goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

承認欲求とか名誉欲とか

2011年09月05日 | チラシの裏
人間の欲望には色々あるのは判っているが、わたしにはなかなか判らないもののふたつがこれである。判らないというくらいだから自覚されている限りそれがほとんどないと言っていい。

それだと困るかというとそうは困らない。わたしには名誉欲はないが、金銭欲ならある。実に、お金はいくら遣っても足りないものである。お金がたくさんあることは、本来ならそれで悪いことは何ひとつないと思っている。それが悪くなるのは、残念ながらお金はしばしば「後腐れ」を伴うからである。

まあ何にせよ、名誉には金銭が伴う(あるいは金銭に換算可能である)ものだと言えるなら、その金銭を欲するということは容易に理解できるわけである。要はそういうことだろう、と、あるとき知人にそう話したら相手が血相を変えたことがあった。どうも少し違うらしい。いや、その人の口ぶりでは全然違うらしいのだが、全然違うと言われるとわたしは理解しようがなくなるので困る。困った。そして考えた。

そうすると、どうもその根本的な違いの決め手は、それが自由にかかわることであるかどうかであるようだ。金銭がたくさんあるのがどうしていいかと言えば、それだけ自由が増えるように思えるからである。実際、金銭が本当にたくさんあれば働く必要もなくなるわけである。賃労働に拘束されず日々好きなように、自由自在に行動できる。その行動の中身が別の問題を引き起こし得ることをさておくならば、そのこと自体はまったく、この上もないくらい素晴らしいことである。

一方、名誉というのは自由には何の関係もない。いな、それはむしろしばしば自由を阻害する要因である。偉い人というのはエロ本ひとつ、自由に買ったり読んだりすることは、できなくなるものであるように思える。いくら偉くなったってそのために、そんな風に自由が損なわれるのだったら、そんなものは欲しくもないとわたしは思う。

わたしに金銭欲があってもそれほど多くの金銭を現に持っていないこともそれで説明がつく。金銭を取得すると大なり小なり伴ってくる「後腐れ」の方は確かに自由を阻害するからである。下手すればそのために生命を失うほど、それは自由を強く阻害するのである。こうなるとどうしても、いかに金銭欲を激しくかき立ててみても、じきに頭打ちになってしまうようである。

面倒だから大幅に中略して言えば承認欲求というのも同じことになる。承認されると自由が増えるならそれは求める気になるし、逆だったらそんなものタダでも欲しくないということになる。そして社会的承認なるものはそれを自覚したら最後、承認されるかどうかのそれ自体に自分が拘束されてしまう何かである。だったらいらない。

以上はもちろんわたし個人の場合である。そしてわたし個人のこうした傾向は、一般に人々が名誉とか社会的承認に対してとる態度やその傾向性といったものを、どうやらまったく説明しないのである。あるいは、普通の人はわたしよりはるかに多くの自由をもともと持っているので、それが少し損なわれてもいいから名誉や承認を求めるということになっているのだろうか。そんな風には全然見えないし思えない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「政治権力闘争」乱考(3)

2011年09月04日 | チラシの裏
このシリーズのどの部分であれちょろっとでも読んでみた閲覧者はきっと呆れているのだろうと思う。いったいこの男(わたし)は何を論じているのだろうかというように。

どうにかしてくれと言いたいのは、けれどもわたしの方も同じなのである。こういうことをこういう風に論じている文献が他にあるなら、一冊でも読んだ上でそれをやるべきだということであるはずである。けれども普通に検索してみる限りでは、それらしい文献はまったく見当たらないのである。つまり政治ということを根本のところで「競合する利害の調整」だと見る観点から貫かれているような政治学なり政治哲学なりが存在するかというと、ちょっと探してみた限りではゼーンゼン見当たらないのである。

だったらこの観点自体がどこか間違っているのだろうか。間違っているのかもしれない。わたしは哲学だって素人だが、自分自身はそれに(直接には)縁がないという点では、政治についてはもっとひどい素人のこんこんちきであるわけである。けれども大多数の人はわたしと似たり寄ったりの素人であるはずだとも思っている。その素人向けに書かれた本の一冊や二冊あってもおかしくないような気がするのにそれが見当たらないのである。

政治を「競合する利害の調整」だと見ることは、つまり経済に対する政治の独立性ということを考えるということに等しいわけである。経済は要するに利益の追及である。追及する方はいくらでも際限なく追及されるし、されていいわけである。問題は人間のアタマの数だけそれが同時に、つまり同一の資源の上を交差して走っているから、相互的には解決不能な利害の競合が当然いたるところで起こりうるということである。放っておいたらいたるところで衝突事故が発生する利害の世界に信号機なり立体交差なりを設置するようなことは、根本的には経済原理とは独立した原理によって営まれるものでしかありえない。それが政治である。

