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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

思考実験としての「ベーシック・インカム」(1)

2011年01月25日 | わけの判らぬことを云う
最初に言っておくと、世の中には大真面目に「ベーシック・インカム」制度の導入を考えている人がいたりするわけだが、わたし自身はそうした考えに対しても、動きに対しても、ほぼ100%否定的である。ほぼ100%というのは「バカもやすみやすみ言ってくれ」と言いたくなるようなレベル、面と向かって言われたらにべもなく拒絶するレベルだと思ってもらっていい。

上の題名は、しかし、そういって否定する場合の論理的な根拠はそれほど自明ではない、総じて直観的なものにすぎないとわたし自身が思っているから、このような題名になっているわけである。

まずその直観的な根拠というのを、可能な限り了解可能な文にしてみよう。ベーシック・インカム制度というのは、その理屈や理念がどうであれ、機能的にはそう規定された社会の内側で、その成員の個々に対して所得の最低保証を行うような「公的な制度」であると言っていいだろう。言わば「負の人頭税」だと考えれば、それが一番単純で明解である。そうするとそれは符号の正負にかかわりなく「税」である、つまり、その制度を適切に運用するためには、政府もしくはそれに相当する勧進元がどうしても存在しなければならない種類の制度である。一般的に言ってそうした制度が、そうでない制度(市場経済)よりよく機能すると言いうる根拠は、理論的にも現実的にも存在しないし認められない。ゆえに導入するに値しないし、試みることにも値しない。証明終わり。

もちろんもっとあけすけに、社会主義や共産主義にまつわる負の側面を洗いざらい列挙してみせるのでもいい。人によってはそうしている。「賛成派」の反論がそう主張するほど、そうした批判や否定が誤解に基づくものだとは、わたしは思わない。「要は社会主義や共産主義の現代版ではないか」という批判をなす人々は、それ自体が誤解であったとしても、要は「インテリが理屈で考えた制度(積極的な政策)を現実に適用して機能したためしがない」という一点において、素朴だが重要な真を言い当てている。

そうした制度は単にそれ自体が機能しないばかりではなく、もっとひどい社会悪の口実になってしまうことが多いわけである。そうでないと言うためにはその制度の理念がしかと現実を捉えたものだということが示されなければならないが、どんな優れた哲学でもそれを十全に示し得るということはない。結局、その理念が絵に描いた餅でしかない部分を少しでも持っていれば、それがまったく針の穴を通すような小さな欠陥であったとしても、社会悪はその欠陥を際限なく押し広げ、最後は制度理念の全体をまったくの茶番にしてしまうものと相場が決まっている。現に我々はそうした理念の茶番に日々煩わされながら生きている。

社会的・公共的な事柄に関する限り、現実に生きている人々の現実認識に優先する哲学(理念)など存在しないし、それと比べられるような哲学(理念)も存在しない。それは、人々が現に用いている言葉に優先する言語学(理論)が存在しないのと同じことである。このことに対する感度を欠いた、論理的にもっともらしいだけのインテリ論議なんぞ、いまさらバカらしくて相手にする気もしないというのは、理性の常識的な水準でまったく正当な態度だとわたしには思える。

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腐女子の会話から

2011年01月24日 | わけの判らぬことを云う
この発想は女性向けには見られないよね。東方×株 http://d.hatena.ne.jp/ronnor/20110122/1295670019
(takenocosatoko)

こういうので「あぁ男性向けってのは実用性が求められるんだな」と思うな。女性向けは夢が入る。
(takenocosatoko)

@takenocosatoko 女性向けだと、「自分の思想(や理論や哲学などのものの考え)を版権キャラに語らせるのはいけない」という暗黙のルールがありますからね。ヘタリアで思想関係に抵触する同人しちゃだめ!みたいな。男性向けだと割と好き勝手に使いますよね。
(hustle_hustle)

@hustle_hustle 男性向けはキャラを「商売の道具」として見ている節があるなーと思ってます。キャラというか記号じみてる。
(takenocosatoko)

「女性向けは夢が入る」とか、事情が判らないので本当のところ何を言っているのか判らない部分もあるが、大変興味深く読んだ。確かに男性向け作品では「霊夢は××、魔理沙は△△」というようなキャラクタの属性や関係性の記号化と体系化が先にあって、その構造がおおむね同型である限り株だろうと哲学思想だろうと何にだろうとあてはめて使える(矛盾や破綻が生じたら、それはそれで面白いということになるのだが)というところがある。

