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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

言葉の怨み

2011年07月05日 | わけの判らぬことを云う
誰の何という本だったか忘れたが、若いころ読んだ「文章の書き方」のたぐいの本の中に「『意識的』と書くな、『わざと』と書け」というアドヴァイスが書かれていたことがある。

それが文章の書き方として適切なアドヴァイスかどうかは、今もわたしには判断がつかない、というか、大きく言えばたぶん間違っている(笑)。けれど、そこらの三流の物書きが書き散らす駄文の中に山と出てくる「意識的」はたいてい「わざと」に置き換えられて、しかもその方がずっとわかりやすいという指摘の方には、目からウロコが落ちる思いがした。

こういう指摘をオリジナルにできるのは、自分で言葉を使う人だけである。

物書きなら誰でもそうだというわけではない。たいていは誰かの口真似しているだけである。玄人はしないと思うなら思い違いである。口真似にも素人と玄人がいるだけである。口真似でないとすれば「意識的」の3文字はハンコなのである。

毛沢東時代の中国の出版社新聞社では「毛主席」の3文字をまとめて1個の活字にしていたと言われている。その3文字の出現頻度が飛び抜けて高かったからではない(飛び抜けて高かっただろうが)。そうなる以前の時代に、その3文字をたまさか行をまたいで組んでしまった植字工が責任者ともども「粛清」されてしまったのをきっかけにそうなったのである。

「意識的」などと無造作に書くのはその「毛主席」と同じハンコである、許されるべからざる言葉の怯懦、文字の堕落であると、別にそうとは書かれてはいなかったが(笑)、著者はそこまで言いたがっているように、わたしには思えた。

食い物の怨みというが、言葉の怨み、文字の怨みというものもまたあるわけである。食い物の怨みと違うのは、その怨みの深さを知るのは自分で言葉を、文字を使う人だけだということである。そんな人は多くいるようで本当はめったにいない。言論表現の自由と言っても何のことか知らないし判らないという人の方が、今なお多いはずである。

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ある考察(1)

2011年07月03日 | わけの判らぬことを云う
コドモのころから不思議で仕方がないと思っていることのひとつに、「人はひとりでは生きられない」云々という言い方がある。それが事実であるかどうかはさしあたりどうでもいい、というかだいたい事実なのだろうが、それが気に食わないとか不思議だとかいうわけではない(気に食わないのだが)。

不思議だというのは、そうしたことを口にする、あるいは文字にして書く人達は、ほとんどの場合「ちっとも残念そうな顔をしていない」ことが不思議なのである。字で書いてある場合でも、字面の上にそれらしい表情を読み取ることは、ほとんどできないことになっている。どちらかと言えばむしろ「どや顔」で言っているか書いているかしているように感じられることの方が圧倒的に多い。つまりそう言ったり書いたりする人のほとんどは、「人はひとりでは生きられない」ということを、物理法則に似た、いわば「生の法則」か何かのように思っているばかりでなく、それを肯定的なことだと思っている、というか、そうでなくてはいけないと思っている、ようである。実際そう言って説教される側からすると疑問の余地はないと感じられる、それくらい言葉や表情の上に、その事実に対する肯定的な心情がはっきり現われているし、読み取れるものである。

特に後者の肯定的な心情がいったいどこからどうして出てくるのか、わたしにはまったく理解できないという意味で不思議なのである。本気で本当に不思議なことだと思っている。「とても残念なことだが、それが事実なのだ」というなら、その残念には共感できるという意味で、むしろ理解はたやすいことであったはずである。だが生憎とわたしの心情の傾向はまるっきり逆だったのである。それが事実で、どうしようもなく動かしがたいことであるなら、それは心の底から残念でならない何事かである。だから、同じ事実を反対の心情のもとで述べる人には共感も理解もできないし、あまつさえ前者の事実に対してさえ、どうかして何かヒネリをきかせて逆らってみせることはできないだろうか、というようなことを考えたりするようになる、というか、事実なったのである。だから今もこんな風であるし、こうして時々blogに書きつけてみることをするわけである。

そんな基本的なことに逆らうことなどできるのかと言って、その可能性だけはいつでも容易に示せることである。「人はひとりでは生きられない」というのを「人は空気のないところでは生きられない」に置き換えてみればいい。これだって一見すると動かしがたい事実のように思えるが、実際には少しも絶望的な事実ではないことを、現代の我々は知っている。事実として人類は大気圏外でも月面上でも一定期間生存し、意味のある活動を行うことができているのである。もちろん莫大なコストをかけてようやく実現できているのだが、しかしそれはコストの問題であって、絶対の不可能事ではない。コストの問題にすぎないことを絶対の不可能事のように述べたり思い込んだりしてはならない、とは、最近ではたいていそう教わるようになったらしい「エンジニアの心得」の筆頭項目である。