ところがこの政治というのは現実的に現象的に眺めればどう見ても本来の役割とは無関係に思える利害調整者どうしの権力闘争ということを抜きにしてはありえないように存在しているとしか思えないところがある。その権力闘争はしばしば利害調整という本来の目的や役割を破壊したり、あまつさえ逆に利害の競合を、さらには個々の成員の経済的な利益の追求ということそれ自体の破壊を促進さえしかねないものとしてあるわけである。これはいったい何だというべきなのか。それがこのシリーズの問題意識の全部である。

だったらまずこれを読めという(翻訳を含む)和文献を知っている人がいるなら(その著者本人でも結構だ)教えてもらいたいところである。あるいは、さほどぶ厚い本でもなく、わたしのような素人が読んでチンプンカンプンの難解でもないというものがあるなら英語文献でも結構である。もちろんわたしの直接の英語読解力など皆無に等しいわけだが、いい本ならばそれをTHNの次の私訳シリーズにすればいいわけである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「政治権力闘争」乱考(2)

2011年09月04日 | チラシの裏
政治とは競合する利害の調整だと言って、それが可能であるためには調整する存在(人間とは限らない)が競合する当事者の論理からみて超越的な第三者でなければならない。そうでなければデッドロックのような競合は解消できないからである。政治的な利害の調整が、またその調整を実現する主体が人間やその集団でなければならないというのは、自らがその第三者であるか、あるいは第三者として機能する超越項を創出できるものでなければならないからである。ひらたく言えば、それに基づいて行為・行動する意志を持つものでなければならないということである。

政治権力闘争とはだからその意志それ自体の競合によって生じるメタな次元の利害衝突もしくは競合であるわけである。次元がひとつ違う(高級という意味ではない)ので、それは本来調整されるべき利害の競合の問題とは直接のかかわりを持たない。数学の定理を理解して応用することと、その定理自体を創出する数学研究が別次元の能力を必要とするということと、それは似ている。

政治権力闘争がえてして泥仕合の様相を呈することになりやすいのは、それを調停するとしたら、超越的な調停者のさらにもう一段上の超越的な調停者が必要になるからである。彼ら(国政に携わる政治家)自身がその調停者の極である場合、それは一般に存在しえないことになる。

ごく稀にはそういう調停者が存在しうる。わが国の歴史においてその最も典型的な例は太平洋戦争終結に際しての昭和天皇であったと言っていいだろう。昭和天皇が終戦の詔勅を出したとたん本当にあらゆる戦闘がぴたりと止んだというのは米軍でさえ驚いたというか、拍子抜けしたことであったと言われている。だったら何でもっと早くそうしなかったのか、ということになるのだが、昭和天皇にしてもあのギリギリの状況において初めてそうたりえたというだけなのである。ある意味で旧憲法が規定していた絶対的な統帥権を担う天皇という存在はそのとき初めて真に創出されたのではなかっただろうか。そして(歴史的な時間スケールでは)次の瞬間にはいなくなっていたのである。

現代の民主制の国家政治体制においてその極に置かれている国会議員どうしが政治権力闘争を引き起こすことを防ぐ手段は、そうすると求めえないということになるのだろうか。少なくとも制度的には求めえないということになる。そうした存在がありうるとしたら日本国憲法を超越した存在でなければならない。そうした存在を求めることを正当化するような法制度的な論理は現在の文明世界のどこにも存在しないと言うべきである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「飲み会」いまむかし

2011年09月04日 | チラシの裏

(対人関係断絶系少女その10 (1/8)/ニコニコ静画・makotoji)

昔と今は随分違うな、と思うことのひとつは、今のヒキコモリの人はたいてい、上のような(もう絵さえついていないのだがw)イベントの打ち上げなんかで飲み会をやるのも嫌いだという人が多いということである。上の画像(が含まれているマンガ)につけられたコメントを見ていても、「何かにつけ打ち上げをしようとするのが理解できない」ときっぱりコメントに書いている人もいる。やんぬるかな、と思う。

わたしにとっては逆だった。もともとわたしは酒好きで、対人関係は苦手なくせに賑やかな場所は理屈抜きで大好きだということもあるのだが、普段は顔を出さなくても飲み会には出てくるということが、若いころはよくあったわけである。

だいたい飲み会なんていうのはべつに、人と話をしたくなければ延々と飲み食いしていればそれでいいわけである。未成年のうちは法律で飲酒が禁じられているし、おおっぴらにやっていいのはお話ばかりで、人と話をするのが苦手だとそれはどうにも楽しくない経験でもありうるわけだが、酒があるなら酒飲んでりゃいいわけである。会話なんか成り立たなくたって各々がテキトーに相槌打ってバカ笑いしているだけで賑やかにはなるのである。

物書きをやっていたころはのべつ何とかの出版記念で立食パーティのようなことがあっちこっちで開かれていたりした(当時はバブルだからいちいち豪勢でもあった)わけである。著者とは一面識もないのに編集その他の縁故をたどってそういうところに出向いて行っては、さんざん飲み食いし放題、ほとんど誰とも話をせずに帰ってきたということが、しょっちゅうあったことである。