で、この人達の考えだと女性向けはそうではないということになる。昔に別のところで聞いた話では、女性向け作品の場合「エロ要素」「萌え要素」というような外側の記号化はさしたる意味がなくて、既定の(共通了解された)キャラクタが演じるドラマの要素がとても重要だということになっているらしい。この人達の言うことが本当だとすれば、それを内側の反記号化などと呼ぶことができそうに思える。

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政治はもともと自然災害の一種である

2011年01月21日 | わけの判らぬことを云う
だしぬけに何を言う、と思われるかもしれないが仕方がないのである。題名はさっき突然思いついたのを、そのまま文字にして書いただけで、実は中身が何もないのである(笑)。

でも、そうではないだろうか。サンデルの本を読んでいても、その解説書を読んでいても、わたしなどはどうもイライラしっ放しでなかなか理解が進まないのである。何がそうイライラするのかといって、そうした本のほとんどページごとに登場する「政治」の2文字が、わたしには一向にピンと来ないということなのである。ロールズにせよサンデルにせよ他の誰にせよ、政治哲学者の人々が「政治」と言ってるときは、それは自然災害とは似ても似つかない何かのことを言っているように思われる。けれどもわたしにとって、それ(政治)はどうやら自然災害以外の何物だとも思われていないのである。

このピンと来ない感じ、イライラしてくる感じは普通の人が「哲学」の2文字について抱く感じと、たぶんよく似ているだろう。あるいはまったく同じかもしれない。要するにわたしはサンデルやらその他の政治哲学者が「政治」の語を用いるたびに、いったい何をイメージしているのか、いまだに実感を伴って理解できる気がしないのである。

ベンキョーが足りないからか?そうかもしれない(笑)。それならベンキョーするに伴って判ってくることだと思うことにしよう。ただそれならそれで、現時点で何が一番肝心な疑問なのかを、とりあえずここに書いておくことは、たぶん意義があるはずである。なんてったってわたしは忘れっぽいからである。

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雑考(5) ─努力と偶然─

2011年01月21日 | わけの判らぬことを云う
本題に入る前に書いておくことがある。例によってまたgoogleの調子がおかしい。この十数時間の記事が検索結果に反映されない。ping送信は正常に行われているので専らgoogle側のトラブルだと考えられる。実際、検索結果のいくつかでは今日投稿したページの取得時刻が去年の日付で表示されたりしていた。本文を書いてこの記事を投稿する頃までには直っているかもしれないが、本業であるはずの検索サービスが頻繁にトラブルを起こすというのは困ったものである。



今日はずっと副題のことについて考えていた、といって副題だけだと何のことか判らないかもしれない。これは例のサンデル本にも書かれていたロールズによる福祉政策の擁護の論拠のひとつである。再配分のための課税は盗みであり奴隷労働である、高所得者にはそれを得るために支払った「努力」の対価を得る権利があり、課税はその権利を侵害するものだ、というリバタリアンの主張に対する反論の中で、ロールズはこんな風に書いている。

生来の潜在的能力がどれほど発達し結実するかの度合いは、あらゆる種類の社会的な条件と階級ごとに異なる態度によって影響をこうむる。努力しようとする意欲、挑戦する意欲、さらに(普通の意味での)功績や資格を手に入れようとする意欲といったものでさえ、幸福な家庭と社会的情況とによって決まってしまう。同じような生来の資質・賦存を有する人びとに対して、達成や教養の平等なチャンスを確保するのは実際上不可能なのだから、この事実を認めた上で生来のめぐり合わせ自体の独断・専横的で根拠のない影響をも緩和してくれる、ひとつの原理を採択したいと望んでもよかろう。
(ロールズ「正義論」邦訳書第12節p.100)

努力というが、そもそもその努力をするかしないか、する意欲を持つか持たないかということでさえ、ある意味では偶然に左右されている。努力する、もしくはその意欲を持つように仕向けられる育ちというものがあるのだというわけである。わたしは自分以外でこういうことを明瞭に言っている人物やその著作に出会ったことがなかった(いくらか難しい、誰でも直ちに理解できるとは思えないが、おおよそ似た意味のことは吉本隆明が「最後の親鸞」の中で書いている)から、サンデルの講義でこのくだりが紹介されていた場面では眠気を吹っ飛ばして画面に向き直った。

ロールズもそれを紹介しているサンデルも「生まれ育ちという偶然」を言っている。サンデルは「生まれ育ち」の巣窟みたいなハーバードで講義しているから、これを言うと、自分がひたすら刻苦勉励してきたおかげで、またそれによってのみハーバードに合格したのだと思っているエリート学生どもが一様にショックを受けるわけである(笑)。実際「じゃあちょっと、こん中で長男長女の人は手ェ挙げて」というとホントに8割方の手が上がるのだ。

