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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

「棚上げ」論(1)

2011年08月14日 | チラシの裏
この「棚上げ」というのは孫崎享「日本の国境問題」の中で示されていたあの「棚上げ」のことである。この本の中で著者は、国境問題に対処する途のひとつとしてそれがあることを示し、実際に日本と他国の間でも、また日本と関係ない問題でも、しばしばこの途が採られてきて、それ相応の有効性を示している、その実例を紹介している。

わが国の抱える3つの国境問題がその方向で対処されるべきなのかどうか、それはわたしには判らない。それを本気で判断しようと思ったら、日本と相手国のそれぞれの立ち位置とか、問題の背景事情についての具体性に踏み込んだ、要するに専門家の知見が必要になるはずである。そこまで踏み込まないでこれらを論じる意味はないと思う(上掲書はまさにそうした専門家が書いているものだから読む価値があるわけだ)。わたしは専門家の書いたものを読む以上の深い関心は持っていないし、また持ちえないことである。

ただ、わたしが興味深いと思っているのは、この種の(国際)政治問題が計算機プロセスのデッドロックのような状況に準えられるものだとすれば、この「棚上げ」というのは何だと考えられるのかということである。計算機科学においてはこれに類似した概念はないわけである。少なくともわたしは聞いたことがない。

そもそも計算機プロセスのデッドロックの場合、問題になるのは専らそれをどうやって回避するかということである。実際にそれが起きてしまった場合にどうするかということではない。簡単に言えば「起きてしまったら(理論には)どうすることもできない」のである。デッドロックが発生したら、原則としてはシステムを停止させ、デッドロックに入り込んだプロセスを(可能なら)ロールバックさせ、デッドロックの原因になったコードを修正した上で再起動するしかない。ロールバックができない場合の復旧は計算機システムにとって超越的なことになる(たまたまどっかに残っていた古いバックアップ・データを探し出して破損箇所を穴埋めするなどの方法で非正規的にロールバックするとか、そういうことになる)。要は理論もへちまもない現実的なあれこれをごちゃごちゃと色々するより仕方のない何かなのである。

そして(国際)政治におけるデッドロックは専ら「起きてしまったものをどうするのか」の問題であるわけである。そこで「ロールバック」ということはほぼありえないと言っていい。それは国家の時間を巻き戻すのに等しいことである。少なくとも国家を構成するほとんどすべての要素を巻き戻さなければならないし、ほとんどの場合は国家がその上に存在しているところの社会全体の要素もこれに絡んでくることになる。それは一般に不可能である。計算機のデータはどこかに残っていさえすれば再度書き戻すことで「取り返しがつく」。けれども国家や社会の現実は多く「取り返しのつかない」ことばかりである。政治家がしばしば曖昧な答弁をするのは、取り返しのつかないことを言って政治的なデッドロックの状況を生じさせたくないという理由があるに違いないと思う。

計算機プロセスでも政治プロセスでも、デッドロックと呼ばれる現象に直接かかわるのは、実際にはシステム全体の本当に微小な部分にすぎないことが多い。計算機の場合はたった1命令の、1ビットのデータのアクセス順序に関する競合でありうるし、政治の場合は地図上から確認するのが難しいくらいの、海面からほんのちょっとばかり頭を覗かせている小島であったりするわけである。直接かかわるのは本当にそれだけなのに、計算機の場合はその1命令のためにシステム全体がダウンしてしまうことがある。政治の場合は当事国の国家体制そのものを揺るがしかねない(ということは戦争勃発の直接原因になりかねない)ことがある。ミクロな競合がマクロな過程全体をぶち壊しにしかねないし、事実しばしばぶち壊すという点で、両者はとてもよく似ているわけなのである。そして計算機の場合「起きてしまった場合」の超越的でない解決策は、ロールバックが不可能であれば存在しないのである。政治も基本的には同じだが、しかし「棚上げ」には有効性が認められると上掲書の著者は言っている。事実の問題として確かにそう思えることである。歴史的にも有効だと見なさざるを得ない事例が複数存在していて、誰でもそれは事実として確認できる。そして少なくともこの「棚上げ」は、表面的に見れば超越的な何かを必要としない方途のように思えるわけである。

で、この「棚上げ」ということは、正味のところで言って何を意味するのだろうか。意味というのはつまり、それはいったいどのような形で、どのような枠組みのもとで整合的に理論化できるのか、あるいはできないのかということである。

これを書き始めるにあたってこんな類比を実際にやっている既存研究の論文なり書籍なりがあるのかどうか、ざっと調べてみたのだが見当たらない。見当たらないので勝手にいろいろ考えることになるのだが、そういうものがあるのを知ってる人がいたら教えていただければ幸いなことである。もっともこのblogはコメントもTBも拒否している通信途絶blogなので、直接報せる手段は存在しない。

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試し書き2

2011年08月11日 | チラシの裏
つまり以下が下の「試し書き」に飽きた後で唐突に続けて書き出したものである。本当はどうハナシをつなげたいのかと言えば、ふたつの伝達モデル、MMCSとLORCSを適切に共存させること、無意味で無益な「呟き蝗害」やら「祭り」やらをできるだけ生じさせないモデル統合を成り立たせることが、仮に可能であるとすれば、それは「社会構築と統制」の観点からではなく、相互主観性の観点からこれらのモデルを捉え返すような観点が必要になるはずだとか、なんかそういうことなのである(笑)。



他者とか社会というものは本来的には何かと言えば、個々人の意識において構成される行為の先に志向される、つまり創出される対象である。行為は行為されることによってその対象を創出する。人間の目はカラダの前方の、それほど広くない範囲を見渡せるにすぎないが、人間は他者を介して自分の目からは見えないものを見ることができる。正確に言えば「見たことにする」ことができる。あるいは社会を介して、特にそれが発達した現代の文明社会であれば、目の前のリンゴばかりではなく地球の裏側に生えている果物に手を伸ばす(手を伸ばしたことにする)こともできる。たぶんはじめは呪術的に、後には意識的に構成された言語を媒介してそれを行うようになったこと、それが人間における意識的な行為を特異なものにし、また、おそらくは生態学的な地位をも特異なものにしたのである。

以上はもちろん、ついこの間思いついたばかりの、まったくの仮説である。知覚される他者と行為先の他者もしくは社会を、はじめから一緒くたのものとして考えない、ということがこの仮説の眼目である。それを一緒くたにしてしまうことが他者論を不毛にしてきたのではないかということである。

人間の意識は他者の目を介してものを見る、というのはもともと現象学における相互主観性の考え方からヒントを得たものである。経験のすべてを意識の経験に還元する、わかりやすく言えば独我論的な視点からはじまる現象学が、いったいどこからどうやって他者を導入することになるのかというと、そういう風に考えるわけである。

言ってみれば遠くにあるものを見るときは、そのものの傍にいる他者に乗り移ってものを見るというようなものである。どうしてそんなことが可能なのか。現象学の場合は「要は同じ人間だから」ということになってしまうようなのである。これは無茶である。「同じ人間」という考え──しかもこれは、きわめて高度な考えである──が「他者」に先んじて成り立つはずがないからである。少なくとも論理的には根拠に乏しい、いかにも無理な論理である。この無理くささは、しかし他者性の根拠を行為の方に置くことで解消できるのではないだろうか。我々は意識において行為を構成するとともに、その行為において社会を創出する。知覚経験の方からすれば社会はまったく現実の存在ではない、いうところの幻想である。にもかかわらず社会が人間の意識にとってきわめて現実的であるのはなぜなのか。

我々は社会的に行為するのではなく、そもそも行為において社会を創出するのである。社会を、その制度を、他者を創出するのである。創出された社会や制度(つまり常識や非個人的な慣習)は経験に回帰してさらなる知覚対象を創出する、もしくは原的な創出を修飾する。この繰り返しから経験的な世界は、つまり意識における自由の範囲は、徐々に拡大して行くことになる。