今の人もそうしろと言いたいわけではない。いったい何がどうしてそれがほとんど真逆に近く変わってしまったのか、わたしには判らないと言いたいだけである。

Where's the Party (extended remix) - Madonna / from YouTube

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「政治権力闘争」乱考(1)

2011年09月04日 | チラシの裏
まあハッキリ言って、これを書き出した現時点で、わたしにはほとんど何ひとつ判らないわけである。判っているのは政治の名のつく現実のどこであれ、そこに権力闘争のごときものが存在しないということは、とにかく事実としてまずない、ということである。

これまでわたしは、政治という社会的現実が存在することの根拠を「競合する利害の交通整理的な調整」ということにしか見出して来なかった。けれどもこの見方は、それだけでは、その調整の何かに関連して権力闘争(struggle)が生じることを、つまり現実の政治がほぼ不可避的に権力闘争を含むという事実をまったく説明しないしできないわけである。

仮に、権力闘争ということをまったく否定的なものとしてしか考えないとしても、つまり理想においてはあるべからざる何かだと主張するとしても、それが説明できないということは、よかれあしかれそれが存在している過去から現在までの現実に対してまったく不十分なものでしかない。これは確かなことである。

以下で権力闘争とか、あるいは単に闘争という場合、政治権力闘争の意味に限られる。そこでの権力とは普通に「権力者」と呼ばれるような人が行使する権力、つまり特定の個人なり集団なりに帰属する力と見なされる限りでの権力ということになる。利害の調整には大なり小なり権力が必要であることは確かである。この場合の権力は要は「人に言うことを聞かせる」力のことである。交通信号にさえそれはある。赤信号はクルマを停止させる力を持っている。赤信号が持っているのか、信号機を設置したケーサツや自治体やそれを定めた法律が持っているのか(中略)それはそれで別に議論になるけれど、ここでそれを議論し始めるとキリがない。議論を留保した上で赤信号にその力があると言っておくことにする。

調整されるべき利害が存在すること、またその事実が競合する主体(個人または集団)の間で共有されていたとしても、それだけでは、そこから権力闘争が必然的に起きると言うことはできない。約めて言えば利害の競合の存在それ自体は権力闘争を必然化しない。そうすると何がそれを必然化することになるのだろうか?

権力闘争というのはその力を誰が行使するのか、あるいは行使する権限を誰に帰属させるかをめぐる闘争である。利害の当事者にとってみればそんなのは誰だって構わないことである。交通信号のようにそれは人間やその集団である必要さえないわけである。これが、権力闘争と言えば普通はネガティブな意味でしか言われないことの理由である。権力闘争は一般にそれ自体が有限または無限の時間を要する過程である。利害の当事者にとって必要なことは信号が赤なのか青なのかが表示されることだけであるのに、それがなかなか表示されないとか、それを表示させるだけで安くない税金をふんだくられているような気がすることは、不愉快事以外の何かではない。

権力闘争は少なくとも政治権力を個人なり集団なりに帰属させなければならないことにおいて生じるものであることは間違いない。権力が人間や集団に直接帰属しないなら闘争は起きない。1丁目の信号と2丁目の信号の表示に矛盾があったとしても信号機は闘争しない。

権力が人間や集団に帰属するというのは、つまりその行使がその個人なり集団なりの意志的な行為と同致するということを意味している。いいかえれば利害の当事者にとっては単なる調整にすぎないことでも、調整している当人にとっては大なり小なり自身の行為である。そうでなければ人間や集団に帰属させる理由はない。人間の行為は意識において構成されるものであり、したがって機械には行えない何かである、だからこそそれは機械任せにされずに人間や集団に担わされなければならないのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高速外食入門(1)

2011年09月02日 | チラシの裏
日本でもぜひ一般的になってほしい。 勿体無いじゃん。RT @te_yoshimura: レストランで食べ残したものを持って帰るのが当たり前の国って、アメリカ(カナダ)、中国以外にどこがあるだろうか?私の知る限り、これ以外の国では、もちろん店にもよるが、あまり一般的ではない。
(ceramism)

よその国のことは知らない。だがわが国では「外食店であれ何であれ、出てきたものは全部食べろ。茶碗に粘りついた米粒のひとかけも残してはならない」。これが伝統的な原則である。「食いきれないようなものなら最初から注文するな」ということである。ひとくち食べて不味かったら?もちろん食べなければならない。うまい不味いを決定する権利は客にはない。どうしてもというなら客の方がフォースを使ってそれを見抜かなくてはならない、その責務を負っていると言わなければならないことになる。見るからに腐っているとか異物が混入していたというのでもない限り、それは食べなければならない。たまに勘違いしている人がいるが「店主を呼べ」などというのは最低の不行儀である。それどころか、それだけで社会的な信用を失う人の所業である。客の勝利条件とは黙って完食することだけである。もちろん完食しても代金を払わなかったら反則負けである(笑)。