そういう証拠を示しやすいから、専ら「生まれ育ち」のことを例に出すのだろうが、この努力と偶然の関係は本当はもっとずっと奥深いものである。つまり努力することの意欲自体が長男に生まれた偶然に依存していると言われると学生がいきり立つのも、ある意味ではもっともなのである。確かにそれはその通りなのだろうが、だったらどうしろというのだ。それはあたかも、自分がしてきた努力やそれへの意欲といったものは一切合切全部随伴現象にすぎないと言われているかのようではないか。そんな言い草があってたまるか!と。

我々は日常的には、客観的に記述された現実こそが本当の、歪みのない現実の描像であって、主観的な記述はそれを微妙に歪めたものだというイメージに馴らされている。つまり主観性は真の現実の描像に加えられたノイズのようなものだというイメージに慣れている。だから主観的な描像を糾合すれば、大数の法則によって次第に客観的な描像に近づくことができるのだと思い込んでいる。それは錯誤なのである。

確かに多数の意見を糾合すれば実際に「大数の法則」によって、描像は次第にあるひとつの描像に収斂しては行くだろう。それを客観的な描像と呼ぶのもいいだろう。けれども得られた客観的な描像を自分の主観的な描像から差し引いてみると、得られるのはまさに無意味なノイズでしかない。そしてそのノイズがほかならぬ自分自身の意欲だというのである。つまりそれが意欲であって有意味だと考えるのは、単にバカ気た錯覚だということである。どうしても信じられない話である。特に、自分自身がそれなりに辛苦した末に獲得してきたつもりの事柄についてそう言われたら、よほど心の広い人間であっても、そうと認めることはまずできないことではないかと思う。

以降、しばらくこの考察を続ける。

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ほんとの雑考

2011年01月17日 | わけの判らぬことを云う
ここのところ「雑考」と題して書いていることは、単に題名が定まらないからそうなっているだけで、実際は必ずしも雑考でなかったりするわけだが、以下はほんとのツレヅレ草である。

高速哲学入門(67)の先を考えてみたいのだが、そこで挙げられている事例の裏が取れない。実際にはたかだか(67)の主がたまたま個人的に遭遇した、あるいは見聞きしたというだけのことなのかもしれない。

おまけに、これ自体は別に(67)の主に責任があることではないが、あの呟きを起点にして辿って行くと、昔でいう「自己啓発セミナー」の、ぞっとする病理的な世界が広がっていることに、わたしは気づいた。そう言っておく。(67)の主は他人様のコドモのことを心配するより前に、自分の言ったりやったりしていることがそうした病理的な世界のすぐ傍にあって、首の皮一枚でも隔てているのかどうか定かでない、ほんとは地続きじゃないかと外側からは勘繰られるかもしれないことに自覚的であった方がいいと思えた。

・・・とはまあ、余計なお世話か。余計なお世話だな。

わたし自身、過去には複雑性の中でも「怪しい」方の研究をやっていたし、今はもっと「怪しい」素人哲学をやっているわけである。「法」的言語は嘘つきの言語だということの裏には、そうでない言語や非言語の世界の真実が「怪しさ」と無縁だということはありえないし、そのことを知らない哲学なんかやる意味は一切ない、ということもあるわけなのだ。そうは言ってもこの種のことをやるときは、志向対象の怪しさから次第に自分ごと病理の方へ引きずり込まれてしまわないような防御装置の小道具を持っておくか、なければ作っておくことが、とにかく大事なことだと、わたし自身がそう思っている。経験的にというよりは、たいていの人が大なり小なり引きずり込まれて行く中で、なぜか自分がそうならないことの結果的に、である。

別に何もむつかしいことではない。煙草をくわえて火をつけさえすれば、病理の方から遠ざかってくれることになっている。冗談でも何でもなく、わたしの知る限りこれが一番手軽で簡単な防御策である。しばしば病理でないものまで遠ざけてしまう副作用はあるが、効かない抗がん剤のように無差別的だということはない。概ね病理だけを遠ざける選択性が、煙草にはある。バカみたいに単純な方法だが、でもこのことがわかっているのは、わたしの周囲にはひとりもいないし、公に名乗って発言するような人物の中では、今や西部邁ひとりだけなのではないかと思うことがある。

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雑考(4)

2011年01月16日 | わけの判らぬことを云う
「法」の素朴に見られた本質が(3)の通りだとしたら、そこから哲学を始めるも何も、あとはただ拒否することしか残っていないのではないか、と思う人がいるかもしれない。というか普通そう思うだろうと思えたから「そこから哲学を始める」と但し書きをしたのである。我々の日常立っている場所から見れば「法」や「政治」は嘘でかためた茶番にすぎない。けれどもただそう言って終わらせるわけには行かないのである。