ところで、後者の例で「空気がないと生きられない」という言い草の意味は、それを文字通り受け取った場合の「生物体としての人体の生存と活動には、体外から酸素が継続的に供給されることが必要不可欠である」という意味ではなかったということに注意してみる。つまり、この種の言い草の主の言わんとすることが「酸素の継続的な供給」ということであったとしたら、現在あるものとは物理化学的にまったく異なる原理で生物体としての人体を(再)構成する──しかもそのとき、意識の連続性や人格の同一性が損なわれないような──方法が存在して、かつ再現可能な手順として確立されない限り「人間が空気なしで生きる」ことはほぼ絶対に不可能だと言わざるをえないことになるだろう。でも実はそういう意味じゃないわけである。たいていは単に「大気圏内、それもほとんど地べたにへばりついていなければ生きられない」という意味である。だから、別の人工的な手段で体内に酸素を供給するしくみを作ってやりさえすれば、大気圏内であるかどうかにかかわらず、人間は一定期間生存し、大なり小なり意味のある活動を行うことができるということを示せば、それは意味のある指摘だということになるわけである。

(このシリーズの主題がいったい何であったのか本人が忘れなければ、つづく)

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なんだか嫌な感じだ

2011年06月08日 | わけの判らぬことを云う
今日は私訳をうpする時間が少し遅くなったのだが、そうなったのはわけがある。

十数年使い続けてきた時計を思いがけず壊してしまった。ポケットサイズの液晶時計で、電卓がついている優れ物だった(そんな製品はありふれてあるだろうと思っている人は、電気屋の店先でチェックしてみればいい、案外ないものである)のだが、部屋に帰ってきてトイレに入っているとき、ついうっかり落としてしまったわけである。

すぐに拾い上げたのだが、すでに手遅れであった。モノとしては2000円もしないような安物で防水機能などあるはずもない、液晶が流れて表示が壊れてしまっていては、もはやどうしようもないのであった。十数年使い続けてきたのに、壊れる時は本当にあっけないものである。

悲しんでいる間もなく急いで代わりの時計を買いに商店街を探し回った、それで原稿をうpするのが遅れてしまったというわけである。

それにしてもこの数週間の間にメガネが壊れ、時計が壊れ、である。そう言えば来月には、とうとうテレビの滅亡の日がやってくるわけである。自分と直接関係あるところでもないところでも、大事なものがたて続けに壊れたり失われたりしているように感じる。これは妄想ではあるだろうが、なんだか嫌な感じである。色々のものが壊れるのが嫌だというよりも、ここんとこよく言っているあれである。「世界の方が早く終わる」という、あの感じである。

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余生は独り言

2011年06月04日 | わけの判らぬことを云う
唐突だが、いまEU諸国で致死性の食中毒を大流行させているらしい病原性大腸菌の新種というのはWHOの自作自演だとわたしは思っている。実証的な事実がそうでないなら理念の背後関係においてそうなのだと言う。国際テロ組織のやりそうなことだということである。



わたしは本来、同じ喫煙者の悪口なら書きたくはないし、悪口の種になるような感情もできるだけ持ちたくないと思っている方である。第一に喫煙室で苛立っているというのは、本末転倒もいいところである。もっとも、勤務先の会社の喫煙室なんかには禁煙ナチスのポスターとか、嫌がらせのグロ画像とかが、ところ狭しと貼り巡らされていたりするわけである。グロ画像はだいたい好きではないわたしは半ば目をつぶって吸っている、目を閉じていられない時は心の目を閉じて──つまり、立ったまま寝たふりして──いるわけである。そうすると特に聞くつもりもない他人の会話が、やたらよく聞こえてきてしまうということがある。これはこれで困るわけである。

何が困るんだって、それは、会話のナカミが言語を絶するほど下らない、ということがである。

言うまでもないことだが、喫煙者の会話が特に下らないというわけではない。ごくたまに他人が電車の中でやっている会話を小耳にはさむと、あるいは手元で携帯電話に打ち込んでいるところのメールの文面などがなんとなく目に入ったりすることがあると、それもやっぱり聞くべからざるものを聞いた、見るべからざるものを見たと、言葉で書けばそう書くしかないような種類の感想を持つわけである。

要は、人間が直接に他人とやるような会話というのは、少なくともそのナカミにおいてはすべからく下らないものなのだ。そうとしか考えようがないのである。だから我々は普段赤の他人の会話などに耳を欹てたりはしないし、電車の中で隣席の女子高生が携帯電話にもの凄い勢いで打ち込んでいるメールの文面をわざわざ覗き込んだりもしない(いや、事実しない)。グロ画像の貼り巡らされた狭苦しい喫煙室の中では、本来なら聞くべからざる他人の会話が嫌でも明瞭に聞こえてきてしまう、たぶん、このこと自体が禁煙ナチスの嫌がらせなのである。

まあ、それはそれとして、

人間は確かに理性も持っている。デカルト先生の言った通り公平に、平等に持っていると言っていい。ただ、人間の個々人が現実の場面で理性なんてものを文字通り発揮していることは、本当はめったにない、本当に稀にしかないごくわずかな時間の出来事にすぎないのである。

一方でこの下らなさの感じはゾウリムシにも犬猫にもない、ありそうにない種類の何かである。つまりゾウリムシも犬猫も人間のように用いることは決してない「言語」における意味内容の下らなさなのである。