理不尽じゃないかって?そんなことはない。食べて不味かったら、あるいは何であれ不快な思いを強いられたら、その店には二度と行かなくなるだけなのである。つまりこれらの原則には、料理店を専門家として尊重するということが自ずと含意されている。その無言の尊重に、これも無言で応える責務を料理店は負っているのである。

例外は祭礼のような場合である。祭礼で振る舞われる食事は主催者の気前のよさを示すためにあるわけで、最初からどう考えても食いきれない量が出てくる。結婚披露宴なんかが典型的である。あれで出てくるものを全部食べる必要はない。もとから大食だというのでペロリと平らげたりするとかえって失礼である。また食べきれなかった分は黙っていても折詰にして持ち帰らせてくれることになっている。豪勢な食事も引出物の一部なのである。ただし、こうした習慣は地域によっても違うようである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑考

2011年09月01日 | チラシの裏
数日前に、お愛想botやお世辞botの作家に及ぼしうる悪影響について書いた。以下はそれとはまた別の話である。

人を愉しませようと思って作ったものが実際に誰かを愉しませて、そのことが(特に疑わしくない形で)伝わってきたときの喜びというのは独特で、かつ途方もないものだというのは事実である。わたしはナミダまで流したことはないけれど、流す人がいてもおかしくないという気はする。

それが独特だというのは、たった一度でもそれを経験すると、その記憶はそう簡単には、それを経験したものをそこから逃れさせてはくれなくなってしまうからである。ほかのことで代わりのきかない経験だということだ。だから、それにこだわることになってしまう。後腐れなしで1億円貰ったらそれはそれで嬉しいわけだが、その金額がたとえ十倍でも上の種類の喜びにかえることはできそうもない気がする。たぶん、ディメンジョンが違うのである。

あれは何だと考えるべきなのだろうか?ちょっと考えてみても、なかなかそれらしい答のようなものは思い浮かんで来ない。

どうも正解には程遠い気がするが、そこにカスッてはいそうなことをまず言ってみれば、それは普通の言い方で「心が届いた、その手応えを感じた」ことの経験だということはできそうである。

それだけではなさそうだ。もう少し考えていると別のことを思いついた。

いわゆる「虹(2D)」と「惨事(3D)」の違いのうちで、2Dが3Dに絶対的に敵わないことが、たったひとつだけあるとすれば、3Dから好意を寄せられることの経験である。もちろん2Dもそれらしい反応を示しはすることがあるだろう。また、それはそれで確かに好ましい感じを呼び起こす何かではある。だが、その質が何か全然違うということである。仮にこれを読んでいる閲覧者がそれを一度も経験したことがない人だとしたら、悪いことは言わない、たった一度でいいからそれは経験してみなければならないことである。それなしに物事を考えても不完全なことにしかならないのは間違いないと断言できる。

好意を寄せられると言っても、たとえばイケメンの人がそのイケメンに好意を寄せられてもそんなに嬉しくはないものだということになっている。わたしはイケメンの人ではないが、十代や二十代のころイケメンの友人がいたことならある。彼らのリア充な日々を横目で見ながら、それにしてはあんまり楽しそうに見えないなとよく思ったものだ。まあ、いつもニコニコはしているわけだが。

話をまとめてみよう。3Dにはなぜか可能で、2Dにはほぼ絶対に不可能だと言えそうなことは、行為者が自身の意志によって行った創出的(creative)な行為の、その意味に対して好意を示すことである。創出的というのはこの場合、仮にその行為の決定が選択によるものであるとすれば(行為の決定ということを形式的に、選択肢の集合からの選択に還元しようとしたとすれば)、その選択肢の集合が非コンパクトになってしまうような場合、つまりそれを機械的な選択として決定することが本質的に不可能であるような行為だということになる。

なんでこんなややこしい書き方をするかといえば、この経験は何も、絵とか文章とかのいわゆる「作品」を作る人だけがもつものではないはずだと言いたいからである。作品というのはその典型的な場合だというだけで、たとえばスポーツをやる人でも、その身体動作が上述の意味で創出的であるような瞬間を時々は持つものであるだろう。そして観客のうちの誰かは、不思議なくらい、ぴたりとその瞬間をとらえて好意を寄せるということが起こりうるはずである。

仮にそれが機械的に再現可能だということになったとしたら、その瞬間からあらゆる作品(芸術)は滅びてしまうことになるだろう。作品の作り手はその機械を買ってきて作動させるだけで、あとは死ぬまで滂沱の涙を流し続けるだけのことになるからである。

もうひとつ、この経験が必ずしも肯定的なものではない、それどころか、どちらかというと悲劇の種であることの方が多いということを言っておくと、世の中にはどうしてか──わたしが見聞してきた限りでは女性に多いのだが──そういう好意の寄せ方をほとんど無自覚に、しかもほとんど誰彼構わずにやってしまうタイプの人がいるわけである。