なぜか。法も政治も何もない状態とはヒャッハーのことだ。それはそれで、そんなに素敵なことではないわけである。そうした世界では、人は思いのままに略奪暴行を繰り返して生きているわけだが、そうこうするうちに、どこからともなく胸に七つの傷を持つ男がやってきて、なんだかよくわからないうちに死んだことにされてしまい、すぐに本当に死んでしまうのである。

もちろん法や政治は、大雑把に言えばそれと同じことを、一子相伝の暗殺拳ではなしに、嘘の言葉で塗り固めた秩序によって果たすだけなのである。どっちがマシなのかって、それだけだったら別にどっちだろうとひどい世界に変わりはない。事実そうだから、もともとフィクションにすぎない世紀末救世主伝が、フィクションに転換された現実性を読むものに感受させるところがあるわけである。

何か違いがあるとすれば、「文明」は法や政治のある社会にしか存在しないし、成り立たないように思える、ということである。この場合の文明とは、おおよそ「普通の人々が物質的な豊かさを享受している状態」、もしくはそうした状態をもたらす社会体系の意味で使っている。

ちなみにわたしの考えでは、物質的な豊かさはある程度までは精神的な豊かさの源でもある。まるっきり素寒貧のくせに精神だけがやたらと豊かだということは、道徳的な神話としてならありうるだろうが、現実にはまずありそうもない。だからわたしが文明という場合は、人々が物質的にはもちろん、それなりに精神的にも豊かであるような状態を指している。

とにかく文明社会では世紀末覇者とか救世主とかの嘘でない能力のかわりに、嘘でかためた法や政治が人々に暴虐を振るうのである。いいかえると文明はこの世界から自然的な暴虐を、たとえば貧困をなくしたり、少なくとも減らすことはできる何かであるが、人間の暴虐を(総計として)なくしたり減らしたりする力は持っていない、ということである。法的ないし政治的言語の嘘は、ひょっとすると、文明が自然的暴虐だけではなく人間の暴虐をも(総計として)減らしたりなくしたりできる、という理解にそもそも誤りがあるのであって、その誤りの反映であるかもしれない。

人間の暴虐は人間の文明によって克服することができない、というのも、もともと文明によって自然的な暴虐を克服するとは、あるいはそれこそが文明の定義であるとして、そういう言い方をするならば、人間の天然自然に対する暴虐と、その正当化にほかならないかもしれないからである。相手が天然自然なら、それは定義上人間の何かではないから、総計としての暴虐は真に減少する勘定になりうる。だが暴虐を加える方も加えられる方も人間の何かである場合、総計としての暴虐は変わらないのである。

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雑考(3)

2011年01月15日 | わけの判らぬことを云う
我々日本人の多くはふだん「法」的な正義論を先験的に胡散臭いものと見ている、はずである。実際、何かの争いごとを「法」的次元で決着させることを、わたしを含めて多くの人は、はっきり忌避する傾向にあると思う。それどころかずばり「嫌悪」を表明する人も珍しくはない。要するに他の尋常なあらゆる手段が悉く失敗した後にやってくる「どや顔」の必要悪だとしか思われていない、はずである。

なぜ「法」的決着が嫌われるかと言えば、まず素朴にはその言語が、ほとんどすべての人の尋常な言語感覚にとっては、あからさまな嘘つきの言葉であり、「法」的闘争は実証的な嘘の応酬で構成される正真正銘の茶番だからである。詭弁であり、屁理屈だからである。正義は、もしそれが存在するならば──実際、それは存在しないかもしれない──真実そのものだとは言わないとしても、それと強く関連づけられるはずであろう。その正義が嘘つきと屁理屈の言葉以外の何物でもないのなら、それはいささかも正義ではない、ありふれた茶番にすぎない、と、素朴には誰だってそう思うに決まっている。そう思わないなら、その人の言語感覚かアタマのどちらかがおかしいのだ。

もっとも外人が言う場合は事情が少し違ってくる。欧米人は我々から見れば不可解なお伽話の国に住む人々のように見えることがある。少なくともわたしにはときどきそうである。我々にとってはただの職業的な嘘つきとしか思えない、たまたまその嘘が自分の、あるいは地域共同体の利益に適えば賞賛され、その敵を一片の容赦なく破滅に追い込むような嘘をつけば手放しで絶賛されるというだけの、政治家や弁護士といったヤクザ稼業が、オーベー諸国においては(我々の場合と同じ理由で忌避されもするが、一方で)多少とも尊敬される職業のひとつであって、その尊敬もまたしばしば嘘ではないらしいのである。こんな連中のことを少なくともあるがままに理解できるわけはない。できるという奴は嘘つきである(笑)。

