、どこまで及ぶかわからないという理由で一家して東京を離れ、しばらくどこかに疎開していたわけである。よせばいいのにそのことをtwitterで吹聴したりしたために、ある意味では筋違いの非難を結構たくさん浴びせられた、要はそれがもとになっているわけである。デマ情報が錯綜する中で家族の健康を案じて念のため避難することがそんなに悪かと、その非難を浴びているさ中も、その作家はそう言って反論していた。それは正当な反論と言うべきものだったので、わたしもこのblogで擁護するようなことを書いた。

ところが案に相違して、その作家はどうやら内心ではずいぶん身に応えたところがあったらしい。単に一家で避難していたくらいのことを重ねて正当化するために、とうとうナチスの蛮行までユダヤ人のせいにしてしまうような論理に陥ってしまったのである。いくら思想家は廃業したただの作家だと言われたって、この作家はそんなこと言いながら思想の名を冠した雑誌を出版したりして結構な評判を取ったりしている(もっとも、これ自体はいいことだ)わけである。そんな曖昧な場所から物騒なことを言うのは思想家としてはもちろん、ただの作家や出版社経営としても前途の思いやられることである。思えば、もともとデリダのようなポストモダン思想は裏手の方で欧州左翼に一脈かんでいるところがあったことである。その暗黒面に引きずられ、振り回されているのも大概にしたらいいと思う。

もちろん風評被害やそれを引き起こした流言蜚語の責任を取るべきなのは、その流言を意図して流した左右のテロリスト共、そのデマ宣伝にうっかり乗じて、しなくてもいい右往左往をした者達に決まっているのである。だいたい、もしその責任が政府にあるとするなら、どんな善良な政府だって「国民の精神衛生増進のため」などと称して大規模な情報統制を行うようになるのに決まっているわけである。いかな言論表現の自由と言ったって、たとえば毒ガスの分子状態を媒体とする通信手段の実用化開発使用を禁じることを妨げられるはずがない。特に政府にその責任があるということになればなおさらそれは正当化されてしまうことになろう。しかく、負ういわれのない責任を負わせればそのツケは負わせた側に跳ね返ってくるだけなのである。

とは言うものの、政府が何もしなくていいというわけには行かないだろう。震災以後、いやそれ以前から、主にインターネット上の電子的な通信伝達手段を利用するかたちで生じている、電子流言(electronic canard)とでも呼ぶべき社会現象についての調査研究は、今後は盛んに行われてしかるべきだと思う。もともと流言蜚語一般についての研究もそれほど十分に行われてきたとは言えないように思えるのだが、それは単にわたしの不勉強かもしれないからさておくとして、それにしても現在猖獗をきわめている電子流言には、従来からある流言蜚語や都市伝説の類とはいくらか異なる特徴があるように思われるのである。

・・・と、書くだけはつらつら書いてしまったが、続くのかこれ。続かなかったらゴメンだな。

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最後の平和論(3)

2011年08月19日 | チラシの裏
●欲望2

平和の話がなんで欲望の話から始まっているのかというと、このふたつはもともとわたしがコドモの頃から疑問にしている、あることにつながっているわけである。それはどういうものかというと

「文明がこのまま進歩して行ってあらゆる欲望が満たされたとすると、その後は何をすることになるのか」というものである。もちろん本当の疑問はこれではない。これの答えは明らかであって「何もねえよ」なのである(笑)。どうしよう、というのが疑問なのである。

普通こんなことを延々と疑問にし続ける人はいないことになっている、というのも、多くの人は欲望がそれ自体として際限のないものだと思っているからである。「あらゆる欲望が満たされたとすると」という条件が満たされることはありえない、とすれば上のような疑問は問うことに意味がなくなるわけである。

そしてわたしは最初からそうは思っていない。欲望は外からかき立てられる限りにおいて際限のないものであるだけで、それ自体としては別に何てこともない、ただ単に食って寝ていられれば、本来はそれで十分なはずだと思っているわけである。幼稚園児の頃からである。いかにも、ついこの間まで赤ん坊で、「食って寝ていられればそれで十分」という時間を過ごしていたからそう思ったのに違いないことである。しかしその後何度考え直しても、それ自体は正しいとしか思えないわけである。

わたしが上の疑問を最初に持ったとき、日本は高度経済成長のそれこそまっただ中であって、まだオイル・ショックも起きてはいなかったのである。つまりそのころは「あらゆる欲望が満たされたとすると」という条件が有限の未来のある時点で満たされるはずだという考えを、十分な現実感を伴って持つことができたのである。その未来では普通にクルマが空を飛んでいるというのに、つまるところただ食って寝るだけの欲望が満たされていないということがあるだろうか。そしてその未来は、ほぼ確実に、自分が生きているうちにやってくるはずなのである。1968年だったか69年だったか忘れたが、その時の幼稚園児にはそう思われたことであった。