これもわたしの若いころの知人の女性のひとりにそういう人がいて、たまに会って世間話をしていると「ストーキングされて困っている」という話ばかり聞かされたことがあったのである。

言うとばつが悪いのでご本人には言わなかったことだが、冗談ではない、彼女は過去にわたしをもそれに巻き込みかかったことがあったわけである。わたしがストーカーにならずに済んだのは自制心でも倫理観でも何でもなく、単にその願望にはるかにまさる怠惰の人だったからにほかならない。実に、世の中にはおっかない人がいるものだと思われたことであった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メンツの問題(2)

2011年08月31日 | チラシの裏
(259)の呟きを読み返してみると、この主はメンツなどに左右されるのは政治ではないと言いたいところを持っているような気がする。そうだとすればとんでもない話だということは改めて指摘しておくべきだろう。政治は何にもまして競合する利害の調整である、つまり交通整理のようなものだと思えば、信号機のような制度のかわりにメンツという伝統を用いてもそれは達成されるからである。それはたとえば狭い道で鉢合わせになったら「常に目下が目上に道を譲る」というような慣習であるかもしれない。それでは目下はいつまでも譲ってばかりかというと、目下はいずれ目上になるのである。それは信号機のような制度的な規則ほどスマートなものではない、待ち時間があんまり長すぎる(笑)ということになりやすい、そのかわり、信号機を設置するほどコストはかからない。

政治の世界においてどうしてそんな伝統的な、というかほとんど原始的と言っていいくらいの規則が今なお支配的であるのかと言えば、それはキーボードのキー配列の話と同じことである。Dvorak配列がより合理的かつ効率的な配列であるとわかっていたってQWERTY配列はやめられないのである。

年長者優先の原則を突然廃止したとしたら、そのとき待たされている側はなお一層待たされることにもなりかねない。また、そもそもそれまで待たされていたことの不当性を主張したくもなるはずである。後者の方が深刻である。伝統的な、慣習にもとづく規則はそれ自体が歴史的なものであり、基本的に過去から未来にわたる恒久的な規則であるという前提によって正当化されるところを持っている。それを解消してしまうことは非常に難しい、というか誰もが納得する形でそれを解消することはおそらく不可能である。

ではまったく方法がないのかというと、うまく行った事例は確かにあるわけである。交通信号などはまさにその典型である。なぜかといえば、伝統的な社会には自動車などなかったし、したがって自動車事故もなかったわけである。そのような、まったく新しいものに対しては、それに限って別の規則を導入することが、かなりの程度まで可能である。わが国は明治維新以来そんな風にして「まったく新しいもの」つまり文明開化の品と制度を徐々に導入し、社会の主過程を覆うまでに拡大することによって、実質的に社会を伝統的な(遺憾ながら後進文明的というほかはない)慣習の軛から離脱させることに成功してきたわけである。

政治の世界はだから、それに失敗してきた典型的な領域のひとつだということになる。この領域では上述のごとき遣り口が通用しにくいことは容易にわかる。人間の利害の内容はともかく、その競合のありかたということに「まったく新しい」形など生じようがないわけである。おそらくここに限って欧米流を移植する十分な動機も必然性もなかったのである。ハリボテとしての議会制民主主義は導入したとしてもハリボテである。わが国の政治家がほとんど時代錯誤的な「メンツ」のようなものをその判断や行為の原理として今も置かざるを得ないというのは、それはキーボードがいつまでもQWERTY配列であるしかないのは、キーボードに「まったく新しい」用途などはまず生じようがないからだということとおそらく同じことなのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メンツの問題(1)

2011年08月31日 | チラシの裏
以下は「高速哲学入門(259)」の続きというか、それを書いてから改めて考えたことである。

メンツに対応する英単語はないものかと思って辞書を繰ってみたら実はあって、それはまさに「face」なのである。英和辞書の訳語だからニュアンスの違いは当然あるものと考えなければならないとしても、それらしきものはやはりあるのである。また最近読んだ本には次のような記述があった。

災害対策関係者は全米から集まる。そして、彼らの言によれば「被災地行政の帽子を被る」。すなわち、臨時に正規職員となって、企画・統括に参画して発言し、行動する。(中略)このシステムは能率的でもあり、高い熟練度を維持するよいシステムである。また「全米の災害関係者と顔見知りである」とロサンゼルスの災害時心理的救援担当係官が語っていたように、一次的人脈のネットワークが常に存在する。彼らは「顔見知りでないとうまく協力できない」と語る。これは国情の差を越えた真理である。わが国では、実際には人脈で事が運んでいるのに、それは遅れたわが国独特の現象で、初対面の人間を整然と統括するのがよいシステムのあるべき姿であると思っているフシがあるが、これは錯覚である。平時はともかく災害時には「信頼できる仲間」であることがネットワークの前提条件である。このシステムは学ぶべきであると私は思う。