・・・こんなことばかり書いていると「お前は法治国家とか法の支配ということを何だと思っているのだ」と叱られるかもしれない。だが基本的には上の通りだと思っている。別に、ひょっとしたら将来その嘘と茶番がわたしの利益や存在を守ってくれることがあるかもしれない、ということを疑っているわけでは少しもない。ただ立場が逆なら、真っ赤な嘘とどす黒い茶番がタッグを組んでわたしの利益や存在を奪って行くことになるわけで、ひどい暴虐だとしか思わないだろうし、事実ひどい暴虐であることに疑問の余地はないと言いたいだけである。

そしてわたしはひとりしかいないが、わたしの「法」的な仮想敵はこの世界の残りのすべてである。やるかやられるかは(真実とは関係ない嘘なのだから)五分五分だとして、確率的に考えれば、百回やって生き残れる確率は2の百乗分の1にすぎない。法はその本質においてわたしを(あるいはわたしと大差ない立場にあるすべての人を)殺すために存在しているとしか言いようがないのである。こんな絶対的に不利な賭けをどうして忌避しないでいられるだろうか。おまけに、仮に何か超自然的な依怙贔屓が存在して、わたしがその導きによって生き延びたとしても、生き延びたわたしは嘘と茶番の王者で、操り人形にすぎないのである。名誉も尊厳も自由も何もあったものではない。生き恥とはこのことである。

以上は別に心にもないことを書いているわけでも何でもない、わたしの素朴な本音である。法や政治に関する素人哲学は必ずここから始めるべきだとわたしは思っている。

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雑考(2)

2011年01月15日 | わけの判らぬことを云う
リバタリアニズムの主張はいかにも極端でもっともらしくないように思われていたりするが、ハイエクにしろフリードマンにしろ、彼らの主張の眼目は自由市場主義の原理主義的な徹底ということであるよりは、そこに国家が理念をもって介入することの否定、つまりは理念的な社会計画(積極的な社会政策)全般の無効性を主張することの方にあったのではないだろうか。

自由市場主義の徹底が結構な世の中を作り出すとは限らないことは、ひょっとすると彼らリバタリアン自身でさえ認めることである。だが自由市場主義がしばしば道徳的な歪みを帰結するように見えるからといって、そのことは国家が(どのような理念であれ)理念的に介入することを正当化するものではないし、事実においてもそれは結局社会の混乱や停滞に拍車をかけるだけで何の足しにもならない。あるように見える場合もそれはマルチンゲール的な「コツコツドカン」の「ドカン」がまだ来ていないだけである。リバタリアニズムの理論家達によるこの指摘は重大で、今も根本的なところでは説得力を失ってはいないとわたしには思える。

リバタリアニズムが否定あるいは批判されなければならないとすれば、単純にリバタリアニズムにおいても国家の存在は前提されなければならないことである。リバタリアニズムは積極的な社会政策は否定するが、消極的な社会政策、つまり市場取引の自由を「妨げない」ようにする、またそれを維持するための国家は、それがなければ自由な市場が成立しないのだからなくてはならないということになるわけである。このことによって道徳的に好ましくない帰結が(リバタリアニズムによってのみ特異的に)もたらされるとすれば、それはどう考えても国家が社会を消極的にであれ作為することの帰結だと見なすよりほかないものである。つまり社会を作為する主体と見なされる(あるいはそのように構想・構築された)制度的国家は、そうした考え方とともに、何か根本的な欠陥を抱えているのである。

国家は一面においては人間の幻想的な本性(nature)が不可避的に作り出した、あるいは作り出すものだと見ることができる。国家が制度の形態として根本的な欠陥を抱えているにせよ、だったらそれを破壊・解体すればいいという風に、直ちに言うことができないのはそのためである。

生態系の破壊と再生と同じことである。生態系の具体的な形態は生物的な環境条件に沿って組織されるもので、その中の個々の生物体の都合に沿って組織されるわけではない。だからもしその中に意識(知性)を持つ生物種が存在したとすれば、その生物体からはひどい欠陥としか言いようのないものを抱えて生態系が成立していると考えざるを得ない場合はいくらでもありうる。そうかといってそれを破壊したら破壊したで、しばらくすると、中身は少々違っていたとしても、ひどい欠陥を抱え込んでいることにおいては何ら違いのないものが復元再生されるに決まっているのである。もとの環境条件に変化がない限りは、である。

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雑考(1)

2011年01月14日 | わけの判らぬことを云う
「何が善で、何が正義であろうと、それを理由に俺の邪魔をするなら、そんなものは認めない」という言い方はいつでも誰でもできることになっている。