そういう意味では、この下らなさの次元は紛れもなく人間の現実の一部である。いな、一部どころではない、割合としては「ほとんど」を占める何かであって、そして、わたしにとって哲学とは「現実一般について考えること」だという限り、本当はこれをこそ最も熱心に考えなければならないはずのことである。しかしどう考えたらいいのかそれすら判らない。今のところはまったく取りつく島もないことである。

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世界の方が早く終わる

2011年05月07日 | わけの判らぬことを云う
長いこと計算機屋をやっているとそんな風に思うことが、何年かに一度はあることになっている。本当を言ったらわたしのような人は、昔だったら現役引退まで、最初に覚えた8080CPUのマシンコードを16進で──最初の3バイトはいつも「21 00 82」で──直にコーディングするのが仕事で、それがよっぽど面倒くさいという時だけは自作のインタプリタ言語でお茶を濁すとか、せいぜいそんなところ、それ以上でも以下でもないといったような日々を過ごしたのではないのだろうか。

そんな風な世界観からすると、この三十何年の間に、わたしの世界はいったい何度勝手に滅びたことやら、いい加減数える気もなくなって久しいということになる。たとえば菓子職人の世界に準えて言えば、三十年の間にある調味料の使用量が十億倍も増えたというようなものなわけである。最初の方の常識からしたら、作っているものはとっくの昔に「菓子」などではない、何か全然、まるっきり別のものになっているわけである。それでも作っている本人自身は「自分」の連続性と同一性を保っている。そしてそうである限り、作っているものの概念とその意味についても連続性と同一性を保っていなければならないわけである。



普通の人はそんなことしないで「自分」の方を変えてしまおうとするのかもしれないし、事実変えているのかもしれない。人並にトシをとって、長いこと会わなかった人に会うと、どうやら中身まで別人になっていると感じることが、しばしばある。はっきり言えば(言わないが)、壊れている。たぶんこの間のどこかに不連続の瞬間があったに違いないとおもう。

はるか昔には「三十過ぎたやつを信用するな(don't trust over thirty)」という言い方があった。たいていの奴は三十過ぎる頃までに一度や二度はぶっ壊されていて、しかも重ねてぶっ壊されることに何の抵抗もなくなっているから、信用するだけムダだ、次の瞬間からどんなデタラメを言い出すか知れたものではない、というような意味であったのだろう。もっともこの言い方は、わたしがワカモノであった頃にはすでに「『三十過ぎたやつを信用するな』という奴を信用するな」くらいの意味で、つまり逆説的にしか言われなくなっていた。誰よりもそれを口にしていた連中が一番信用ならない、ということが体験的に明白だったからだ。

今はどうかと言えば、もう入れ子にするのが面倒くさくなったのだろう、たった一言「信用するな」、いやその一言でさえ、もはや口にはされなくなったというところだろうか。



動画サイトで津波の映像を眺めていると、撮影者やその周囲に居合わせた人の誰ともなく「終わりだ・・・」と呟いているものが、全部ではないが時々あった。確かにこれでは終わりだと、漫然と動画を眺めているだけのわたしでさえ思うのだから、そこにあった生活なり仕事なりの全部をまるごと津波で流されてしまった当人にしてみれば、ほかに言うべきことも思い浮かばぬことであったに違いない。

これに比べればあの911でさえ、単に大きなビルがふたつ崩れただけ、しかも、それは悪意を持った誰かがそうと意図して崩したものであった。意図して壊されたものは意図して蘇らせることもできる。元通りにはならなくても、そこに加えられた悪意を取り除いたり、悪意に倍する「正義」によって覆したりすることはできる。少なくともその悪意の中心人物のひとりは、つい先日この世界から除去されたわけである。「正義」によって。

311の終わりはもっと大規模で、しかも、別に誰かが作為したことでも何でもない、そこで生きていた人々の都合も何も関係なしに勝手に世界が終わってしまったのである。勝手に終わってしまったものは蘇らせることはできない。存在しない悪意は取り除くことも覆すこともできない。放っておけばせいぜい、別の何かがふたたび勝手に、不連続に生じてくるだけである。

たぶん生きている間はこの先も、あとまだ何度か、こんな風な世界の終わりと、その後の不連続な再生の風景に出くわすことになるのだろうという気がしている。じじつ東京は津波こそ被らなかったが、それ以前にたいていのものはすっかり押し流されてしまっているわけである。この世の中にはいつからか廃墟マニアと称する人々がけっこうな数で出現してきているが、わたしに言わせれば、廃墟なら君らの足元に茫漠として広がっているではないかということだ。ただし建物ではない、魂の廃墟が。

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まったくやる気がございません

2011年03月27日 | わけの判らぬことを云う
この曲がいいとか悪いとかではなくて、この曲はたぶん、今では「バブル世代」などと呼ばれているわたしの世代のエートス(!)のそのままであるような気がする。

まったくやる気がございません - 所ジョージ / from YouTube

この曲が出たころ、わたしは大学受験生だったわけだが、わたしも同級生の友達も、ほとんど毎日のようにこの曲を口ずさんでいた。この曲の当時は「シラケ世代」と呼ばれていたのに、世間はホントに勝手なものだとは、いつも思うことである。