以上における「社会」のイメージは、しかし、まったく素朴というか原始的なものである。我々が社会とか自由について考えるとしたら、本来は各々の自らの行為において創出したはずの社会、あるいは他者から、逆に振り回されたり、揃いも揃って牛耳られたりするような経験について、あるいはそこからの解放という意味での自由ということについても考えるのでなければ、我々自身の現実にかなうものではないということになるだろう。

●(以下はただの断片)

意図的な行為ということを素朴に考えれば、我々は意図に基づいて行為し、その結果として外側の世界の状態をなにがしか変化させるというようなイメージになる。それはたとえば対象として捉えられたコンパクトな物体に関する状態の変化であって、非コンパクトな世界全体すなわち〈残余〉がまるごと歪んだりするわけではない、にしてもその物体は〈残余〉の中にあるわけである。

意図ということは行為と結びついている。意図されたことが実際に身体運動となるかどうかはともかく、ここでの行為とは、あくまで意識の側における行為である。いずれにせよ行為ということがないところに意図を考えることはできない。意図なしの行為はありえても、行為なしの意図は考えられない。

社会や他者はいつから、どのようにして、それを創出した我々自身を逆に拘束し、あたかも自らが意志を持つものであるかのように我々を振り回すようにさえなるのだろうか。正確に言うと、そう感じられるのだろうか。

もともと経験は拘束的なものである。目の前にリンゴを見たとき、それをミカンだと思うことはできない。リンゴだと見えたものを無理矢理ミカンのように見ることは、仮にできたとしても、そうする以前にまずリンゴだと見えたことは変更がきかない。つまり経験は規則ではない。規則はいつでも破ることができるが、経験を破ることはできない。

人を操る素朴な方法のひとつは、その人にとって不快であるはずのものを使うことである。不快なものはどうしたって不快なので、人はそれをできるだけ避けようとする。だから選択肢を常に有限にして、そう進んでほしい選択肢以外のすべてに不快なものを置いておけば、その人は黙っていてもそう仕向けられた通りに行動してしまうことになる。少なくとも、何もしない場合よりはその確率が非常に高くなる。

それはともかく、自由ということは常に行為の側にある。知覚の側にはない。不快なものから目を背けることはできるが、自由は首や体を捻って目線を逸らすことの方にあって、たまたま目に入った不快な対象の知覚をキャンセルする自由はない。見てしまったことそれ自体はどうにもならないのである。

自由は常に行為の側にある、ということはつまり、規則というものも常に行為の側にあるわけである。

規則は自由そのものを破壊することはできない。規則がどんなに厳しいものであろうと、破ることのできない規則はない。破りにくくなるということさえない。自由はいつでも赤信号で横断歩道を渡ることができる。たとえ絶え間なくクルマが通過しているような状態であろうとも、自由は何も妨げない。

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試し書き

2011年08月11日 | チラシの裏
以下も昨日書き散らしたメモの抜粋である。唐突に始まるのは、この前に「twitter蝗害」と題して例の「セシウムさん」の事件以後なかなか収まらない「呟き蝗害」とそのあるべき抑止策について考察していたのだが、どうもあんまりうまくまとまらないので、その後に書いた別の文章だけ抜き出したのである。3パラグラフほど書いて飽きた(笑)ので中断した格好になっている。

こんな不完全なものうpするなと言われそうだが、俺のblogだ、好きにやらせろである。



もうひとつ、これは2chでも有効に抑止されたためしがない「祭り」がある。

これは深刻な問題ではあるが、とはいえ、これはあくまで過渡的な形態であるという見方も可能である。なぜなら「祭り」が起きて、それが深刻な様相を呈するというのは、大なり小なり大規模伝達(mass communication)が絡んだ事象だと言えるからである。つまり「祭り」は、社会構築と統制の大規模媒体・大規模伝達モデル(MMCS; mass media and communication model of social construction and control)が解体して行く過程で現れる過渡現象であるという見方もできなくはないのである。MMCSモデルが全体として無効になったかどうか、全面的に解体されて行くことになるかどうかはまったく不明である。ただ、それがもともとある部分では成員の要請に十分応えられるものではなくなっていること、新しい形態である乱弱組織伝達モデル(LORCS; less-organized or random communication model of ~)と根本的に整合しない性格を持つものであるために、両者が交錯するところでは特に問題が生じやすくなっていることまでは確からしく思える。

LORCSモデルは本来ごく小規模な集団における選択肢である。それが現在では、地球全体を覆うほどの巨大な「乱弱組織」が成立する局面すら生じるまでになっている。これは明らかにIT技術の進歩の結果である。一方のMMCSは文字通り本性的に大規模化しやすいものであるが、一方ではおおよそのところ国境線ないし言語の壁を超えて外には拡がらない性格の強いものである。早い話がMMCSは必然的に国民国家を随伴させるようなモデルなのである。

LORCSがMMCSを駆逐するような優位性をもつモデルなのかと言えば、しかしそうではない。社会構築と統制という観点からすればMMCSは最も効率的かつ最強の形態であることに変わりはない。いいかえれば「富国強兵」に関して最適なモデルである。LORCSは先進文明諸国においてはMMCSの意義が必ずしも第一義的でなくなったために登場してきたものだと言える。

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とかくこの世はダメとムダ

2011年08月11日 | チラシの裏
以下は昨日あたりに書き散らしたメモを適当に字句だけ整えただけのもので、「高速哲学入門(205)」の補足みたいなものだと思ってもらえばいいものである。これをうpするのは、アクセス解析を見たら「広島県知事」の動画へのアクセスが空前のカウントになっていたからである。これをうpした後にこのページへのリンクをその動画記事に追記する。



重要な認識のひとつは、こうした災厄の襲来は本質的にマルチンゲールというか「サンクトペテルブルクのパラドックス」な災厄ゲームだということである。つまり、究極的には防ぎ得ないということである。対策(これには「リスクヘッジ」のような保険的対策も含まれる)aがある規模までの災厄rによく対処できるとして、rを上回る、つまりaによって対処可能な範囲を超える任意のr'が有限の未来に起きる確率は1だということである。防潮堤の高さを倍にしようと3倍にしようと、それより高い津波は有限の未来に必ず襲ってくるということである。もちろん、高くすればするほど、その日が来るまでの期待日数と呼ぶべきものはぐんと伸びる。堤防の高さを2倍にすれば「平均して」2倍以上(実際にはもっと)長くもつ、というような計算は成り立つ。それでも「長い目で見れば」ケインズの言う通り「我々は皆死んでしまっている」。災厄ゲームの期待値はいつでもマイナス無限大なのである。

事実そうであることは我々日本人がご先祖様から受け継いできた習性が一番よく示している。これほど大小さまざまな自然災害に数多く襲われてきた地域は、世界の中でもそれほどないわけである。そのための対策も歴史の中で大小さまざまになされてきたことである。が、それでも我々の間には「天災(自然災害)は忘れた頃にやってくる」という諺がある。どうして忘れてしまうのか。本当は覚えておく甲斐がないからである。覚えていようがいまいが、対策をどう講じようが講じまいが、それはいつかやってくる。しかも、それは次の瞬間であるかもしれないのである。

つまり、いつか災厄が来るということを根拠にして社会構成や、個々人の日常生活の文明開化のあるべき程度を決定するとか、とりわけそれを制約するといったことは、我々日本人はもちろん、人類のどんな社会であろうと個人であろうとできないし、そのように考えるのは、どんな場合でも合理的な根拠を求めえないという意味において「無意味」なのである。