この言い方が意味をなさないのは科学的真の場合である。「そこにお月様のあることが気に食わない」と言われたって、そんなことはどうしようもないのである。

何が言いたいかというと、善とか正義とか、あるいは人間の(とはこの場合「自然でない」「自然科学のそれではない」という意味である)真実といったものはすべて「そんなものは認めない」と言うことができる何かだということである。誰かはそれを「認めない」と言っている、あるいはそう言うことが可能であるがゆえに、それは善であり正義であり、あるいは人間の真実である。そもそもそうでなければ善や正義を「求める」という言い方は意味をなさなくなる。

普遍的な善とか正義とか人間の真実とかは、したがって存在しない。ここまでは簡単だ。常識と言っていいかもしれない。ややこしいのは、普遍的な善や正義は存在しないが、そうでない限定的な善や正義は存在するし、むしろ必ず(つまり、普遍的に)存在するということの方である。言ってみれば何かの善に言及することは、その善に対応する共同体の存在を示唆することである。

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Jan.11「メモ」の続き

2011年01月13日 | わけの判らぬことを云う
なぜサンデルの本を読みながら「自分と現実はどちらもひとつしかない」などということを考えているのか。

要するに「共同体」の存在論を考えようとしているわけである。それ自身が意志を持つ一次的な主体としての共同体が、個々の人間の意識を離れて実体として存在するわけではない。共同体なるものが存在するとして、それはわざと俗な言葉で言えば「みんなの心の中に(笑)」あるものなわけである。だから共同幻想とも言うわけである。

ただ、そうだとすると人間の意識には「一人称のわたし(個人幻想)」だけでなく「共同体(共同幻想)」もまたある、ということになる。けれどもそういう考えが素朴に成り立つわけではない。あるのは「一人称のわたし」だけで、かつ、それはひとつしかないのである。自分の頭上で天使と悪魔が口喧嘩する式の戯画はあくまで戯画であって、心に葛藤があるとき、心の中で実際にそうした分裂が生じているわけではない(いわゆる解離性障害はここでは勘定に入れていない)。

個人の利害、あるいは個人の尊厳ということを離れた美徳(virtue)や道徳(moral)の源泉として共同体なるものを考える必要があるのではないか、というコミュニタリアンの指摘は重要なものであるには違いない。美徳や道徳といった考えを肯定するにせよ否定するにせよ、我々が判断や行為に臨んでこれらの(個人の利害や尊厳を超えた)要因から影響されるし、されないとしたらこれらの要因を意識的に拒否・排除した結果としてでなければできないということは、誰にも否定できないはずである。本性的に個人の利害や尊厳を超えた要因は個人とは異なる源泉を持つと考えなければ辻褄が合わない。それを共同体と呼ぶのはいい。で、それは何なのか。どのような様態で存在するのか。つまり「何それ?おいしいの?」ということが真っ先に問われなければならないのである。

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メモ

2011年01月11日 | わけの判らぬことを云う
サンデルの本を読みながら、どうしてかわたしは以下のことを考えている。

わたしの世界にひとつしかないものが少なくともふたつある。ひとつは一人称のわたしで、もうひとつは理性的な現実である。

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中産階級は関係ないと思うんだ

2011年01月10日 | わけの判らぬことを云う
人から自宅に招かれるとそこはたいてい禁煙なので近ごろは行かないことにしている。それは、他人を招くような人は中産階級だからである。
(tonton1965)

わたしもここ数年はまったく他人の家には行かなくなった。数年前までは禁煙だろうが何だろうが構わず行って、禁煙だと言われたら「ああそう」と言ってその家の庭先や玄関先で吸ったりしていた。しかしたったそれだけのことでもだんだん間柄が険悪になったり疎遠になったりして、今は招かれても電話や招待状から鬱陶しさの気配が立ち昇ってくるように思われるから行かないし、それ以前に招かれること自体がまずなくなった。ほんのこの数年の間にこうした相互断絶をあらゆる場所、あらゆる場面で強いられるようになった。それも、強いて打開をはかろうとすれば、あとは「全面戦争」くらいしかすることが残っていないというくらいの激しさでだ。どうしてこうなったと言いたい。ただこの変化は「中産階級」という言葉の一般的な意味合いから説明がつくこととは思われない。

呟きの主が「中産階級」を具体的にどういう意味で使っているのかはよくわからないが、否定的な意味で使っているのは間違いない。庶民的な家では招くも何もなく訪れたりもてなしたりするのが普通で、わざわざ他人や他人の家族を招いたり、つまり招かれない限り訪れてはならない暗黙の禁制らしきものの気配があること自体がすでにして××(←これは伏字ではなく、わたしも適当な語彙が思い浮かばない)で、その暗黙の禁制の中にここ数年で「禁煙」がつけ加わったのだと言いたいのかもしれない。そうかもしれない。ただ「××」じゃあれだから手近なところで「中産階級」を代入しておいた、だいたいそんなところだろうか。