田舎とはいえ進学校のそのまた進学クラスで、全員が(地元のではない)国立大学を志望していたわけだ。そんな連中が何か口ずさむというと「働く気もなきゃゼニもない~」云々だったということである。心情の記憶をたどる限りそれは半分は嘘だった(笑)し、その後の事実においてもだいたい嘘だ(笑)ということになるのだが、それでも残りの半分は本当にこの歌の歌詞の通りであったことも確かなのである。

今のワカモノ達を眺めるにつけ「どうしてあいつらはあんなに真面目なんだ?」と、わたしは内心で不思議に思っている。何より不思議なのはその真面目な連中が掲示板とかtwitterとかで思想だ哲学だ、いまわが国に何より足りないものがそれだなどと言っていたりすることである。

正直、30年後のいま改めて聴くとこの曲はひでェ曲だし(笑)、いまさら真面目が悪いなんていちいち言わないが、真面目な奴には不謹慎なこと言ったりやったりする奴のことなんかは金輪際判りっこないわけだ。それが判んないということは、人間とか現実とかいうものも判らないということで、そしてそれが判らなかったら、いったいどうして哲学なんかができるのか。いや、そもそもやろうと思うのか。彼らはいったい、哲学を何だと思っているのだろうか。

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プログラマの暇潰し

2011年03月24日 | わけの判らぬことを云う
疲れているらしい。いつの間にか眠りこけてしまった。

プログラマは仕事が暇になると、なんの気なしにテキストエディタや言語処理系のプログラムを書いてみようとすることがある。時としてそうした仕事にもならない仕事がソフトウェアの新機軸の発明につながったりすることもあるのだが、普通はそんなことにもならない、だいたいそんなことは意図されてもいない、空白の時間は次の瞬間にも終わってしまうかもしれないのを心得た上でやっている暇潰しである。

それは娯楽にならないこともない。「学びて時にこれを習う」というやつだから「説(よろこ)ばしい」ことなのである。たとえば今のわたしは唐突にLISPのインタプリタをスクラッチから作ってみようとしている。そうすると、たとえばLISPの基本的な言語仕様から思い出してかからなければならない。基本関数はcarとcdrとconsとeqと・・・あとひとつは何だっけ、といった調子である。だいたいは覚えているのだがいくつかは忘れているわけである。忘れたものは、今ならたいていWebで調べがつく(ああそうだ、atomだった)。Webで調べがつかないものはさらに書籍の資料を求めるか、この際だから勝手に別バージョンを作ってしまったりする。

LISPはFORTRANの次に古くからある言語で、おそろしく単純な言語だから、そのインタプリタは今なら1日で書けてしまう。昔だったらそれだけで結構手間暇を食わされたこと、たとえば名前表のハッシュテーブル、特にハッシュ関数の実装とか、多少とも効率的なガベージコレクタの実装とか、本気でやるとそれだけで一冊本が書けるような大問題がひそんでいたりする(ただしそれも、今や昔の話だ)わけだが、幸か不幸かこのふたつは.net frameworkの上ではまったく意識する必要すらない。

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「泥棒」のいた世界

2011年03月20日 | わけの判らぬことを云う
ここでいう「泥棒」とは、今でも現実に存在するはずの窃盗犯のことではない。今となってはたぶんマンガやアニメの中にしか出て来ない、いや、そうした作品の上でさえそぞろ「リアリティ」を喪失しつつあって、だんだん見かけることが少なくなっているような気もする、あの「泥棒」のことである。

たとえば「ルパンⅢ世」だってその意味での泥棒なのだが、ひょっとするといまあのアニメ・シリーズを見ている人はもう、彼らが泥棒だとか岡引だとかいう風に思って見てはいないかもしれない。キャラクターが完全にひとり歩きしていて、ルパンはルパン、銭形警部は銭形警部という「人物」であり、それぞれが「怪盗」とか「ケーサツ」とかいう属性というか役割を帯びてはいるにしても、その属性や役割はほとんど現実的な根拠を持たされていないという意味でただの記号であり、あえて言わない限りはそれらの現実性について、誰もほとんど意識していないのではないだろうか。

いやちょっと待ってくれ、あれはもともとそうしたものではないのか、と問い返されるような気がしなくもないことである。マンガやアニメの記号である以前にそれが現実であった時代などが存在したことがあったのか、という風に。ややこしいことに、196x年生まれのわたし自身も、そうであった時代などは知らないのである。ただ、過去にそういう時代が存在したことは知っている、というのも、わたしの両親や祖父母の世代はその記憶をいくらかはとどめているからである。

黒澤明の生前の最後の作品になった「まぁだだよ」という映画の中で、内田百が考案したという泥棒撃退法なるものが出てくる。家の裏手に「泥棒入口」と書かれた札があり、順路を追って行くと「泥棒出口」まで通じているという、まったく他愛もないものだ。そんな手口にうかうかと乗せられる窃盗犯が、内田百の時代にだっていたとは思えないわけだが、たぶん内田百は半ば大真面目であったはずである。つまり泥棒はそうした時代の人々の心の中にだけ、しかしその心の中には確かに存在したのである。