このシリーズの題名に「最後の」とついているのは、だから、これがわたしが生まれて最初に心に抱いた疑問で、そのときはもちろん哲学のテの字も知っていたはずもなかったことだが、いま考えてみればこれは間違いなく哲学的な疑問なのである。それに答えられるかどうかはともかく、答えようとする限りにおいて、だからこれは「最後の」疑問だということになるのである。

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最後の平和論(2)

2011年08月18日 | チラシの裏
実は上の題名で書こうとしていたものの冒頭部分になるはずのものが以下なのである。アトランダムに考えているせいで、文章が出てくる順番も滅茶苦茶なのである。



題名には意味があるようなないような、である。最初に「最後の戦争」とつけてみて、しかしそれだと「最終戦争」という意味に受け取られかねないから、戦争と平和をわざとひっくり返して「論」をつけたのである。つけた方が語呂がよさそうだからである(笑)。

実際、言わんとすることはどちらかと言えば「恒久的平和のために」というようなことなのである。とはいえ、カントじゃあるまいし、である。実際、カントとおんなじことを言おうとしているわけでもない。たぶん全然違う。

少しばかり嫌なことに思い当たったわけである。現在の文明世界のほとんど全体を覆っているようにも思われる、このどうしようもない停滞感のようなものは、早い話が文明の先進国の間では戦争が事実上不可能になったからだという理由が(それだけが理由ではないとしても)あるように思われる、ということである。

急いで註をつけておくが、別に、だから「戦争あるべし」などということを言いたいわけではまったくない。その点では題名の通り、この一文は「平和を求めること」についての考察なのである。基本線だけを最初に示しておけば、我々は文明の停滞を打ち破る方途として戦争を起こす以外の方法を創出することによって、今以上に戦争を起こりにくくする、できるならば永久に起きないようにしなければならないということである。

どうしてそんなことを思ったかと言えば、仮に(反事実的に)現在のわが国が戦争の不可能な国でなかったとしたら、原子力発電をやめようなどというバカ気た話がそもそもありえただろうか、ということである。

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最後の平和論(1)

2011年08月18日 | チラシの裏
●欲望

欲望というのは際限のないものだとよく言われるが、わたしはそう思っていない。欲望はむしろ本来的には全然たいしたことはないものではないだろうか。際限がないというのは、それをかき立てられる要因がある限り際限なくかき立てられてしまう性質の方にあるのだと思っている。

もし仮に、それをかき立てる要因が何もなかったとしたら、個々人の欲望というのはせいぜい、食べることと寝ることの欲望があるだけなのではないだろうか。強いてひとつだけつけ加えるなら、働かないで済むこと(笑)つまりは生を、その自由を妨げられないことの欲望があると言えるだけである。これだけだって全員を十分満たすのは容易なことではないはずだが、それにしてもそれだけなのである。

もちろん現実にはわたしも含めてたいていの人は全然そうではないわけだが、それは実際、大なり小なり欲望をかき立てられてあるところを持っているからである。中でも一番タチの悪いのは「心の傷」というやつである。

「心の傷」のすべてがそうかどうかはわからないが、ある種の「心の傷」は何をしても治らないし、時間の経過とともに軽く(浅く)なる傾向にすらないわけである。身体の傷が治るのは、単純に身体に修復能がある(しかもそれはしばしば過剰な修復である)からである。だが「心の傷」の方はといえば、そうした修復能があることも、当然ながらその機序も、はっきりと示されたことは、かつて一度もないはずである。

できることはせいぜい、その折ごとの痛苦を取り除くことだけである。人が欲望を際限なくかき立てられるというのは、基本的にはこれのせいだと考えていいのではないだろうか。

実際、貪欲さほど個人差の大きなものはないわけである。まったく同じことをまったく同じように始めても、あっという間に──場合によってはほんの数秒で──満たされてしまって、それ以上何もしなくなる人がいるかと思えば、最初の望みを延々と、少年ジャンプのマンガのように拡大し続けては、それを繰り返し追い求め挑みかかることが生涯のすべてになってしまう人もいるわけである。

こうしてみると、際限のない欲望それ自体が人間の本性であるとは思いにくいのである。

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「棚上げ」論(2) ─メモランダム─

2011年08月15日 | チラシの裏
(1)の文献において「棚上げ」は国境問題に対する方途として示されているわけだが、ここでは政治問題一般に対する方途としての「棚上げ」を考えようとしている。

一応断っておくと、ここでは「政治」ということを「競合する利害を調整・調停すること」の意味に限っている。

本当はそれだけだと言いたい気持ちが、わたしにはなくはない。とはいえ、大多数の人々の日常生活に直接影響するような大きな政策について、単なる個人的な信念から勝手に決めつけたことを喋ったり喋らなかったりするのが政治だ、と本気で思っているような政治家も(たぶん)たくさんいるわけである。そのような、対立・競合する利害の調整も調停もへったくれもない、ただの横暴という意味での「政治」が、わが国では確かに行われていることを忘れるわけにもいかないことである。