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呟き

2011年01月07日 | わけの判らぬことを云う
いつもの誰かさんが、うちのblogによく似た雰囲気のblogを見つけた、などと呟いている。つつつ釣られないぞ、とか思いながらさっき覗いてきた(笑)。迷惑になると嫌なので、ここにはリンクは貼らない。かわりに釣り師の呟きの方にリンクを張る。

件のblog主は文系の、それもわたしよりふた回りも若いワカモノの人で、うちより千倍くらい知的で真面目そうなblogだった。アタマのナカミも回転もわたしより千倍は豊かで速そうである。元気があってよろしい。で、この人もサールの未邦訳論文を訳そうと考えたりはしているらしい。そういう人が増えるのは、これまた喜ばしいことである。

正直、まったくネタがかぶっていたら(勝ち目がないから)ちょっと嫌だなと思いながら眺めたのだが、そういう恐れは全然ないようだ。この人の場合の「素人」は単なる謙遜でそう称しているだけではないかなと思うが、そんならそれで正真正銘の素人哲学であるところのわたしには、タダでいろいろ勉強になって有難いサイトだということになる。安心して自分の「お気に入り」に登録した。

(Jan.08,2011追記)
上記のうち、話題にしたblog主が「わたしよりふた回りも若いワカモノの人」だというのはまったくの事実誤認だった。お詫びします・・・って誰に?

まあとにかく、その言い訳はこっちの記事で書いた

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酒飲み話

2010年12月26日 | わけの判らぬことを云う
知人と酒飲み話をしていて「結局、あの都知事の言ってるのは嫉妬だよな」という話になった。

もともとセックス&ヴァイオレンスで売り出した作家が気がつくと政治家に、さらには都知事なんかになっている、そこへもってきて今では若い連中がマンガだか何だか知らないが近親相姦だか何だかのヤバイ系なネタの作品を嬉々として作っていて、またそれが本当は決して侮れない質と量で売れたりしていて、その作家達の中には若い世代の間でひそかにある種の尊敬をさえ集めているのがいるらしい、などと知ったら、そりゃどんな分野の作家だろうと嫉妬の炎を燃やさずにいられるわけがない。クリエータというのはどうしたってそういう風な性質の持ち主でなければならない。

そうは言っても、わたしはそこまで確信が持てなかったのだが、知人の方は自分のブンセキに自信満々で「絶対そうだぜ」と言い切ってみせた。「そらまあ、だいたいそんなところだろうと俺も思うけど」わたしはつい、つべこべ言ってみたくなった。

