最初に言っておくと、世の中には大真面目に「ベーシック・インカム」制度の導入を考えている人がいたりするわけだが、わたし自身はそうした考えに対しても、動きに対しても、ほぼ100%否定的である。ほぼ100%というのは「バカもやすみやすみ言ってくれ」と言いたくなるようなレベル、面と向かって言われたらにべもなく拒絶するレベルだと思ってもらっていい。
上の題名は、しかし、そういって否定する場合の論理的な根拠はそれほど自明ではない、総じて直観的なものにすぎないとわたし自身が思っているから、このような題名になっているわけである。
まずその直観的な根拠というのを、可能な限り了解可能な文にしてみよう。ベーシック・インカム制度というのは、その理屈や理念がどうであれ、機能的にはそう規定された社会の内側で、その成員の個々に対して所得の最低保証を行うような「公的な制度」であると言っていいだろう。言わば「負の人頭税」だと考えれば、それが一番単純で明解である。そうするとそれは符号の正負にかかわりなく「税」である、つまり、その制度を適切に運用するためには、政府もしくはそれに相当する勧進元がどうしても存在しなければならない種類の制度である。一般的に言ってそうした制度が、そうでない制度(市場経済)よりよく機能すると言いうる根拠は、理論的にも現実的にも存在しないし認められない。ゆえに導入するに値しないし、試みることにも値しない。証明終わり。
もちろんもっとあけすけに、社会主義や共産主義にまつわる負の側面を洗いざらい列挙してみせるのでもいい。人によってはそうしている。「賛成派」の反論がそう主張するほど、そうした批判や否定が誤解に基づくものだとは、わたしは思わない。「要は社会主義や共産主義の現代版ではないか」という批判をなす人々は、それ自体が誤解であったとしても、要は「インテリが理屈で考えた制度(積極的な政策)を現実に適用して機能したためしがない」という一点において、素朴だが重要な真を言い当てている。
そうした制度は単にそれ自体が機能しないばかりではなく、もっとひどい社会悪の口実になってしまうことが多いわけである。そうでないと言うためにはその制度の理念がしかと現実を捉えたものだということが示されなければならないが、どんな優れた哲学でもそれを十全に示し得るということはない。結局、その理念が絵に描いた餅でしかない部分を少しでも持っていれば、それがまったく針の穴を通すような小さな欠陥であったとしても、社会悪はその欠陥を際限なく押し広げ、最後は制度理念の全体をまったくの茶番にしてしまうものと相場が決まっている。現に我々はそうした理念の茶番に日々煩わされながら生きている。
社会的・公共的な事柄に関する限り、現実に生きている人々の現実認識に優先する哲学(理念)など存在しないし、それと比べられるような哲学(理念)も存在しない。それは、人々が現に用いている言葉に優先する言語学(理論)が存在しないのと同じことである。このことに対する感度を欠いた、論理的にもっともらしいだけのインテリ論議なんぞ、いまさらバカらしくて相手にする気もしないというのは、理性の常識的な水準でまったく正当な態度だとわたしには思える。
上の題名は、しかし、そういって否定する場合の論理的な根拠はそれほど自明ではない、総じて直観的なものにすぎないとわたし自身が思っているから、このような題名になっているわけである。
まずその直観的な根拠というのを、可能な限り了解可能な文にしてみよう。ベーシック・インカム制度というのは、その理屈や理念がどうであれ、機能的にはそう規定された社会の内側で、その成員の個々に対して所得の最低保証を行うような「公的な制度」であると言っていいだろう。言わば「負の人頭税」だと考えれば、それが一番単純で明解である。そうするとそれは符号の正負にかかわりなく「税」である、つまり、その制度を適切に運用するためには、政府もしくはそれに相当する勧進元がどうしても存在しなければならない種類の制度である。一般的に言ってそうした制度が、そうでない制度(市場経済)よりよく機能すると言いうる根拠は、理論的にも現実的にも存在しないし認められない。ゆえに導入するに値しないし、試みることにも値しない。証明終わり。
もちろんもっとあけすけに、社会主義や共産主義にまつわる負の側面を洗いざらい列挙してみせるのでもいい。人によってはそうしている。「賛成派」の反論がそう主張するほど、そうした批判や否定が誤解に基づくものだとは、わたしは思わない。「要は社会主義や共産主義の現代版ではないか」という批判をなす人々は、それ自体が誤解であったとしても、要は「インテリが理屈で考えた制度(積極的な政策)を現実に適用して機能したためしがない」という一点において、素朴だが重要な真を言い当てている。
そうした制度は単にそれ自体が機能しないばかりではなく、もっとひどい社会悪の口実になってしまうことが多いわけである。そうでないと言うためにはその制度の理念がしかと現実を捉えたものだということが示されなければならないが、どんな優れた哲学でもそれを十全に示し得るということはない。結局、その理念が絵に描いた餅でしかない部分を少しでも持っていれば、それがまったく針の穴を通すような小さな欠陥であったとしても、社会悪はその欠陥を際限なく押し広げ、最後は制度理念の全体をまったくの茶番にしてしまうものと相場が決まっている。現に我々はそうした理念の茶番に日々煩わされながら生きている。
社会的・公共的な事柄に関する限り、現実に生きている人々の現実認識に優先する哲学(理念)など存在しないし、それと比べられるような哲学(理念)も存在しない。それは、人々が現に用いている言葉に優先する言語学(理論)が存在しないのと同じことである。このことに対する感度を欠いた、論理的にもっともらしいだけのインテリ論議なんぞ、いまさらバカらしくて相手にする気もしないというのは、理性の常識的な水準でまったく正当な態度だとわたしには思える。