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リア充の臨床哲学

2011年08月10日 | チラシの裏
「人が恋愛が好きなのは、それは恋愛がこの世の中で、自分が代わりがきかない人間たという事をわからせてくれる唯一の経験だから」 くじけそうな時の臨床哲学クリニック (ちくま学芸文庫 ワ 5-4) by 鷲田 清一
(BIBLIOTHEQUEa)

鷲田センセイも時々こんなおかしなことを言う。この一節はさまざまな意味でおかしい。

第一に、それだったら恋愛に縁のない人はいかなる意味でも代わりのきく人間だとしか自分のことを思えないことになるから、今すぐ自殺して当然だということになる。少なくとも外側からは陰に陽にそれを強迫されることになろう。事実もそうであるような気がするが、いずれにせよそれはこの書名を裏切ることになるのではないか。

第二に、現実の恋愛にはまったくカスリもしない人であっても、では恋愛小説の類が嫌いかというと必ずしもそうではないように思える。さらに、その人が創作物をまったく好まなかったとしても「恋愛」という言葉の上にまったく否定的な印象しか見出さないということは、まずありえないことだと思える。これらは上の主張からは説明がつかないように思われる。

第三に、わたし自身が恋愛したときに上のような気持ちを経験したことがない。むしろまったく逆のことが痛感されるばかりであった。それはそれとして、それとは別個に、まったく桁違いに好ましい気分のする経験であることも、また確かなのであるが。

なお、冒頭の呟きは上掲書の宣伝で、本文に続けてAmazonへのリンクが張ってあったのだが、このblogでこんな発言が載ってる本をオススメできるわけがないのでAmazonへのリンクは削除した。

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博士ょんダイマオー(間奏)

2011年08月08日 | チラシの裏
博士に進んだ人の問題は勝ち負けというより単純にまともな食い扶持があるかないかということだと思う。惰天使ロックさんは物書きの素質と計算機に関する知識をもっていた、あるいは実家が裕福だったためにサバイブできたのだろうが、この条件は普通ではない。 http://t.co/8vtwisa
(kammater)

どうやら書いた甲斐があったようだ。TL見たらなんとなく落ち込んでるように見えたわけだ。単に暑くてダレてるだけかもしれないけど。

とはいえ、人が読んだら誤解されそうなところは自己フォローを入れておかないとな。

まず「実家が裕福」はねーよ。裕福だったら、たぶん今だって働いてないし、そもそも部屋から一歩も出ないよ!いつぞや貼った誰ぞのマンガ、あれ美少女っての以外は全部、20代後半くらいの俺にぴったり当てはまる。俺がしょうことなくて覚え込んだのは、何も部屋に閉じこもるばっかりがヒキコモリじゃないってことだ。

博士課程の間は奨学金で食いつないでいた。相場が反転するのをずっと待ってるナンピン買いの相場師みたいな気分だったよ(しかも結局相場は戻らなかったんだ!)。

満期退学したあと再就職できたのは過去のキャリアがあったから、だというのも本当は違う。前にいっぺん書いたことあったけど。募集に応募しようとしたら、まだリレキ書も送ってないのに人事担当者から電話口でケンもホロロに怒鳴られたりしたんだぜ。「その齢でプログラマだぁ?しかも十年近くブランクがあるって、てめ冗談かよ」みたいな調子でだ。そらもう心が折れるなんてもんじゃなかったな。そのくらいの目に会うことは予想してカウンセリングに通っていたのは大正解だったな。

物書き云々というのだって就職活動では何の役にも立たなかった。立てる気もなかったんだが。

じゃあどうやって就職できたのかと言ったら、それが本当に「数学の知識を・・・」の命題の通りだとしか言いようがないんだ。「就職するための確かな方法とは企業の求める能力を身につけることとは限らない」だ。マンガ本を上下逆さに読んでいたにも等しい十年間をおもむろに、当面の目的に沿ったものに転換した。

要は何やってもいいけど、やるなら本気でやれってことだ。「本気で」ってのは根性の問題じゃなくて、単に世界の他の何もアテにはするなってことだよ。

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博士ょんダイマオー

2011年08月07日 | チラシの裏
ときどきうちのblogの記事を紹介してくれているkammater氏のTLを眺めていたら、こんなのにリンクが張られていた。

博士課程が大学教員を養成するのに役だつことはある。企業研究職の一部にもなれるだろう。しかしながら、博士の大半は、専門とは何の関係もない職に就く。その知識は、彼らの頭の中に死蔵され、世の中の役に立つことはない。言い換えると、博士になったことで、その他就職組の生涯所得は減少してしまう。
このメリットとデメリットを比較衡量すると、デメリットの方が大きいので(大学教員の所得はさして高いものではないので、その他就職組の所得減少を補うことはできない)、博士課程そのものを無くしてしまった方がましだろうというのが私の主張だ。

この問題の背後には、年齢制限に厳しい雇用慣行がある。たかだか、5年程度就職が遅れただけで、「2階」に上がれなくなってしまう理不尽さは理解しているが、変える方策がないので、受け入れるしかない。

学部教育の大半は無駄だが、学部を修了したからといって、就職が高卒より不利になるわけではない(機会費用を計算すればマイナスかもしれないが)。しかしながら、大学院博士課程を出ると、確実に、学部卒や修士卒よりも、就職が不利になるのである。

もっとも、どんな進路にも不確実性はあり、本人がリスクを織り込んで進路決定をしている以上、敗者の不利益など、どうでもいいという理屈も成り立つが、政府が制度設計に関与している大学院制度に関しては、話が違ってくる。

政府の教育政策は、公共の利益を志向しなくてはならない。

たかだか、ちょっとだけましな大学教員を養成するために、膨大な27歳超の未熟練労働者を作り出すことは、公共の利益にかなうのだろうかと、私は問いたいのである。

(井上晃宏「博士課程:一握りの勝者を作るために、膨大な敗者を作り出して良いのか?」/アゴラ; Aug.6,2011)

さすがに今日はもうネタが見当たらなくなってしまったので、これちょっとやってみるか、と思って読んでみたわけだが、一読して、別にケチをつけられそうなところは見当たらなかったのである。言っても詮無いこと言っているよなあ、と思うばかりである。仕方ないから、またちょっと昔話でも書いてみるか。

だいたいわたしは博士課程にいたとは言っても、30過ぎてから学部再入学して幾星霜、であるから、博士を満期退学したのはほとんど40前のことであったわけである。なんでそんなに長居しつづけたのかと言って、何のことはない、「ずーーーーーーーーーっと不況だったから」ただそれだけのことであった。

バブル崩壊の影響はでかいと言ったって、しばらく大学でのんびりしていれば、そのうち景気もよくなるだろうさ。おめえ十年も経ちゃ普通なんとかなるもんじゃねえか(いやほんとに、普通ならな・・・)。バブル時代の物書き稼業ですっかり擦れっからし、擦り減りまくった神経も、そのうち回復するだろう、ついでに学部卒の免状くらい取ってみせれば、親不孝の取り返しがつくとは思わないが、まァ、ものの足しぐらいにはならんでもないだろうさ。理由の半分はそんなところだった。

残りの半分は、このblogで時々書いているように、パソコンの時代の後に俺はいったい何すりゃいいんだ、ほんと言うと何にもすることなんかないじゃないか、とかなんとか考えあぐねた結果、まずは複雑性(と人工生命)という課題に取りついたということだった。

無から有は生じない。いったいどうやってそんなもの演繹したのかと言って、さっき書いた東浩紀センセイの「後付け2次オタ哲学」と一緒のことである。パソコンに関することは、わたしはあらかた食い尽くしてしまっていた。食べちまったものはもう仕方がない、だから食い残してきた過去を思い出せる限り拾い集めて圧縮してみる。そしてそれをじっと眺める(笑)。これを繰り返すこと約半年、それが実は複雑性のような形をしていることに、ようやく気がついた(確かにその形はひどく「複雑」だった)のである。