しかしいずれにせよここで考えるのはあくまで「利害の調整・調停」である。政治プロセスにおける「競合」ということを計算機プロセスの「競合」と類比することが多少とも正当でありうると言えるのはこの場合だけである。優先順位の高いプロセスが常に資源を占有して構わないなら、オペレーティング・システムにおける資源共有の計算機科学などいらないわけである。

そういう類比はできるとしても、計算機科学で扱えるのは、デッドロックを回避する手法と、デッドロックが生じた際にそれを可能な限り整合的に修復できるようにするロールバック(「取り返し」と訳すのがいいかもしれない)の手法だけである。ロールバックということが不可能である場合、計算機科学の枠組みにおいてデッドロック(によって生じた情報の破損)を整合的に修復することは、それを考えること自体が不可能である。そして政治的なデッドロックとはしばしばその「取り返し」のつかない問題である。

国境問題のそれを念頭に置いて「棚上げ」にするということの本質を考えてみると、それは「問題解決を放棄することで問題そのものを事実上消去する、あるいは事実上消去したのと同じ状態を、その問題に関して新たに定義すること」である。尋常な言葉で言えば「なかったことにしよう」ということである。


「(見)なかったことにしよう」
(BPS バトルプログラマーシラセ/(c) GANSIS・AIC・BPS製作委員会)

先送りすることではない。先送りするくらいなら今解決しろということに、普通はなる。近い将来消滅することが確定しているような事実が問題解決を阻害しているという場合は先送りすることに意味がある、とはいえ、一般に国境問題というのはそうした種類の問題ではないであろう。

これを計算機プロセスのデッドロックに引き写したとして「なかったことにしよう」というのはどういうことになるだろうか。言ってみればデッドロックを引き起こした(そして情報的に破損している)共有資源を「なかったことにする」ことに等しい。プロセスの側から言えばその資源にアクセスしている命令コードを、少なくとも書き込みを行う命令をすべて消去する(実際的には無効命令(nop; no-operation)や即値定数(immediate constant)の読み込み命令で上書きする)ことである(読み取るだけなら排他制御も必要でないから、デッドロックは生じない)。

これで万々歳か。むろんそんなわけはない。それがたまたま誰かの預金口座のデータだったとしたら、その人は預金口座を凍結されたと同じことになってしまう。以後できるのは残高照会だけ(しかも、そこで表示された数字に意味はないとされる)で、預入も払戻も永久にできなくなってしまう。計算機システムがそのように動作することは、当たり前すぎるが許されないことである。

「棚上げ」が有効であるというのは、だから、政治プロセスの競合においてはそれは必ずしも許されないことではない、ということを意味している。デッドロックを起こした口座を凍結するかわりに、別の口座を用意すればいいだけだという場合があるからである。別の口座と言っても同じシステム上のそれであっては意味がない(同じ競合がまた起きるに違いない)から、たとえば他行の口座に振り替えるというようなことである。

これは当該のシステムにとっては超越的な解決であるということになる。預金口座を管理するシステムの上に他の銀行の口座などは存在しないし、存在すべくも、させるべくもないからである。いったいどれだけ鷹揚な顧客であろうと、受注業者がそんなシステム設計をすることを許容するはずがないという意味でもある。

けれども、現実にはそうしたことは行われうる。すべての銀行は大なり小なりその国の中央銀行なり政府なりによって統制されるところを持つからである。それが極端になると昔のわが国のいわゆる「護送船団方式」になるわけで、今ではそうした強い統制は敷かれていないけれど、そうは言っても先進国の銀行でそうした統制をまったく受けない銀行も存在しないはずである。

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「twitter終了か」談議

2011年08月14日 | チラシの裏
まあ〈ツイッター〉が終わりのフェーズに入ったのは概ね間違いないと思うんだけど、掲示板サイトのスターたちがblogに移行したような、後継となる開放的自我の回収装置が、いまんところ見つからないんだよねえ。
(tekusuke)

後半は正直何のことを言っているのかサッパリ判らんのだが、判らんからという理由でカットするのも不見識だから残してある。おおよそこの呟きのあたりから小規模な議論が起きている、ようにも見える。

終わると言ったって半開伝達装置としてのtwitterは(サービスそのものが終了しない限り)終わらないだろう。俺はそういうことする相手もいない(笑)から、アカウントを凍結したまま使ってないわけだけど。呟きの主が言ってるのは言論の乱弱組織体としてのtwitterのことであろうと思われる。震災からこっち「蝗害」が激しくなって一向に収まる気配がないわけである。その影響で「蝗害」化してない普通のユーザの呟きにも質的な変化が見られるということなのだろう。2chのように板単位スレ単位で隔離病棟を併設することもできないtwitterの、これが致命傷になるのかもしれない。

ホント困るよなあ。紋切型収集装置としてだけ見ればtwitterは便利だからな。

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