中井久夫「『こころのケア』とは何か」
/現代思想・2011年9月臨時増刊号(緊急復刊imago)
Amazon
/ 7net

中井久夫の読者を自認する人ならこの増刊号は買わなければ駄目である。それほどでもないという人は、正直、あんまり読むとこないからオススメしない。香山リカとか平沢進とかの名前に思い当たる節のある人は、まあ買ってみてもいいんじゃないかな。

まだ続きがあるのだが、引用が妙に長くなったのと、次はまた別の話であることで、いったんここで切ってうpする。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そう言えば

2011年08月30日 | チラシの裏
これは先刻書いた「伝達装置の悪夢」のちょっとした続きだが、わたしも学生をやってた間は研究室のメールアカウントを使って議論したり世間話をしたりすることが結構あった。メーリングリストというやつだ。

そのころは、たとえば届いたメールに返信するのに10kバイトくらいの原稿を作って、それを徐に削りまくって1/10くらいにして、さらに推敲などしているとまた余分に1kくらいは増えてしまうのでそれを1/5くらいにして、ようやく返信する、というようなことを、しょっちゅうやっていた。

当然の話だがそんなことを手際よくできるわけもない、どうかすると丸一日かかってほんの10行にも満たないメールを、それも、書いてることの含意はといえば、百回繰り返して読むと実は一言「このバカ野郎」と言いたいだけだということが判るかもしれない、というような、まったく意味不明かつ無意味な代物を作っていたりしたわけである。あれは、不毛だった。とことん不毛だった。

このblogが通信途絶blogであることの理由のひとつは、だからそうした不毛を避けるためでもあるわけである。生身の他人だって怖いが、文字で現われてくる他人はもっと怖い。それで書くことが億劫になってしまったりするよりは、応答などは拒絶するか、少なくともそれを前提として書くようなことはやめて、書いたら書きっ放しで放り出してしまえ、ということにしたのである。このblogの題がもともと「チラシの裏」であったというのもそういうことである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝達装置の悪夢

2011年08月29日 | チラシの裏

(対人関係断絶系少女その9(1/8)/ニコニコ静画・makotoji)

このコマが含まれる4コマの題名がまた長くて「わかれた後すぐメールを送れる人って/すごいコミュニケーション能力だと思います」である。

それは本来なら伝達能力というようなものではないわけである。他人の家でひと晩お世話になったとか、そういうことがあったとき、帰ってからお礼の手紙などを書くということは、昔はそれを礼儀としてやっていたことである。わたしでもそれはしたことがあるし、しなかったら叱られたりしたものである。

そうした礼節が今はまったく廃れてしまったかどうかはよくわからない。ただ、このマンガを読んでいる限りだと、今のワカモノの人の間では、それは廃れたどころか、ある日友達としばらく遊んだくらいのことでもそれをするというくらい、一層盛んになっていて、しかもそれは礼儀ではなく伝達能力の一種だと見なされるまでになっているわけである。

実際、そんなことになりそうだという予感があるから、わたしなどは携帯電話のたぐいは一切持たないわけだが、このマンガの主人公は強度の対人恐怖の持ち主である割にそこまではしない。携帯電話も使うし、twitterで仲間と会話するくらいのことは普通にやっている。そしてその挙句に、上のコマのように招待を謝絶せねばならぬ羽目に陥っていたりする。

そのくらいしてくれないと話が展開しないし、という作者の設定上の都合(笑)は別にあるのかもしれない気がする。でもいずれにせよ読者の方は別にそんなこと気にする風でもなく、「わかるわかる」式の共感を示している。

倫理とか道徳とか、その善悪とかは一切関係なしに、わたしは身震いするほどの恐ろしさを感じる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶対に働きたくないでござる(6)

2011年08月29日 | チラシの裏
そもそも働いたことがないか、ほとんどやったことのない人が「働きたくない」と言い出すのは奇妙なことなのである。そういう人は本当に、重症のうつ病の人のように指一本動かすことすらしんどいのかというと、ほとんどの場合そんなことはない。たとえばゲームをやったりすることなら非常に熱心だったりするわけである。それをすれば大なり小なり心身を疲労させるという意味ではゲームだってある種の労働には違いないのである。そういうのは全然へっちゃらでできるのに、いわゆる賃労働(あるいは家事労働)は嫌なのである。

どうして賃労働や家事労働に限って、しかもやればそれなりの報酬(後者のそれは金銭ではないが)があるのは判っているというような場合でさえ拒否感のようなものが生じるのか、それは昔からマルクスのような人がちゃんと言っていることで、それらが「疎外」された労働だからだということになる。わかりやすく言えばそうした労働に従事することは大なり小なり自分が自分であることを奪われているような状況に身を置くことである。