なんで断言できるかというと、実はわたしの母親という人が20年ほど前に「他愛のなさ」と「大真面目」という点で言えば、それとほとんど同じことをやったことがあるからである。委細は省くが、わが実家に入ったその泥棒が後に捕まって、かくのごときことがあったとケーサツで自供したものらしい。ケーサツも驚いたらしいが、あとで聞かされたわたしも驚き呆れたものであった。いかな息子のわたしでもわが母に内田百の諧謔と同じものを見ようとは思わない。だいたい、内田百なんて名前も知らないはずである。そうではなくて、要は昔の人々の心の中には大なり小なり、ひょっとするとそんな他愛ない「撃退法」に諭されてしまうかもしれないものとしての「泥棒」が存在していたのである。

何が言いたいのかというと、我々は現在「社会」を、その制度や道徳的価値(善悪)や経済的価値(効用)といったことを考えるときに、どうしたってまずは実証的に、つまり社会をモデル化された要素的個人のモデル化された集合体として考える癖が、どうしてもあるわけだが、本当はそれと真逆な、そう言ってよければ(いいのかどうかは知らない)現象的に考える必要が、一方にはあるのではないかということである。ここで述べたような「泥棒」は実証的には過去にも現在にも一度として実在したことはないはずである。それは一角獣やドラゴンが実在したことはないというのと同じ意味で実在したことはないのである。けれども現象的には、一角獣もドラゴンも、また「泥棒」も、過去には確かに存在したのであり、その過去の世界における「社会」それ自体のありようを何がしか規定するものとして存在したはずである。

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高速募金入門(1)

2011年03月15日 | わけの判らぬことを云う
地球殴ったら今以上の地震起きる、っていうか地球壊滅するから怒りはヴィパッサナー瞑想で鎮めてほしい。http://t.co/WqZo6bQ
(oshakuso)

それ自体は現実の行為として可能かどうかにかかわらない、ましてや善悪としても効用としても正当性を保証するものではないからこそ「素朴すぎる」正義の要求なのであって。でもああして絵に描いたのを眺めただけで「何かスッとした」というコメントが結構あるわけである。

ちなみに

ヴィパッサナーは仏教における「観」(現代中国語「内観」)のパーリ語の発音。よって、ヴィパッサナー瞑想とわざわざ呼ぶ場合は上座部仏教の観行瞑想のこと。
(Wikipedia)

だそうだ。へー。仏教式の「本質観取」みたいなものなのかね。えぽけーっ・・・と。

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計画停電入門(1)

2011年03月14日 | わけの判らぬことを云う
東電史上初の計画停電を上手くやれなんてのは「床上手な処女」を求めるようなもんであってそんな存在しない処女を求めるのは童貞であって、、つまり計画停電に怒る国民は全員童貞だー!
(mondo1122)

しばらく「高速哲学入門」はやめにしよう。今日は疲れた。明日、勤務先の会社は動きそうだが電車は動かなそうだという情報。ああもうどうしろと。

上の呟きは勢いに押されて笑ってしまったが、よく考えると「床上手な処女」なるものをリアルに求める童貞がいるのだろうか。エロゲのシナリオとかだと今でもあるのか。「虹と惨事の区別がつく」のがエロゲオタというものではないのか。だいたい東電が処女なら国民の方だって戦後生まれは全員「こんなの初めて」なのであって、、つまり首都圏の勤労者国民は全員童貞だー!(もうワケわからん)

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「意味」論

2011年02月25日 | わけの判らぬことを云う
計算機屋のわたしにとって、カッコのつかない意味論とは形式言語の意味論のことである。計算機のプログラミング言語の場合、その意味(論)とは、当該の構文に対応する計算の実行内容にほかならない。もっと即物的に計算機の動作のことだといってもいい──もっとも「情報科学」の世界ではそう言うと怒られることもあるのだが、なァに、俺はなんでもハードウェアに落とさないと理解できない古株なんだから仕方ないダロと開き直れば済むことである。老兵は死なず、ただ居直るのみである。すっげー迷惑w

まあ何にせよそういう風に「意味」という言葉を理解している。自然言語における意味とは、だからそのまま横スベリさせれば、構文と文脈の組に対応する現実のことだということになる。一般に自然言語は文脈自由(context-free)ではないから、自然言語の意味規則は文脈を変数(論理屋の世界だとそれは数じゃないからという理由で「変項」と言ったりするが、煩わしいことである)として持つことになる。

このくらいまではいい。問題は「人生の意味」とか言われた場合の意味とはいったい何のことなのか、である。論理的にだけ言えば、その場合の「人生」は本来その人に帰属しない誕生と死を含むのだから、それに対応する意味もまたその人の現実を超えた「超現実」だということになるしかないのである。思うにそんなものを知っている人は、現代の文明世界にはまずいないはずである、が、厄介なことに言葉と言葉の用法だけは今も普通に生き残っている。なぜなら「人生の意味」という表現が意味を持たない(!)としたら、そうした文脈における「人生」がそもそも概念として成り立たなくなってしまうからである。わたし以外の人はほとんど誰でも(たとえ神仏は拝まずとも)人生を信仰しているので、それは困るわけである。

そうすると逆に困るのが哲学である。哲学とは(人間の)現実について考えることであり、せいぜい(人間の)現実を自然言語で記述することである。人生についての哲学などを求められると困る。人生に対応する超現実は哲学の守備範囲ではないのである。そういうのは超哲学とかオカルトとか言うしかない何かなのだが、しかし、そんなことを言うと人生哲学の人々はオコルのである。

そういう場合はどうすればいいのかというと、哲学よりは科学の領域でものを言った方がいいということに、基本的にはなる。一般に科学的事実というのはどんな些細なことでも(人間の)現実を超えた要素を含むからである。カントがそう呼んだところの「物それ自体」についての領域なのである。実際、その人が生まれる前にも死んだ後にも物理的宇宙は素朴に実在すると、科学はいたって素っ気なく言うことができる。もっとも、そうした物理的宇宙の実在からすると特定の個人の人生などは数学的に言うところの零集合である。つまり「ないのと同じ」である。それどころではない。零集合はいくつ束ねても零集合なので、人類の歴史も「ないのと同じ」である。事実そうだから物理の教科書に「人間」とか「人類」という項目はないのである(もしもあったら逆に、たとえば「日本」という項目がないのはなぜだということになる)。ないものは実験することも観察することもできない。そんなもの物理屋は知らぬ存ぜぬだと突っぱねるよりほかにない。

かくして「人生の意味」を求める人々が手にすることができるのは「ないのと同じ」、もう面倒だから一文字で「無」と言ってしまって構わない何かだということに、どうしてもなってしまうのである。欧米人の中にさえ、そうと悟って仏教に帰依する人がいたりするくらいだから、もともと仏教に馴染みの深いわが国では、トシをとると我も我もとばかり、読んだって判りもしない仏典を紐解く人が増えるのである。「無」だって言ってんのに悪足掻きはせずにおれないらしいのである。なーに悪足掻きする方が往生はしやすいのさと親鸞聖人なら言うだろうが、しかし浄土真宗はほんとのところ仏教ではない。アミダ様の本願だけは無ではないことになっているからである。

・・・熱がある中で適当なことを書いていたらわけのわからない話になってしまった。書くことが日課だから内容などはどうでもいいのだと言えば言えるが、本当は書くつもりだったことを書かないわけにもいかない。稿を改めて書くことにする。

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電算写植の昔話というほどでもない、脇見していたものの記憶

2011年02月13日 | わけの判らぬことを云う
写研コーディングができる特別なシャープ書院というのがあったのだが、ネットでそういう話を見た事が無い。なぜだろう? 時代はNEC PC9801NS、NE、NCの時代。 凝り性のライターさんはMIFESのマクロでコーディングをしていた。メガソフトもすごい哲学をもった会社だ。憧れる。
(marchellino_y)

「ネットでそういう話を見た事が無い」のは、ワープロ専用機とインターネットは時期的にちょうど入れ替わりみたいなところがあったからではないだろうか。別にインターネットがワープロ専用機を駆逐したわけではないのだけれど。

昔は写植屋さんという商売がそれ自体で成り立っていた時代があって、そういう世界ではPCよりもワープロ専用機が使われていた(富士通のOASYSとかもあったしね)。ライターでもテクニカルライターを別にすると専らPCで原稿書くのは少数派だったような記憶がある。わたしは編プロのアルバイトで原稿書きをやる傍ら、頼まれて簡単なDB処理や表計算のマクロを書いたりしていたから、電算写植に特化したページ記述言語(呟きの主が言ってる「写研コーディング」というのはそのひとつだ)なるものも、実物こそ見たことはなかったが、時々噂話には聞いていた。

根が計算機屋のわたしからすると、どう考えても未来はDTPの方にあるとしか言いようがなかった。でも、国内の印刷業界の現実は全然そんなことにはなっていなくて、電算写植のコードをエディタで直打ち(MIDIシーケンサの打ち込みみたいなもんだ)したり、特定の書体メーカのページ記述言語に対応した専用ワープロを作ってみたり、していたわけである。写植の世界はよくも悪くも職人の世界で、歯送りの技ひとつとっても職人の誇りみたいなものがかかっていたから、当時のDTP程度のものはシロートのお遊びにしか思えなかったのかもしれない。「なんだよこのワープロ、級数表示もできねえのか、これじゃ使い物にならねえ」なんてツッコミ入れてる写植屋とか編集者を何人見たかわからない。その種の不満は本質的ではない、貴方はすでに負けているのだとその都度思いはしたが、口にはできないことだった。

いや違う。本当は当時の写植屋さん達は、誰もが自分達の職人技が遠からず消えてなくなるものだということを知っていた。自身は覚悟を決めているようなところがある一方で、ワカモノには新しい技術を率先して身につけるか「さもなくばやめちまえ。こんなのに未来なんかないんだからな」くらいの剣幕で叱咤している、そんな光景をこの目で見たことがある。

