瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

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見解と実情(「食べる」についての独断)

2015-02-23 19:38:21 | 随想
そろそろ食べ終わろうとしていた時である。

「もう一皿いけるんじゃない?」と後ろから声を掛けられた。見れば、馴染みの店員である。絶妙なタイミング。

少々物足りなく感じていたところである。
寿司十一貫に小うどんと茶碗蒸しのセット。十一貫の寿司なんぞお八つみたいなものである。食事といえるような量ではない。そこに小うどんと茶碗蒸しがついたところで、量的にはどうという程のこともない。腹八分目、いや七分目か。まだまだ余裕はある。このあと、コーヒーにケーキで締めたいくらいなものだ。
さあ、この食事、どのように着地させるか。そんなことを考えていたところに声が掛かったのである。

「じゃ、もう一皿」
私が軽く答えると、
「わたしも二皿いくのよ」
そういって彼女はオーダーを通した。

小うどんと茶碗蒸しは一緒にいる友人にあげようかしら。茶碗蒸しは好物なはずである。
が、しかし、あげるのはなんだか理に合わぬようにも感じられる。
これが純粋に私の考えのみから発せられた追加注文なら、それを一人で食べようが友人と分けようがとやかく言われる筋合いのものではない。
だが私は、もう一皿いけるんじゃない? その声に応じたのである。応じておいて一皿食べなければ嘘である。

私が友人に分けたところで彼女は何も言わないだろう。あら、いけるって言ったくせに、くらいのことはいうかもしれないが、それはただからかっているだけで他意はない。
しかし私が嫌なのである。応じたからにはそれに即した行為であらねばならぬ。友人に分け、友人を喜ばそうという行為をここに割り込ませるのは、行為の一貫性を欠く。

直に、もう一皿がテーブルに運ばれた。
あゝなるほど、そういえばこういうことであったなと箸をつけながら私は思い出していた。
一皿に一皿で二皿。算数としては合ってはいる。だが足し算で計算するところが間違い。数学が解らない私には説明しようもないけれど、腹の膨らみ具合から察するにここは三掛けくらいせねばならない。食べ進むうちに一貫が一貫でなくなってくるのである。

日頃は半ば断食をしているような食べ方をしている私はそのことをすっかり忘れていた。もう一皿くらい軽い。その判断は完全な誤りであった。食べられはするが軽くはない。充分過ぎるほどの満腹感に達するのである。

その昔、欧州のどこぞの国では貴族が美食を堪能するため、満腹になったら胃のなかのものを吐き出し空っぽにしたところで、ふたたび食べつづけたという。貴族とは下品な連中である。
が、私もまた同じようなものだ。
物足りないとは量ばかりではなかったのである。もっと味わっていたいということでもあったのだ。そのために満腹になって苦しくなろうとも食べようとするのである。

貪食。七つの大罪を私もまた持っているのである。
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