その違いはたとえば、たまたま趣味を仕事にしてしまった人が例外なく痛感させられることである。やってることの具体的な中身はほとんどまったく同じことなのに、趣味でやっている間はあれほど面白い、寝食を忘れるほど熱中してやれていたことが、稼ぎのための仕事としてやるようになった瞬間から、すべてはまったく、えも言われぬような最悪の苦痛の経験にしかならなくなる。もう1分1秒でもこんな作業にかかずらわっていたくはないというようなひどい思いの経験に変貌してしまうわけである。この感じの切り替わりは本当に一瞬のことで、世界が突然暗転したかのようにさえ感じられるものである。

裏を返せば「働きたくない」というのは要するにその痛苦や痛苦の予感を恐れて忌避しているわけだから、それさえ取り除いてしまうことができたとすれば、たぶん働くことは苦痛でも何でもなくなるわけである。マルクスなんかの場合はその根源的な理由を資本主義的な生産のあり方というところに求めたので、要は資本主義体制、資本主義に特有の生産のあり方といったものを打倒すれば人間は解放されるのだ、と、簡単に言えばそう主張したわけである。もちろん本当はそこまで安直な話ではないけれど、基本はそうだし、後に「マルクス主義」と呼ばれるようになったものは事実その安直な図式をそのまま実践課題にしたわけである。

ひと口に資本主義体制と言って決してヤワなものではない、よく組織され、ガチガチに固められた強度を備えているわけで、それを打倒するというのは誰がどんな風にすれば可能なのかと言ったら、まさにその資本主義生産の中で組織され、その強度の一部となっている労働者階級がそれを担うことによって可能なのだ、という論理をレーニンが発明したのである。ひらたく言えばあるものを最もよく破壊できるのは、それを作っている当の人間だということである。その場合の唯物論というのはだから、「大阪城を作ったのは豊臣秀吉(上部構造)ではなく大工さん(下部構造)である」という、まったくドリフのギャグみたいな認識のことにほかならないのである。そうは言っても確かに、難攻不落の大阪城といえども大工さんの気が変わればひとたまりもなく崩れ落ちてしまうはずである。

あと必要なのは「生産も破壊もリモコン次第」ということで、誰がそのリモコンを奪取してスイッチを逆倒するのか、ということになる。それがイデオロギー的によく訓練された共産党だというわけである。労働者階級は鉄人28号で共産党が正太郎君である。この時点で肝心の労働者階級はすっかりロボ扱いである上に、革命の正義だろうと何だろうと戦闘ロボが街を歩けばあらゆるものを破壊し尽くして回ることに違いはないわけで、ほかの人民大衆はひたすらエライ目に会わされるばかりのことになるのだが、しかし、これがどうも図に当たってしまった結果がソヴィエト革命だったのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶対に働きたくないでござる(5)

2011年08月28日 | チラシの裏
ネタ探しのtwitter検索ではだいたい「哲学」とか「思想」とかの語をキーワードにして引っかけているわけだが、夏休みの間に色々眺めていた限り、現在のわが国は思想ということではほとんど虚脱状態に近いのだなということを改めて痛感させられた。哲学なんかはもともと社会的には無に等しいので、今も引き続き無であることは改めて何かを思うようなことではないわけだが。

あらぬことを言うようだが、たとえば反(脱)原発ということだって、あれだけの事故が起きた後なのだから、単なる反文明の左翼テロなどに帰着しない、根本的に異なる文明観からする反(脱)原発の理念を表明するものが、ひとりくらいはいたっていいじゃないかと思うわけである。けれどわたしが眺めている限りでそんな人物がひとりでもいるようには思えない。いればその読者なり支持者なりの呟きという格好でtwitterやその他にそれが反映されて出てくるということがありえようが、その気配すら感じられない。

某氏のように少し真面目になって原子力や原子力発電についての実証的な事実を拾い集めて並べてみせれば、それで一網打尽にされて後には何も残らない反文明左翼テロの煽動ばかりだということになってしまう。実証的な次元でだけ言えば反(脱)原発などということは現状で全然成り立たないので、何言ったってデマ宣伝にしかならないことは最初からはっきりしている。その次元を超えた言説ということが不可能かと言ったら、わたしは必ずしも不可能だとは思っていないのだが、現に目の前に出てくるものはそんな結構なものでは少しもない。

まあ、いまさら予想もしない方角からそんなのが現われてくるかもしれないと考えること自体が一種のないものねだりであるのかもしれない。他人のことは言えないがこの30年、いやもっと明確に言ってこのたった20年の間に、日本人の言語能力一般は著しく衰えてしまったことは事実である。衰えたというか、言葉の使われ方全般がある種の刺激反応モデルみたいなものになってしまっているわけである。

これ一体何なんだ、というか、わたしの考えでは、いまのワカモノの間で「絶対に働きたくないでござる」というような文句が普通に飛び交って少しも違和感がないと思われることの根柢には、このことが関係しているのではないか。そこまで書くとこの一文は「わけの判らぬ」カテゴリに放り込むよりほかにない気がしてくるが、あえてそうしないことにしてみる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶対に働きたくないでござる(4)