面白いのはこれを呟いている主はプロフィールで「Apple大好きエンジニア」を自称していることだ。DTPという言葉はそもそもPageMakerとかQuarkExpressとかのMacintosh用ページレイアウタから始まったものなわけだ。そのApple屋の人が電算写植専用ページ記述言語に関心持つというのが(わたしがライターやってた頃の常識からすると)ちょっとびっくりさせられることだ。

いや・・・それもそうでもないか。わたしは一度だけMacintoshのソフトウェア・カタログの仕事をしたことがあって、PageMakerはもとより発売間もない頃のIllusutratorやPhotoShopをいじくり回したりしたものだったが、そのカタログ、本文は電算写植、見出しの一部は歯送りの芸術みたいな手打ち写植で作られていた。そもそもあれが皮肉の始まりであったということか。

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深夜雑感

2011年02月13日 | わけの判らぬことを云う
気がつくともう日付が変わってしまっている。土曜日は動画を眺めたり別の本をいくつか読んだりしていて、「正義論」の方がおルスになってしまった。

それにしても何だろうね、twitterで小ネタ拾いするのがどんどん難しくなってきている。専門家の業務連絡やら、学生さんの試験対策やらにツッコミ入れたって仕方がない(第一ツッコミようもないのだが)し、ウヨサヨ談義の類などひたすら邪魔なだけである。

まあ、もともと哲学とか思想とかいったものは、本当は対話も伝達も成り立たないような部分にしか価値はないわけだ。「コミュニケーション・ツール」などに哲学や思想を期待する方が間違っているということだ。でも同じように、もともとは対話や伝達を志向して作り出されたはずの電子掲示板が、匿名性のふいんき(←ry)を演出することで言わば反伝達性の遊び場に作り変えられてしまうといったことも、かつては普通に起きていたわけである。そうした動きがここ数年で急速に衰えた。考えてみるといまどきネット上の流行の多くは外国産で、それも露骨に茶番じみた理念を恥ずかし気もなく押し出しているものが多いことに気づく。これはつまり、パソコン通信の時代にちょっと似ている。

今のワカモノは往時を知らないわけだから、一度そっちに回帰してみて痛い目を見ないと判らないといった種類の話であるのかもしれない。でもパソコン通信の頃はまだ日本経済は好調だった。パソ通に飽きたら(必然的に飽きるんだ、あれは)表に出て遊ぶこともできたし、あるいは逆に伝言ダイヤルとかダイヤルQ2とかの、いささかヤバイ系の遊びに耽溺するということもありえたわけである。不況続きでそうした選択肢の外堀が徐々に埋め立てられつつあるようなこの時期に「いっぺん痛い目を見て思い知れ」というのが適切なことであるのかどうか。その痛みは無意味に永続化するだけではないのだろうか。

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「コロコロコミック」の創刊は1977年だ

2011年01月28日 | わけの判らぬことを云う
小学生で『πの話』を読んでる人にはまあ敵わないわな。僕は、小学校時代にはコロコロ読んで、中学でジャンプ読み始めて、高校時代に読んだ本は(参考書とか抜きにしたら)妹がもってたハリーポッター(もちろん邦訳)くらいだ。。。
http://t.co/SQeAJK5
(oshakuso)

敵うとか敵わないとか、何言ってんだと一瞬思ったのだが、さすがに育った時代が全然違うのだと改めて気がついた。「小学校時代にはコロコロ読んで」なんていう方が俺にとっては羨ましい話だ。月刊のマンガ雑誌なんて小遣いじゃ買えない、親に頼み込むだなんて冗談じゃない、床屋に行ったら店中のマンガを読み尽くすまで帰って来ない(笑)、それが1970年代の田舎の普通の小学生の世界だ。

当時のわたしは、新し物好きの祖父が買った関数電卓を半ば自分のオモチャにして遊んでいた。要はゲーム機なんて影も形もなかった時代の小学生は、なけなしの想像力を働かせて、たとえばそんなもので遊んでいたということだ。その想像力にも元手はいるから、「πの話」なんていう本もその一環で読んだわけだ。

  産医師異国に向こう、産後薬無く産に産婆四郎二郎死産、
  産婆さんに泣く、御礼には早よ行くな
  (3.141592653589793238462643383279502884197...)

これも確か「πの話」に載っていた円周率の覚え歌のひとつだ。もちろんこんな知識には何の意味もないし、何の役にも立たない。何もかも遊ぶために、ネタなんか何でもいいから、とにかく遊びたい一心でやっていることだった。



それほど遊んでばかりいても全然満たされなかった。このトシになっても本心では遊ぶことと怠けることしか頭にない。世の中の連中はどうしてこうクソ真面目な奴ばかりだ、取り巻く世界に、このクソ陰気な上にも陰険な世界の側に1分でも1秒でも隙があったら、なんでその一瞬を盗もうとはしないんだと、本当は言いたいわけだ。むろん言ったって理解されるわけがないことくらいは判っているから我慢している、その結果の捌け口が現在の素人哲学とこのblogのナカミの全部だ。ほかに大事なことがあるとは、俺は思わない。どう説明されようとその説明に納得する自分が存在しそうにない。この遊ぶことへの飢餓感の凄まじさといったら、自分でもまったく説明がつけられない。

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思考実験としての「ベーシック・インカム」(2)

2011年01月25日 | わけの判らぬことを云う
題名といい内容といい、それを「わけの判らぬ」カテゴリに入れることといい、なんでそんなに煮え切らないことをするのだ、と逆の方向からイライラしている閲覧者がいたとしたら申し訳ないことである。さっきうpした(1)は数日前に書いたもので、もうちょっと手を入れてからうpしようと思っていたのだが、ここんとこtwitterは学生さん達のテスト対策の呟きみたいなものばっかりで(笑)、なかなかネタが拾えないことにシビレを切らして、結局生書きのままうpしてしまった次第である。

題名についてもう一度断っておくと、要は現実の政策課題としての「ベーシック・インカム」に対しては、わたしはほとんど100%否定的だが、哲学的な「思考実験」としてならそれなりに有用なところがあるのではないか、という、だいたいそういう意味の題名である。

そうした哲学的な「思考実験」の例を挙げてみれば、たとえば「独我論(solipsism)」というのがあるわけである。哲学というのは、どんな哲学であれ、最初に「自分が存在する」という命題を真とするところから始まるわけだが、そうするといろいろ考えても真であると言えるのは、実はその最初の命題ひとつしかない、というのが独我論である。それは文字通り「存在すると言えるのは自分だけだ」ということにつながるわけで、それはどう考えたっておかしいわけである。おかしいというのは、直観的な現実認識に沿わないということである。存在するのは自分だけだなんてことがあるわけない。ほんとにそうなら、いま手元にあるタバコとライターは、コーヒーカップは、キーボードは何だ(笑)。

直観的には、だから独我論は否定されるよりほかないのだが、一方で哲学においては基本的かつ重要な思考実験である。近代以降で名の通った哲学者は、ほとんど全員どこかで独我論を論じていると言っても過言ではないくらいである。また、素人哲学の世界にあっても、いわゆる「厨二」の時期に独我論に大真面目に惹かれたことのない人はきっといない(笑)と言っていいはずのことである。デカルトみたいにわざわざ暖炉の中で考え込んだりしなくても、「厨二」の時期は「自分が存在する」ということに初めて意識的反省的に気づいてしまう、そういう発達心理学上の時期なのである。「すっげ、こんなコト考えてんの俺だけじゃね?」とか思って一瞬でも有頂天にならなかったら、発達心理学的にむしろ駄目だというような時期だから仕方がないのである。とにかく基本的かつ重要なのである。

真面目に言えば、そういう哲学の「思考実験」は、それ自体としてはどう見てもおかしな結論が、しかし論理的には可能だと思える、というところから始まるわけである。なぜそんなことが起きるのかは基本的には単純なことで、その結論を導く前提となった命題(の集合)の論理的な外延が現実と一致していないからである。いま有限な世界があるとして、そのような世界の中でも自然数や実数を定義する(またそれに基づいて数学を構成する)ことは可能である(これらの定義は有限な論理で記述される)が、自然数や実数は無限集合だから、その世界の現実に存在しないことを含んでしまうことになる。数学は現実と関係なく展開できるが、そうした数学を(有限な世界の)現実に対応させようとすれば、どこかで矛盾や破綻をきたすのは当然だということになるわけである。

哲学は現実について考えるものである。だから論理的な帰結が現実に沿わないと思われる場合は、前提に何か問題があるのだと考えることになる。前提とした命題そのものがてんから間違っている(実は偽である)ということもあるが、そういうことはあまりないので、実際にはその命題を構成している概念の方に問題がある。よく考えてみるとひとつだと思っていた概念が、あるパラメータに沿って区分されるような複数の概念の組み合わせであるとか、逆に異なる概念だと思えたものが、実は当の問題に関する限り区別することのできない同一の概念だということが、後から見出されることがある。哲学というのは要するにそういう作業なのである。

「独我論」の場合なら、そもそも最初に素朴に「自分」とか「存在する」と言ったものは、実はそれだけのものではなくそれぞれ論理的な内部構造を持っていて、調べて行くと素朴に「自分」と呼んでいたものが実は無数の存在の複合体であることが、その構造とともに理解されたりする。そうした理解が進む中でもとの独我論は否定されて行くことになるが、手元には「自分」や「存在」についてのより詳しい、より現実に近い理解が残されることになる。同じことはどんな素朴な命題に対しても実行することができて、「ベーシック・インカム」の場合なら、わたしの考えでは「労働」とか「所有」とか、あるいは「市場」「自由」「努力」などといった概念についての、社会主義や共産主義の時代にはほとんど問題にならなかった種類の現代的な現実に対応する分析が実行可能なのではないかということになる。

とはいえ、である。改めて注意しておくべきだと思うから注意するが、こうした哲学的作業を繰り返して行けば哲学(理念)が現実と肩を並べるとか、ともするとそれに優先しうるとかいう風になるわけでは決してない。哲学は現実について考えるものであって、現実そのものではないということは何度でもしつこく指摘するに値する。現実は哲学の外延に一致しない。現実のいかなる場面もその内に哲学には含まれない、哲学の含み得ない事柄をもつのである。ただ一方では、まさにそのことによって、哲学は哲学として実行可能なのである。

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