「都知事はそうかもしれないけどさ。いや、だいたいあってるけどさ、べつに都知事の一存で決まっちゃった条例じゃないわけだ。そういう話を議会やら何やらにさんざんねじ込みまくった圧力団体みたいなクソ野郎どもがいるわけだよ。そいつらはたいがい作家でも何でもない、PTAのオバハン連中みたいなものなわけだ。そっちの動機や目的はおのずと違ったものじゃないか」
「そらまあそうだ」
「オレが判んないのはそういうオバハン連中の動機と背後関係だよ。誰かそれを言い当ててくれないものかと思ってるんだ。そんなのオレに判るわけないし、そういうオバハン連中が知り合いだったとしても、おいそれと怖くて訊けやしない」
「そらおめえ、アレだ、性的欲求不満ってやつだよ(笑)。決まってんじゃねえか。中高年なんていうのは若いやつが愉しそうにしているだけでムカつくわけだよ。特にそこにセックスが絡んできたりするともう大変なんだよ。一番の不満の種みたいなもんなんだからさ」
「俺やお前だってとっくに中高年じゃないか」
「お前なんか全然問題ねえだろ。二次嫁だかなんだか知らないけどたくさんいて幸せそうじゃないか(笑)。五十男が聞いて呆れる」
「なんだよ他人事みたいに(笑)。だったら皆そうすりゃいいじゃないかと思うわけだよ。俺はあんまりよく知らんけど、いまどきは女どもだって『二次婿』飼ってるやつが一杯いるじゃないか。別にBLとかでなくたってジャニーズでも韓流なんちゃらでも、ネタにはこと欠かないと思うんだがな」
「そういうのはいるよ。ただ二次嫁でも婿でも何でもそうだが、そういうのは多数派には結局ならないんだろう」
「なんでかな?」
「それはさ、俺の考えでは、たいていの人がそうならないのは『卒業』しちゃってるからだよ。『お人形さんゴッコみたいなコドモっぽいことは卒業しましたあ』ってやつ」
「ほう」
「お前みたいに中退したようなやつはさ、後から復学でも再入学でもできたりするわけだ(笑)。でも卒業しちゃった大学には戻れないわけだよ。といって今から別の大学に入るなんていうのも気の進まない話だわな。まーた共通一次からやんなきゃいけないのかって」
「齢がバレるぜ。今はセンター試験って言うんだよ。それに俺だって今は院卒だぞ」
「知ってるよ(笑)。共通一次はオヤジギャグだよ。中高年が言うとワカモノが手ェ叩いて喜ぶんだよ・・・って、そんなことはどうでもよくてだな、重みの問題なんだよ。お前、今だってカネさえあればやるだろ」
「それはやるよ。素人哲学なんて面倒くさくってしょうがない、どっかで演習つきの講義でも受けた方が早いんじゃないかって思うことはたくさんあるんだ。ま、そんなカネないけど」
「だろ?普通の人はカネやヒマがあっても絶対やらないよ、そんなこと。お前は昔っから卒業証書なんてホントに文字通り紙切れとしか思ってないんだ。俺でさえちょっと信じられない。俺の方が聞きたい。何でなんだ?」
「それはこないだblogに書いたよ。俺には人生がないんだ。あったけど捨ててきたんじゃなくて、どうも最初からなかったんだ(笑)。で、そう考えてみると逆に判った。卒業証書なんていうのは人生のある奴、それを信じているやつが思い出アルバムに貼りつけて、そのまま体よく忘れるためにあるもんだって」
「人生がないってのはスゲエな(笑)。本物の無神論者ってのはそういうことになるんだな。俺はよう言わんぜ。でもまあ、これで明らかじゃないか」
「何が」
「お前くらい徹底してるやつが他に何人いるんだよ。絶対的少数派じゃねえか。勝ち目なんかあるわけないぜ?セックスはどっかで捨ててきちゃってもう戻れない、けれど無意識は出口のない欲求不満のカタマリになっちまったオバハン軍団の無体千万な廓清(カクセイ)主義みたいなものにはさ。明日なき暴走なんだよ。哲学もクソもありゃしない、理屈なんか何ひとつ通らねえヒャッハーだよ」
「廓清主義って!そんなふっるい言葉どこで覚えてきたんだ(笑)。俺は物書きだったから知ってるけどさ、こんな言葉いまどき国語辞典にだってなかなか載ってない、たぶんgoogle先生でもなきゃ知らないぞ」
「お前は知ってるだろうと思ったから言ったんだよ。さっきだって『敵中横断三百里』がどうのってクソ古い話してたじゃないか。いったいいつの生まれなんだよ」
「それはどうも(笑)。でもまあ、お前の言う通りだ。俺はいったいいつの生まれなんだ(笑)」

知人とこういう内容の会話を、だいたいこんな順序でしたことまでは事実だが、それ以外はすべてアレンジである。酒飲み話をいちいちメモってるはずがないことである。

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「Zornの補題の方が実用上は大事だ」って俺の恩師が言ってた

2010年12月10日 | わけの判らぬことを云う
殆どの人が選択公理を知らずに死んでいくと思うと悲しくなるな。
(alg_d)

選択公理というのは「空でない任意の集合族Aについて、その要素集合の各々から1要素ずつを一挙に取り出すことができる。すなわち、取り出した要素からなる集合を選ぶことができる」というものである。Zornの補題はこれと同値な命題で「順序集合Xに含まれる鎖がすべて上界をもつ(Xが帰納的である)ならば、Xは少なくともひとつの極大要素をもつ」。後者は実際、位相空間のコンパクト性とかに絡んだ定理の証明で、それも一番肝心な場面でよく使われる。

こういうのを全然知らないで生涯を終える人は確かにたくさんいるだろうが、「ほとんど」と言えるのかどうかはよくわからない。少なくともわが母校の卒業生はだいたいどっかで一度は習っているはずである。よその大学でもそうだろう、と勝手に思うことにすれば、現代日本人の半数はどこかで習うだけは習うという勘定になる。

また、わが素人哲学にとってコンパクト性の概念はそのキモになっている重要な概念だが、わたしの考えにいくらかでも本当らしいところがあったとすれば、人間存在が本質的に自由であることとZornの補題はなにがしか関係があることになって、つまり知識としては知らなくても(あるいは、習った次の瞬間に忘れてしまっていても)ほとんどの人は「即自的に選択公理を生きている」ことになるのである。

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