2011年08月27日 | チラシの裏
いま「絶対に働きたくないでござる」というワカモノ達は、ある意味では幸せなのである。わたしがそうだった頃はそんな決まり文句などなかった。「ヒキコモリ」も「ニート」も「コミュ障」も「ぼっち」も何もなかったのである。たとえマイナスの意味しか持たないにせよ、そう自称して(世間様に向かって)自己規定できるような通りのいい文句などはなかったのである。うつ病の人が耳元で「頑張れ頑張れ頑張れ×100」とがなり立てられるようなことも、よほど悪意があるのでない限りは、今はまずないと言っていいのである。それを思えば、世の中は多少なりとも進歩したのである(笑)。相変わらずちっとも相手にしてもらえないのは、わたしのような怠け病の人くらいなものである。

もっとも、そうやって簡単に世間向けに簡単に自己規定してしまえる紋切型の用語なり決まり文句なりがあるがために、かえってどうしようもないことになっている面がないではないのかもしれない。

出戻り学部生をやっていたころ、つまりそのころわたしは自分よりひと回り年下の連中とタメ口をききあって過ごしていたわけだが、あるとき何かの雑談をしている折にひとりから「僕はオタクの人になりたいんですが何を勉強すればいいんでしょう」と真顔で問いかけられて唖然としたことがあった。そう言えば別の機会には「オタク」を「プログラマ」に置換してそっくり同じことを、別の誰かから問われたこともあった。それもそれでびっくりだった。オタクだろうとプログラマだろうと、何か勉強してなるものだという考えが成り立ちうることにびっくりするわけである。

だいたい、そんなものにわざわざなりたいなんて奴の気が知れない。オタクの方は言うまでもないし、プログラマだって、昔から「士農工商犬猫プログラマ」と言われているくらいのもので、本当は社会的には何ら尊敬されることはない、どっちか言えば蔑んだ目で見られることが多いに違いないような職業である。じゃ何でそんなものになる奴がいるんだと言ったら、オタクだったらマンガやアニメが好きだとか、プログラマだったら計算機とプログラミングが三度の飯より好きだとか、もとをただせば単にそれだけのことなのである。ただただ自分が好きだからというのでやっていたら、そのうち世間様の方から勝手にそういうラベルを(無から創出した上で)貼りつけ、貼りつけたところに殺到して侮蔑してくるようになるだけなのである。

世間というのはそうやって勝手なラベルを創出した上で適当な誰かに貼りつけては寄ってたかって侮辱したがるものだというのは、それはもうどうしようもない、人間の社会の本性みたいなものだと言ってしまえば、まったくどうしようもないことだが、それにしてもひとつ世代が違っただけで、その、まさに侮辱するために作られたようなラベルの方から、わざわざ勉強してまでなりたいという奴が出てくるのである。こいつらは一体何なんだ。そうは見えないが実はよっぽどのどMなのだろうか?

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶対に働きたくないでござる(3)

2011年08月27日 | チラシの裏
現にいま「絶対に働きたくないでござる」の状態にある人はどうしたらいいのか、ということの答は(2)までの話で尽きている。要は自力でどうにかなるようなことではないから、せいぜい愉快にやれというだけである。働くことでなければ本気になってやれることがあるなら、それをすればいいということである。もっとも、一般的に言って、働かずにいるということは、この世の残り全部を敵に回すというのに近いことだから、何をどうやろうと、ただ布団を被って寝ているだけのことであってさえ、それは必ず本気でやることになる、少なくともその性質を帯びることにはなるのである。

外側から強制されてそうなったものとはいえ、長くそういう状態に置かれた人がどのくらいのことをやってのけられるものか、その一番の好例のひとつがE・レヴィナスの「実存から実存者へ」という本だと思う。その本の骨格はレヴィナスが捕虜収容所に閉じ込められて、ほかにどうすることもできない状態で考えられた事柄によって成り立っている。そしてそれが、後年のレヴィナスの哲学・倫理学的考察のすべての基礎になったものであるということは、その内容がいかに意味不明に思えても(笑)、また翻訳を介してさえ伝わってくることである。

収容所の独房に閉じ込められてあるというのは、まったくそれ自体が現象学的還元そのもののような状況である。そして、収容所の部屋の外を直接取り囲んでいるのは、紛れもなく敵なのである。そもそもレヴィナスは(フランス国籍取得者でフランス軍に従軍していたとはいえ)もともとはユダヤ系リトアニア人で、敵というのはあのナチスなのである。こんな状態に置かれているということは、当人にとって世界のすべてが滅ぼされたというのと同じで、つまり本来ならまったくの無でなければならないはずのものである。ところがレヴィナスがそこで経験したことはどうしても無とは呼べない何かであった。彼はそれを「ある(il y a)」と名づけたのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする