瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#64

2013-02-20 01:06:44 | 考える日々
選択肢はいろいろあるには違いないけど、それは些細なことで何を選んでも大差なしってことが案外多かったりするね。そんな選択肢ならあってもなくても関係ない。で、肝心なことになると選択の余地がなかったりするのよね。そうするほかないじゃんってことは結構あって、つまるところは世の中ままならんト。

能動的に生きるっていうのは幻想じゃないかしらん。生きるっていうのは基本的には受動的なものなんだろうね。そもそもこの世に生まれ落ちたということからして受動的なわけだから。あとは選択のしようのない状況に巻き込まれ、その中で選択できることを見つけて少しでも能動的でありたいと、もがきながら生きていくしかないのよね。その生き方を能動的といえばいえるけど、抗いがたい状況に流されているのは間違いなく、受動的ともいえるよね。

人生すべてを自己の判断でもって能動的に生きていくというのは、どだい無理な話よね。それが理想かもしれないけれど。自分とは関係ないところで決められたことに振り回されていることは沢山あるんだけど、振り回している相手が大きすぎて姿が見えないのよね。だから振り回されていることに気が付かず、能動的に生きれば道は拓けるような気がするんだけど、実際なかなかうまくいかないよねえ。ようするに激流の河くだりに強制参加させられているようなものだから。流れには逆らえず、方向としては下流に向かうしかない。それでも、ただ流れにまかせておいたのでは岩場にぶつかる。自力で変えられる流れは変えないとエライめに会う。といっても基本的には流れに身をまかせるほかない状況ではあるのよね。

あれこれ選択して生きてるつもりでいたけど、選択しようもなく生きてる面も多いのね。選択肢がないというのは窮屈だけど、ある意味、気は楽だよね。自分にはどうすることも出来ないことにまかせるしかないのなら、くよくよしても仕方がないからね。なるようにしかならんのだし。どうすることも出来ない存在っていうのは、つまり自分を超えた存在ってことよね。人間はどうしようもなく、それを意識してしまうのね。それを神と呼ぼうが何と呼ぼうが構わないけれど、人間はそう感じるように出来ているんじゃないかしら。その感覚を宗教的に処理する人もいるし、処理しない人もいる。だから無宗教といってもまったく宗教感覚がないわけじゃないのよね。でも世の中広いから、やっぱり人智を超えた存在を意識しない人もいるのかしら。あたしには、ちょっと想像がつかない意識の在りようだね。そういう意識は自らが全知全能だったりするのかしら。どんな気分なんだろ。わからんなあ。
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