最初はだから大学に再入学することも考えていなかった。しかしちょっと手をつけてみると、それをするには算数と英語の知識がものすごく足りないことは明らかだった。こりゃちっとは補充せんと本も読めやしねえ、ということがあったわけである。

もちろん出た後に何かを始められるという見込みも何もなかった。むしろ、こんなことやってる間に俺なんて死んじゃうんじゃね?おう、それで結構!くらいに思っていた。格好をつけて言えば、パソコンの時代が終われば、わたしにとって世界と未来は再び見えなくなったということなのである。だったら、次の世界が正体を現してくるまでじっと眺めていようではないか。かくて阿佐田哲也「麻雀放浪記」に言うところの「見(ケン)」を決め込むことにしたのである。

そういうことやってるのは気楽そうに見えただろうし、事実まったく気楽にしていた(笑)のだが、一方では命がけの「見」だったわけである。それが見えてくる前には何の見込みもないのだからである。「into the great wide open」とはこのことだなと、当時思った。トム・ペティのあの曲は今でも大好きだ。確かにこれは青天井だ。あてのない反逆だ。そいつはちょっと格好よすぎるな・・・

気楽にやってたおかげで学士も修士も概ねとんとん拍子で取得することはできた。

もともとわたしは哲学でなくても何をやったって素人なのである。ただ、この素人流には奥義というか秘訣がある。それは字で書けば簡単なことで「数学の知識を得る確かな方法とは数学を学ぶことであるとは限らない」という命題である。それはたとえばマンガ本を上下逆さにして読んでみることでもありうる。要は「そうしたい」ということであれば何だっていいのである。

そんなことでも、たとえば五年十年とやった後では、何もしなかった場合よりは確実に数学の理解は増しているのである。あと必要なことは数学らしい形式をつけ加える、要は格好をつけることだけである。それは最後にやればいいし、特にこれといって数学にする必要がなければ、永久に放ったらかしでいいのである。

そんなバカなと思うかもしれないが、これは本当である。わたしが死なずに生きているのは、少なくともいくつかのことについて実際にそれをやってきたからである。何にもなっていないなら十円だって稼ぐことはできないのである。肝心なのは、事実そうなると信じられるということである。なに信じられない?だからお前さんは失敗したのだ、とマスター・ヨーダも言っている。

上のコラムに言う「膨大な敗者」とは、だからつまりそういう風に失敗した人達なのである(よかった、やっと少しつながったww)。わたしは自分のことを敗者だと思ったことはない、というかどうして「博士=27歳超の未熟練労働者」の身分に勝ち負けということを重ねようとするのか、そもそもそれがわからない。わたしの考えではたぶん、コラム氏は勝ち負けの神秘主義を奉じているのである。それは、ちょっとでもリスクがあるなら原発は廃止だ、などという左翼テロの論理と、たぶんどこかでつながっているものである。

念を押しておくと、ここに書いた流儀はあくまで素人が素人としてやる場合にのみ有効である。専門家になりたい人は、やってはいけない。専門家になるということは、既定の制度に沿って、その順序と秩序に沿ってそれをやるということ、それ自体を含んでいるのである。わたしはそんな制度なんぞ知ったことではない、まただいたいにおいてそういうのは知識と権力の区別がつかなくなりそうなことで、そういうのは心の底から好かない、ふるふる嫌だという男である。だから、どっちみち素人流しかやりようがない。ほかにやりようがないということは信じられるということの別様であるかどうかはわからない、が、おそらくはその一部ではあるのである。


(saga continues...)

●(訂正のための追記)

上の最後の方に書いていることは、後で思い返してみると我ながら混乱しているわけである。素人流の秘訣を得々と語っておきながら、最後に「専門家になりたかったら、これはやるな」と言い、そのくせに専門家の卵の挫折みたいなものに対しては「勝ち負けの神秘主義」だなどと冷たいことをいう、これは、いくらなんでもひどすぎるではないか(笑)。

制度に沿ってなるのが専門家であるなら、その制度は正しく手順を踏んできたものに対して最低限のフォローを与えるものであるべきである。さもなくばそれは制度として人々に提示されるべきではないのである。件のコラムの言い分がそういうことである限りは(そうであるように思える)、別にケチをつけるようなことではない、まったく当然の言い分である。言って詮無いことであったとしても(詮無いことだと思うのだが)である。

じゃなんで最後がああなるのかといえば、何のことはない、わたしはとにかく自分自身を制度に沿わせることがキライなのである。常にではないが、ある場合には制度そのものを嫌ってもいる場合もある。ほとんどあらゆる瞬間において「規則だと言われたものは全部破れ」と喉まで出かかっている、芯からの不良なのである。こういう不良は教師的な存在とは、それはどうしたって相いれないのである。そういうところがどうしても出てきてしまったということである。

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経験・志向性・対象の存在(3/3) ─来るべき行為論のためのおまけ(笑)─

2011年08月04日 | チラシの裏
この先はどうなるのかというと、次はこの図式をある意味でひっくり返したような「行為」論になるわけである。

不思議なことに行為論というのは必ず社会的存在論に向かうわけである。サールもそうだし、並べて書くとびっくりなことだが、実はマルクスなんかもそうなんじゃないかとわたしは思っているところがあるわけである。サールが言語行為論なら、マルクスの(エンゲルスいわく、巨大な)頭にあったのは本当は経済行為論(あるいは貨幣行為論か)だったと言いたいわけである。前者の社会的存在論が制度論を軸にするなら、後者はまさしく階級論が軸になっていたわけである。しかし後者は、本格的にそれをやる前に本人が貧困と闘争でくたびれ果ててしまったので、哲学というよりは19世紀市場経済の哲学的分析とでも言ったらいいような「資本論」までしか書けなかったのである・・・

・・・と、例によってこれは「勘が鋭いだけのお調子者」が思いつくまま好き勝手なことを書き並べただけ(笑)なのだが、書いているうちにふと気づいたのは、「他者」とか「社会」といったものはそもそも「意識」ではなく「行為」の先に存在する(創出される、志向される)ものではないだろうかということである。

もちろん意識経験の上にも「他人」は存在する。けれどもそれは本当は外的な対象物の、いくらか特殊な形態をもつものにすぎない。わかりやすく言えば、そんなに都合が悪かったらそれ自体は「二次元」と置き換えてしまっても構わない、かもしれない(笑)何かではないだろうか、ということである。そして、ましてや「社会」なるものは意識経験の上にはまったく存在しないと言っていいものである。実際それは錯覚だとか、幻想だとかいうわけである。社会とか国家とか、慣習だとか法だとかいって、それ自体はべつに目に見えるわけでもなければ、触れることもできないからである。それはそうなのだが、そうだとすると幻想と虚構(フィクション)の違いとは何だということになるのだろうか。

行為ということになれば話は違ってくる。再びわかりやすく言えば、誰も「二次元」に対して「行為」することはできない(笑)のである。せいぜい物理的に「接触」するとか「衝突」するくらいが関の山なのである。絵を描く人も、それは絵を描いているのであって、絵の中の人物に対して「行為」するわけではない。そういえば最近、どこかの自称「現代アート」が、まさしく二次元に「接触」「衝突」し、場合によっては「損壊」さえした結果というか残骸を並べて、それが作品だなどと称したために、たくさんの「絵描き」の人から顰蹙を買っていたようである。

・・・いかにも無理くさい、屁理屈ではないのかって?そうかもしれない(笑)。こう、ちょっと書いてみただけでも、ちょっと無理なところがいくつかある気がする。察しのいい人には、以上が「他者の認識論など不可能だ」ということを正当化しようとしてなんとなく思いついた論理だということがわかったことだろう。

