瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

開放

2017-10-22 16:02:34 | 随想
まずは落語「かんしゃく」のあらすじをWikipediaから拝借。






夏の夕方、ある実業家の大きな屋敷でのこと。旦那は神経質な癇癪持ちで、いつも妻や使用人に口うるさく小言を言っている。今日も帰宅するなり「帽子掛けが曲がっている」「庭に打ち水するのを忘れている」「天井の隅に蜘蛛の巣がある」などと、立て続けに家の者を叱りつける。結婚してまだ日の浅い年の離れた妻は、「辛抱しかねるのでお暇を頂きます」と言い残して実家に帰ってしまう。

妻の実家。話を聞いた妻の父親は「旦那様も会社で疲れているんだろうから、帰ってきて家が片付いていないと気の休まる時がなく、つい小言も出るだろう」と言い、「使用人が大勢いるのだから、うまく仕事を割り振って掃除や片付けをさせなさい」と助言して娘を嫁ぎ先へと帰す。

翌日、妻は父親の助言に従い、家の者の役割分担を決めて屋敷をきれいに片付ける。帰宅した旦那は帽子掛けや天井などが片付いていることを一つ一つ確かめるが、満足するというよりどこか居心地が悪そうな様子を見せる。やがて旦那は「これでは俺が怒ることができないじゃないか」と言う。





人は不満でいることが実は大好き、ということを見事に突いている。不満は相手に対する否定であり、それは相対的に自分を肯定することになるからである。

「かんしゃく」の主人公の場合、加えて自分が優位である、という確認も含まれる。確認し優越感に浸り満足するわけである。不満をかんしゃくという形で表現できるのは、相手より自分が優位な立場にいるからこそである。相手のほうが優位であれば陰で愚痴をいうほかない。

愚痴は愚痴で効能がある。愚痴を言うしかない状況というのは憐れといっていい。憐れな境遇にいる可哀想な自分。自己憐憫は格好の自慰行為になる。

サゲのひとことにあるように、改善したくて、より善い変化を望んで不満を口にしているのではない。不満が大好きだから不満を口にしているだけで、変化されては困るのである。

なにゆえ不満が大好物なのか。
不満こそが自分を満たしてくれるからである。満たされないことで満たされるという歪んだ構造。馬鹿げたことだ。

その構造に気がつけば不満は解消される。不平不満を言うな、我慢しろ、ではない。馬鹿馬鹿しいこのカラクリを知れば、不平不満は自ずと消えるのである。

この歪な構造、この不健全な満たされ方、この罠を仕掛けたのは自分、エゴである。エゴは臆病なのだ。臆病ゆえに閉じこもる。閉じた世界で満足を得るにはこのカラクリが必要なのだ。自己完結の世界である。そこに他者はいない。幻想の他者がいるだけである。

この罠、そして罠を仕掛けた首謀者に気がつけば、事実はなにも変わらずとも世界は確実に変化する。気づくとは閉じた世界を開放することだ。籠城戦をしていたエゴが白旗を上げるのだ。馬鹿げた戦いは終わり、世界に平安が訪れる。






蛇足
落語は笑って聴くもので、こんなふうに聴くのは野暮なのだけれど、野暮を承知で書いてます。
このブログ自体がそもそも野暮なのですから。
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