誰の何という本だったか忘れたが、若いころ読んだ「文章の書き方」のたぐいの本の中に「『意識的』と書くな、『わざと』と書け」というアドヴァイスが書かれていたことがある。
それが文章の書き方として適切なアドヴァイスかどうかは、今もわたしには判断がつかない、というか、大きく言えばたぶん間違っている(笑)。けれど、そこらの三流の物書きが書き散らす駄文の中に山と出てくる「意識的」はたいてい「わざと」に置き換えられて、しかもその方がずっとわかりやすいという指摘の方には、目からウロコが落ちる思いがした。
こういう指摘をオリジナルにできるのは、自分で言葉を使う人だけである。
物書きなら誰でもそうだというわけではない。たいていは誰かの口真似しているだけである。玄人はしないと思うなら思い違いである。口真似にも素人と玄人がいるだけである。口真似でないとすれば「意識的」の3文字はハンコなのである。
毛沢東時代の中国の出版社新聞社では「毛主席」の3文字をまとめて1個の活字にしていたと言われている。その3文字の出現頻度が飛び抜けて高かったからではない(飛び抜けて高かっただろうが)。そうなる以前の時代に、その3文字をたまさか行をまたいで組んでしまった植字工が責任者ともども「粛清」されてしまったのをきっかけにそうなったのである。
「意識的」などと無造作に書くのはその「毛主席」と同じハンコである、許されるべからざる言葉の怯懦、文字の堕落であると、別にそうとは書かれてはいなかったが(笑)、著者はそこまで言いたがっているように、わたしには思えた。
食い物の怨みというが、言葉の怨み、文字の怨みというものもまたあるわけである。食い物の怨みと違うのは、その怨みの深さを知るのは自分で言葉を、文字を使う人だけだということである。そんな人は多くいるようで本当はめったにいない。言論表現の自由と言っても何のことか知らないし判らないという人の方が、今なお多いはずである。
それが文章の書き方として適切なアドヴァイスかどうかは、今もわたしには判断がつかない、というか、大きく言えばたぶん間違っている(笑)。けれど、そこらの三流の物書きが書き散らす駄文の中に山と出てくる「意識的」はたいてい「わざと」に置き換えられて、しかもその方がずっとわかりやすいという指摘の方には、目からウロコが落ちる思いがした。
こういう指摘をオリジナルにできるのは、自分で言葉を使う人だけである。
物書きなら誰でもそうだというわけではない。たいていは誰かの口真似しているだけである。玄人はしないと思うなら思い違いである。口真似にも素人と玄人がいるだけである。口真似でないとすれば「意識的」の3文字はハンコなのである。
毛沢東時代の中国の出版社新聞社では「毛主席」の3文字をまとめて1個の活字にしていたと言われている。その3文字の出現頻度が飛び抜けて高かったからではない(飛び抜けて高かっただろうが)。そうなる以前の時代に、その3文字をたまさか行をまたいで組んでしまった植字工が責任者ともども「粛清」されてしまったのをきっかけにそうなったのである。
「意識的」などと無造作に書くのはその「毛主席」と同じハンコである、許されるべからざる言葉の怯懦、文字の堕落であると、別にそうとは書かれてはいなかったが(笑)、著者はそこまで言いたがっているように、わたしには思えた。
食い物の怨みというが、言葉の怨み、文字の怨みというものもまたあるわけである。食い物の怨みと違うのは、その怨みの深さを知るのは自分で言葉を、文字を使う人だけだということである。そんな人は多くいるようで本当はめったにいない。言論表現の自由と言っても何のことか知らないし判らないという人の方が、今なお多いはずである。