でもこれ、割と面白くないか。

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経験・志向性・対象の存在(2/3) ─志向性と対象の創出─

2011年08月04日 | チラシの裏
いろいろ書いた(・・・といって、まだ書いてないのだが「中略」の中に書く予定)が、しかしNBNについてはさておこう(笑)。単刀直入に、経験とか志向性の意味は何か。つまりそれを経験する、あるいは事象を志向するとは「いったい何をやっていることになるのか」である。ここで唐突に、存在論の文脈でよく引用される、かの有名なライプニッツの言葉を思い出してみる。

  なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。

そして、志向性というコトバの本来の意味をもう一度掲げてみよう。

  意識は「たいていは」何かについての意識である。

わたしの考えでは、このふたつの「何か」は同じもののことを指している。意識はたいてい何かについての意識である。それは、たとえばリンゴについての意識である。ところでそうと意識する、経験する、志向する以前に「リンゴ」などというものはどこにも存在しないのである。つまり、意識が事象それ自体ではなく事象を経験する、あるいは志向する、そのことはすなわち、志向された先の対象を存在するものとして創出することなのである。

人間の意識がこのような「創出」の能力を持つことについては、きわめてしばしば神秘的な解釈が加えられてきたものである。今も加えている人がいるかもしれない、というかきっといる。創出というけど英語で書けばcreate/creationである。創造である。無から有を生み出すことである。これがどうして神秘でないと言えるだろうか。

しかしこのトリックは簡単に解くことができる。どうってことはない。これが文字通り創出に思えるというのは、この創出(のようなもの)が引き起こされた原因を「こちら側」の主体あるいは自分にのみ求めるためにそう思えるのである。また一方、これが文字通り創出としか言いようがないと思われるのは、実際にこの図式を反省すると、その原因として列挙できる存在が「こちら側」の主体ないし自分しかいないからである。実際、いまこの地球上に、いや宇宙全体に、自分とリンゴ(と、あとはせいぜいリンゴを照らす光)しか存在しなくなったとしてみよう。それでもわたしはリンゴを経験する、志向する、志向された先の対象として創出するに違いないのである。

ここから得られる答は、まったく単純明解である。リンゴの(志向される対象としての)創出を引き起こしたのは「こちら側」の主体もしくは自分と、自分を除いたところの〈残余(residue/the rest)〉の両方であって、ただ少なくともその〈残余〉の方はコンパクト性を持たないために、いかなる意味でも存在たりえないのである。〈残余〉を省いた観点からは、この経験はまったき創出のように思える一方、実際には〈残余〉が、つまり自分以外のものが関与しているのであり、自分の中になかったもの、つまり無であったはずのものが、突如としてそこに有として「現れる」のである。

ところで実際には、この経験のまさにその場面においては「こちら側」の主体もしくは自分もまたコンパクト性を持っていない。だから経験のまさにその場面においてはその「こちら側」は対象として志向されず、事象の上でコンパクト化された対象に、志向性の鋭い矢印が向く(こうなるとむしろ「指向性」と書きたくなってくる)のである。主体もしくは自分が存在であるというのは、あくまで反省的に存在であることを認められる(とはいえ、疑う余地はない形で)というだけである。反省においては主体もしくは自分がコンパクト化される、つまり対象として志向可能になるのである。



ところでこの、今示した図式で〈残余〉と言ってるものは、たとえばマルブランシュなんかの場合はこれを「神」だと言っているような気がするわけである。もちろん無信仰者のわたしはそんなことは言わないわけだが、逆にマルブランシュのテキストにある「神」を〈残余〉に置き換えて読むと、これは相当興味深いことを言っているような気が、だいぶ前に「ものはなぜ見えるのか」(中公新書)という本を読んだ時には思われたことであった。

ものはなぜ見えるのか―マルブランシュの自然的判断理論 (中公新書)
木田 直人
中央公論新社
Amazon / 7net


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経験・志向性・対象の存在(1/3) ─経験と志向性─

2011年08月04日 | チラシの裏
意識経験における質性に似たものを機械(計算機)の上で再現することを考えてみる。その上で、どうしても機械的に実現できるとは思えない、本質的な差異として何が残るのかを探ってみる。そうすると、その本質的な差異とは「それが『経験』であること」に帰着されるように思われる。意識において赤いリンゴを眺めることと、ロボットが撮像素子を赤いリンゴの置かれた方に向けていることとの間で、起きることの何が根本的に違うのかといったら、前者はそれを「経験」する、ただそこだけがはっきりと違うのである。あとは割とどうにでもなるように思われる。

じゃあその「経験」というのは結局どういうことなのかと考えてみると、経験が経験であることの本質は志向性(intentionality)であるように思えてくる。この場合の志向性とは本来の意味、つまり「意識は"たいていは"何かについての意識である」という意味と、一応重なるのだが、ここで強調したいのは、経験とは事象それ自体ではなく事象を志向することだということの方である。

機械における入力とはセンサが外界刺激に感応した事象それ自体である。事象それ自体に密着してあるものが機械の動作(機能)なのだと言ってもいい。そして機械の動作(機能)は、いかなる機械であっても、そうしたもの以外ではありえない。たいていの機械はさまざまな機能部品の結合体として構成されたシステム(系)である(少なくともそのように眺めることができる)。だから入力→出力という機械の動作(機能)は部品ごとの動作(機能)の組に分解して考えることができる、けれどもその部品単位でみても、その入力は部品の動作(機能)に密着している、またそのようなものとしてしか作り得ないのである。部品の動作(機能)はいかなる分離条件によっても事象と分離できない。そのため、それらを合成した全体の動作(機能)もまた、どのように構成しても事象それ自体と分離することができないのである。ゼロはいくつ足し合わせてもゼロだということである。

それが経験であること、つまり事象(知覚されたもの)を志向するということは、事象それ自体と密着していないということである。密着していないからこそ事象と「こちら側」──普通に「主体(subject)」あるいは「自分(self)」と呼ぶもの──との間に矢印を置く※ことができるわけである。

「矢印を置く」というのはあくまで判りやすさのための表現である。事象とこちら側の主体は密着はしていないが、それは事象とこちら側の間に第三の何かを「挿入」することができるということを必ずしも意味しない。事象とこちら側はたとえば、単に隣接しているだけかもしれない。隣接していても密着しているとは限らない。密着しているとは、いかなる分離条件によっても分離できないということで、その否定、密着していないとは、ある分離条件が存在して分離できるということである。

それで、哲学というのは普通はだから、その「経験」とか「志向性」とは何かということを問う、あるいは考察することになるわけだが、我々にとってその問いはもうひとつ先の問いに関連することとして問われなければならないことである。事業仕訳人の口調を真似して言えば「どうして密着してちゃいけないんですか」である。つまりそれはなぜ事象それ自体ではなく事象の経験でなければならないのか、あるいは事象を志向するという形でなければならないのかということである。もっと判りやすく言えば、意識をもつことによって、つまりそれが経験であることによって、あるいは事象を志向するものであることによって、いったいどんな「いいこと」があるのか、ということである。

この「いいこと」とはつまり進化的な優位性ということである。我々はここで、人間個体は通常すべて意識を持っているということを暗黙の前提として置いている。このことは実際証明不可能なことであるが、公理的な前提として置くことに特に問題があるとは思えない。そして進化的な優位性を問うということは、つまり「いいこと」というのが個体にとってのいいことではなく、生物種としての人間(人類)にとって「いいこと」を問うことを意味している。いや、いいか悪いかどうかはともかくとして、人間は意識を持つことによってどう見てもこの地球上で特異な生態学的地位を占めているように思われる。

(面倒くさいので中略)

これを「生物学的自然主義」の、我々における定義だということにしておこう。あるいは、オリジナルのそれを提起しているサールに敬意を表する意味も込めて狭義の生物学的自然主義と呼ぶのが適切であるかもしれない。だんだん長くなって面倒だからNBN(in Narrow-sense, Biological Naturalism)と略そう。NBNはイデオロギーであるよりは、あくまでもひとつの接近方法(アプローチ)として示されるものである。

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「昨日の続き」の続きをgdgdと

2011年08月03日 | チラシの裏
ありもしないことを見てきたかのように書いているわけではない。パソコン屋というのが実はたいていそうなのである。つべこべ言ってもこの世界でひとつの技術の寿命は長くない。ひとつの道に入れあげて十年もったら、それは大変な幸運だと思わなければならない。けれども、ひとりの人間がそうそういくつもの道を同時に歩けるものでもない。ひとつの技術の命運がつきると、その人の仕事もまるごと一緒に終わってしまうということも、決して珍しくはないのである。

見知った誰かがある日突然「パソコン屋はもうやめだ」と言い出す。じゃあそれで何をするのか、傍から見ていると笑い転げてしまいそうなくらい滑稽なことに手を染める人が多いわけである。ただ滑稽なだけならいいのだが、それは時としてオカルトの類である。

わたしだって他人のことは言えない。わたしの仕事は18年くらい前、そろそろWindows95とインターネットが出てくるといったあたりで一度終わっているのである。それまでやってた仕事を全部やめて、ざっと半年ばかり考え込んだものであった。最終的にはオカルトにこそ手を染めなかったわけだが、しかし中退した大学に再入学して「改めて科学に手を染めた」りしたと言えなくもないところが、確かにあるわけである。

このblogで以前、「ホメオパシー」の類がその非科学性について医学・学術テロ組織から非難攻撃の集中砲火を浴びていたとき、半ば擁護するようなことを書いたりした、その折にわたしの心を3割くらい占めていたのも、そうしたことであった。わたしは自分が才覚だけで生き延びてきたとは思っていない。思いがけない幸運にも助けられてきているわけである。そのうちのひとつふたつがズッコケていたら、今頃は俺だって「思い込み薬」のたぐいを売り歩いていたっておかしかないやと思う。

これは大変な難題なのだと本当は言いたいわけである。

そうしようと思えばいつでもできそうな程度の準備的な能力は十分持っているのに、なぜか一向に働こうとしないとか、そういう人がヒキコモリとかニートとかいう人の中には一定割合でいるはずである(もちろん全部ではない)。

そういえば「自分探し」という言葉もあった。バカな心理学者や精神科医みたいな連中がこれを著書の中で罵り倒したりしたせいか、最近はあまり耳にしなくなったが、あれは別におかしなことをやっていたとはわたしには思えない。おかしいのはそれを「自分探し」と称する言語感覚だけで、やってることは当然そうすべきことをやっているだけだろうとわたしは思っていたし、今もそう思っている。

自分のやってることに最も適切な表現を与えられないということは普通にありうる、というより、そんなことができる人はプロの物書きでもめったにいない。わたしにしても今になってようやく、前よりはましな解釈を思いついたわけである。要は彼らは世間のどこからも「何か」がやって来ないので、自分から探そうとしていたわけだろうと思う。彼らが探していたのは自分などではなく、その「何か」の方だったのである。あとはただ、自分から探せば必ず見つかると言えるならいいのだが、そんな保証はないというばかりである。

そんな風にあたりをキョロキョロ見回すようなことをしなくたって、要は偉い人の言う通りやっておればいいのだ、というのが、その心理学者とか精神科医とか、社会学者や哲学者もいただろうか、バカな連中の罵倒の主調音であったと思う。とんでもない話である。

わたしが小学生のころ、クラスの中にペン習字を習っている(あれだ、日ペンの何とかさんだ)女の子がいて、果たして異常に字が上手かった。彼女は珠算も習っていて、ほとんどあらゆる四則計算を瞬時に暗算して少しも間違わなかった。お前みたいな勘がいいだけのお調子者は少し見習えと言われたりもしたものだ。けれどわたしの方では、彼女の将来に素敵な未来が広がっているとは、到底思えなかったのである。

彼女が身につけた能力は、早い話がパソコンもワープロもなかった時代の女子事務員(OL)の能力である。パソコンとワープロが出てくれば、それらはほぼ完全に無用になってしまうはずの、しかも他には潰しのまったくきかない能力だった──当時のことだから女の子は「お嫁さん」というのがほんとの最終就職先だというのが世間の常識だったことは確かだ。でも小学生のうちからペン習字やら珠算検定やらをせっせとやってる女の子が、最後はお嫁さんだと思ってそれをやっていたとは思えない。

「お調子者」のわたしはそれがほとんど明日にでもやって来ることを知っていた。知ってはいたが、現にまだそうした機械は影も形も存在していないのである。それは説明しようがないことだった──この電卓についている液晶表示器がいずれ「壁掛けテレビ」になる、それどころか、ほとんどすべての机の上にそれが置かれていて、人々はそのテレビ画面に直接触れて計算機を操作することになる──そう言ったら親からも教師からも嗤われたくらいなのに、ただのクラスメイトが信じてくれるはずもないのである。つまり、「偉い人の言うこと」なんていうのは、所詮その程度なのである。

自分のそういう経験を省みただけでも、「自分探し」のワカモノがどこから生じてきたのか、それは明らかなのである。わたしが小学生だったとき、事実それらの機械は存在しなかった。けれどもほんの数年後にそれらが実際に形を見せ始めた後でも、「偉い人」たちが何かフォローしたと言うに値することをしたのかと言えば、もちろん、何もしなかったのである。それどころか、後にはルーマニア人から「チャウシェスクよりひどい」と言われるような、校則雁字搦めの教育収容所を、彼らは作り出したりしていたのであった。

実際何もしなくてもコドモが路頭に迷うことはなかった。わが国はそんなにひどい貧乏国ではなくなっていた。けれどもその時点ですでに、本当は彼ら彼女らの未来は路頭に迷っていたのである。ちょうどそのころ、いま女子の小学生の間では「おまじない」の類が流行していると、ときどき風の噂に聞いたものであった。彼ら彼女らが中高生になるとそれは「占いブーム」になり、場合によってはオカルト新々宗教のたぐいに向かう場合もあったのである。

・・・思いがけず暗い話になってしまったが、確かにこうしたことも哲学と関係を持っていることは、少しは示せたのではないかと思う。

機械論的なものの見方というのは案外、我々の日常生活の意識においても深く根を下ろしているものである。それを実際に機械に対して適用するのであれば、何の問題もないし、むしろ積極的にそのように理解すべきもので、それらについてより多く、詳しく学べば、学んだだけのことが必ずあるとさえ言える。ただ、もしそれを機械でないものに適用しようとすれば、それはとんでもない錯誤や、適用した人自身のうちに理由のわからない(わけの判らぬ)悩みを導くことになりかねないのである。「すべての機械はそうだから、人間も指令を与えればその通りに動くのが当然であって、さもなければそれは故障しているのだ」というようなものの見方のことである。それは間違っている。何が正しい理解であるかはさておき、それが間違っていることは確かである。「爆発のシミュレーションは爆発ではない」のである。

言えることはそう多くない。「行為はたいてい何かについての行為である」「人間は意識において行為を構成する」「『何か』を自分で求められるとは限らない」こんなところだろうか。

外側から与えられる「何か」があって、それに沿って行為することが不服である場合はどうすればいいか、というより誰もがほぼ必ずそうすることは、ひとつしかない。その「何か」とは異なる別の何かを代入して、外側からの「何か」が作用することを阻害(inhibit/block)してしまうことである。たとえば「ホメオパシー」を実践する人が、その非科学性(科学的な無根拠性)をいくら指摘されても、それが非難ではない、まったくの善意から出た勧告であったとしても、あるいは非難されてさえそれをやめることがなかったとすると、その頑なさの理由の一端はそういうことであるかもしれない。実際「異なる別の何か」とは、まさしく英語で言えばalternativeである。

わざと生化学的なイメージを使ってこれを言ってみるのは、こうした形の「抵抗」が広がることはほとんどの場合、その社会の全体に機能不全を引き起こしかねないし、遂には窒息死させてしまうことにもなりかねないほど、本当は重大だと思うからである。致死性の毒物の多くは体組織を直接化学的に破壊するわけではなくて、たいていは呼吸とか代謝とか、生命維持にとって枢要な生理過程のどこか1点を決定的に阻害してしまうことによって毒物なのである。

・・・

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昨日の続き

2011年08月03日 | チラシの裏
昨日の「哲学はなぜ・・・」は当然ながらひどく粗っぽい考察である。考察というよりもただの思いつきに近いものである。ただ、書き留めておくに値すると思ったから書き留めたまでである。

電車の中には、そこで述べたような成功指南書のたぐいの広告がいつでも山ほど出ているわけである。いつ見てもげんなりさせられる。たいていの成功者は高価な財布を使っている、だから高価な財布を持てば成功できるのだと言わぬばかりの本がある。要はかの有名なAA、「支払いは任せろー バリバリ」というあれを、その本の著者は応用したのである。安物の財布を使っていると彼女からも嫌われるし、お金からも見放されてしまうのだというわけである。


そんなもの本気にするバカがいるのだろうかと思っていると、ああ何たることか、いつでも結構たくさんいるわけなのである。それも別に昨日や今日のことではない、昔っからそういう本はたくさんあるし、そういう本にいちいち騙される人もたくさんいるわけである。

ああいうのは結局何なのだろうと時々考えることがあって、昨日たまたま思いついた答のひとつが「哲学は・・・」の内容であったわけである。騙される人は行為することを、つまり何か自分から動き出すことを欲しているわけである。ところが、そうと欲しただけでは、不思議なことに人間は動かないのである。動き出すためには「結論」のようなものがどうしても必要なのである。その欲求と欲求不満が特に大きな人になると、たぶん、ほとんど任意の「結論」を与えただけで動き出してしまうのである。

どういうことか。これは実は志向性の適合方向(direction of fit)の話に近い(あるいは、そのもの)わけである。意識は「(特にサールによれば)たいていは」何かについての意識であるように、行為もまた「たいていは」何かについての行為なのである。「哲学は・・・」で仮に「結論」と呼んでおいたものはこの後者における「何か」を与える命題なのである。問題はその「何か」はどこからくるのかということである。自分の中から来ると言えればいいことであるが、少なくとも常にそうだということはないらしい。

これは今ようやく自分の仕事を見つけたばかりのワカモノには縁のない話だが、その仕事が終わりつつあることに気づく日を、たいていの現代人は持つことになっている。昔だったら、生まれてから死ぬまで田んぼを耕していればそれで済んでしまう人が大勢いた、というかほとんどの人がそういう水呑み百姓の、ひとくちに言って貧乏人であったわけであるが、この文明社会にそんな、ある意味でグワイのいい仕事はそんなにない。たいていは生きてるうちにその終わりがやってくるのである。場合によっては20代30代でもうやって来ることがある。それまでに一生分稼げていればまだいいのだが、なかなかそうもいかない。また、とっくに一生分稼いでお釣りがくるほどであったはずなのに、伊良部投手のように自殺してしまう人もいる。

その状態はいろんな意味で危ないわけである。本当は終わってしまった仕事を、ただ惰性で続けているのは精神衛生によくない。文字通りアタマがおかしくなることも珍しくはない。さりとてそれをやめてしまうと、収入が途絶えてしまう。そこそこ貯えはあったとしてもそう長くは続かない。何かしなければならないのだが、その「何か」が見えない。大雑把に言えばこういう人が「高価な財布」のおとぎ話に飛びつくのではないだろうか。

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哲学はなぜ役に立たないのか

2011年08月02日 | チラシの裏
twitterやなんかを眺めていると「日本では学校で哲学を教えない、教えろ」という人が定期的に湧いて出てくるように思える。「高速哲学入門」でも何度か取り上げてアホぬかせと反論したりしていることだが、いい加減面倒だから言っておくと、そもそも欧米諸国だってそんなにたいしたことはやっていないわけである。何でそう断言できるかというと、仮に本当に欧米諸国で哲学の初歩なりとも教えられているのだとしたら、(強い)人工知能の研究など存在しなかったはずだからである。

もちろん、どこの国にだってお調子者はいる。そんなものは不可能だと教わっていたって「やっぱりやる」と言い出す奴はいるだろう。だが言い出せば周囲の全員から「『爆発のシミュレーションは爆発じゃない』って、お前小学校で教わらなかったのかよ」とからかわれて終わりだったはずである。それでもめげずにやるとなったら、それは、安易な研究には決してならなかったことだろう。少なくとも各国政府の科学研究予算を浪費することは、なかったことだろう。

もちろん現実の歴史はそんな結構なことには全然ならなかったわけである。どーせ哲学者と主著の名前を丸暗記するとか、そういうのと大差のないことをやらせているのに決まっているのである。



上は帰りの電車の中でぼんやり考えていたのをついでに書きとめたものである。

題名のネタについて。哲学一般についてのよくある悪口を書こうというのではもちろんない。同じ電車の中で昨日書いた「利を以って誘え」の話を再びぼんやり考えているうちにふと「つまり『考えること』というのは本性から役に立たないのではないか」というようなことに思いあたったのである。哲学は「考えること」の純粋な実践だと言っていいところがあるわけだから、それはどうしたって役に立たないのではないか。

な・・・何を言おうとしているのか判らねーだろうが、

「役に立つ」とはどういうことかといって、一足飛びに「ゼニになる」ことだとは言わないで、それ以前に、そのゼニになる前に「人が行為する」必要があるわけである。つまりあることが「役に立つ」と言えるためには、そのことによって「人が行為する」結果を導くものでなければならないということである。そして人をして行為に導くものは何なのかと言ったら、それは「結論」なのである。結論の言葉なのである。世に実用書と呼ばれる本、あるいは成功指南書などと称する本を開いてみればすぐ確かめられる。そうした本に書いてあるのは結論ばかりである。他は本当は書くまでもないくすぐりと無駄口である。後者などは題名からしてズバリ結論であることが多いのである。

そして哲学はと言えば、それは結論を除くすべてなのである。そら役に立たんわけだということである。

けれども、いままさに成功指南書の類にイカレている最中の人を別にすれば、誰しも判っていることだろうが、その種の本に書かれている結論はいずれも真偽の定かでないことばかりなのである。場合によってはわざとウソばかり書いてあるんじゃないかと思ってしまう本さえ珍しくはないわけである。ウソじゃ駄目なんじゃないかと言って、そうではないのである。人を行為させるのは結論の言葉であって、それが本当か嘘かということではないのである。



ところで前半の話に出てきた「爆発のシミュレーションは爆発じゃない」、これはサール先生自身がある本の中で述べた「中国語の部屋」をさらに要約した別バージョンと言っていいものだが、これは結論ではないのだろうか。結論じゃないのである。この言葉は「爆発のシミュレーション」についても「爆発」についても何ら結論を与えていないのである。ただ単に前者と後者は違うものだと言っているだけなのである。それでもこの言葉は爆発と爆発のシミュレーションに関する安易で間違った結論を木っ端微塵に粉砕する威力を持ってはいるのである。

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「利を以って誘え」

2011年08月01日 | チラシの裏
「利を以って誘え」という言葉がある。人に何かをさせようと思ったら、相手がそれをすることによって得られるであろう利益を示さなければならない。字面上はただそれだけの意味だが、実のところこの言葉は実際に誰かを「利を以て誘う」時に使う(想起すべき)言葉ではないのである。仮にそうだとしたら「目の前に札束とか小切手とかをチラつかせてやれ、なんなら頬のひとつふたつもひっぱたいてやれ」というような、そういうえげつない意味にしかならない。そうじゃなくて、

人はしばしば大義とか正義とか、場合によっては真理とか、つまりは法を以て人を誘おうとするわけである。誘うというより、相手は当然そうすべきだというくらいの、いまでいう「上から目線」というやつで相手に命ずるというのに近いことをやってしまう。一般的に言ってそれはうまく行かない。法で誰かを止めることはできたとしても、動かす(とはこの場合、物体を動かすという場合の受動的な意味ではなく、相手の方から積極的に動いてもらえるようにするというほどの意味である)ことはできないものだ。それを忘れるな、という戒めの意味の方が強い言葉なのである。戒める必要があるくらいだから、実際誰しもしばしば忘れてしまうことなのである。

この言葉を思い出すとき、わたしがいつも一緒に思い出すのは、SWのep4でルークがハンソロにレイア姫救出に協力をもちかける場面である。ルークがソロの耳元で「She's rich.(彼女、金持ちだぜ)」と囁くあれである。


Luke: She's rich.
Han Solo: [interested] Rich?

それまで「絶対行かね。冗談じゃねえ。殺されに行くようなもンだ」とか何とか、頑なに拒否していたソロが、そのたった一言で「なんだと」と豹変するのが可笑しい場面である。チューバッカが「まただよ。うちの大将は儲け話と聞けばすぐ釣られる」とばかりウォーッと吠えたりもする──ウーキー語が判らなくてもなぜか判る──のがまた可笑しい。実際、公開当時の映画館ではこの両方で、毎回(わたしは何十回と見ている)観客のクスクス笑いが聞こえてきたものである。

ただ可笑しいだけではなくて、実のところこの場面は、ある意味でルークが初めて自分からフォースを使ってみせた場面でもある。いくら儲け話に弱いハンソロと言ったって、どこの馬の骨とも知れない辺境惑星の若僧からそれを持ちかけられたくらいで、秤の一方には命懸けのリスクがどさっと置かれているような儲け話に、そうそうホイホイ乗せられるはずがない。痩せても枯れても海千山千の海賊船長なのである。ルークはヒントを得ていた。アンカーヘッド宇宙港でベンが捜索隊のトルーパー達に使ってみせたマインド・トリックである。

もちろんルークはフォースについてまだほとんど学んでいない。だからベンのようにはできない、が、ファルコン号の中の訓練で少なくとも一度は「力」を解放させることに成功しているわけである。うまそうな話を、しかし囁くように、ベンがトルーパーに対してそうしたように言えばいいのだとでも考えたのだろう、それをやると、たぶんルーク自身も無意識のうちに、おそらくはほんの羽根のひと押しくらいのかすかな「力」が、ソロ船長の心を押したのである。そして押し出された先でソロが見たヴィジョンは、たぶん、山と積まれた金銀財宝の上に腰かけて手招きしているレイア姫の姿であったのである。

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言葉と意味(8) ─「理論言語学」の思い出─

2011年08月01日 | チラシの裏
今を去ること15年ほど前、出戻り学部生のころ、理論言語学の講義に出ていて、その宿題のレポートに「そうは言っても文法規則は『規則』にすぎないのではないだろうか」というような疑問を書いたことがあった。

扱っているのがプログラミング言語なら、こんな質問にはもとより意味がないことは言うまでもないことである。でも理論言語学というのは自然言語を扱うわけである。自然言語の文法規則はまさしく規則であって、規則であるからにはそれは「いつでも破れる」のではないか。実際、文法的にはまったく破格の文を書いたり喋ったりしても、そのような文は意味を持たないかというと、必ずしもそうではないように思われる。

思えば当然のことながら、これは理論言語学の枠をそもそも踏み外した質問というか疑問だったわけである。

理論言語学というのは自然言語の文一般についての理論を扱うものではないのである。わかりやすく言えば「誰が見てもおかしくない」文についての理論を扱うものだということになる。たとえば「this pen a is.」という文は英語文として明らかに「誰が見てもおかしな」文である。この破格の文は意味を持たないかと言えば、必ずしもそうではないはずである。つまり、仮にこの通りを喋る人がいたとして、彼が何を言っているのか誰もまったく理解できないかというと、たぶんそうではないのである。けれども、こうした「誰が見てもおかしな」文を含めた自然言語で可能な文一般を考えるような理論言語学は存在しない。なぜといって、「誰が見てもおかしくない文」ということを考えて初めて、自然言語の文法構造について表層と深層があるとか、そういうことが明確に示せるからである。

たとえば「誰が見てもおかしくない」文sがあって、これを文法規則aに沿って変形すると「誰が見てもおかしい」文s'が生じるとしたら、規則aには何か深刻な問題があるようだ、ということになるわけである。規則aの問題点を指摘するために、それを変形すると「誰が見てもおかしい」文が生じるような、それ自体は「誰が見てもおかしくない」文sをわざわざ作る、あるいは探してくるといったこともするわけである。

結局それは、「誰が見てもおかしくない」文の集合Sに関する理論だということになる。統語論にせよ意味論にせよ語用論にせよ、である。いかにも、このSは自然言語において可能な文の集合のほんの一部にすぎないのだが、完全に破格な文まで含めた包括的な自然言語Nの理論などというものは、そもそも可能なのだろうか。それは絶対的に不可能であるはずだという見切りは最初からつけられているのである。

当時のわたしはその時関心を持っていた複雑性とか人工生命のことで頭がイッパイだったし、言語哲学にも哲学一般についてもまったく無知だったから、それ以上のことにはまったくアタマが回らなかった。回りようがなかったというべきか。

けれども今これを書いていて改めて気づいたことがある。確かに理論言語学は限定されたSについて「誰が見ても疑わしくない」(かつまた自明ではない)事実をいくつも見出してきたわけだが、そもそもそれらの事実は「誰が見てもおかしくない」文という制約とは関係がないのだろうか?たとえば「生得的な文法の深層構造が存在する」という命題はSについてみれば「誰が見ても疑わしくない」事実である、けれども、それが「誰が見ても疑わしくない」事実であるというのはそもそもそれがSについての理論的な事実だからではないのか。つまり、もともと「誰が見てもおかしくない」文に対象を限ったことが、そのような事実のイメージを生み出したということは、ありえないだろうか?

この疑問を改めて理論言語学にぶつけてみようとは思わない。この疑問に答えることが意味を持つとは、理論言語学者には思い得ないはずのことだからである。いいかえると、理論言語学の方法論を拡張したり変形したりする程度では、これはまったく、箸にも棒にも引っかかりようのない問題なのではないかと(わたしには)思える。

もちろんこれは理論言語学の方法論に問題があるとか、ましてやつまらない学問だということを言おうとするものではまったくない。どんな学問もその方法的な基礎のそれ自体に由来する制約を持つのであって、しかも、たいていの有意味な知見はその制約を置いた上で対象を検討することから初めて得られるものであることは、たぶん、改めて言うまでもないことのはずである(でも一応書いた)。

もっと判りやすく言ってみる。たとえば物理学が「実験観察から得られた事実にもとづいて」という制約を持たないとしたら、その理論はたぶん相対論や量子論のややこしさを(もちろん矛盾も)まったく含まないものになるはずである。わたしにはそう思える。けれどもそんな物理学には何の意味もないし、当然有用性もまったくないということは、さらに一層明らかなことである。

どう見ても既存の方法のどれにも引っかからないような問題が存在するように思えた場合はどうするのか。それはもちろん、何か違った方法(つまりは異なった制約のつけ方)を自分で作り出すよりほかにないのである。

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