瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#68

2013-02-24 01:23:06 | 考える日々
前回の書き方では片手落ちのような気もするので、ちょっと補足。

古典を読むのは過去を引き継ぎながら頭を鍛えるわけだけど、未来へ受け渡すべきものについても考えなきゃね。古典を土台に新しいものを積み上げるだけではなく、土台そのものも新しいものを作っていく行為。江戸から明治になった時に、西洋の知識を新たな基礎教養として取り入れたようなことね。以降、西洋発の思想や科学も思考の土台に加えて明治政府は富国強兵をしていくことになるんだけど、その末路が太平洋戦争で、そして日本は壊滅する。で、新たな教育が始まったんだけど、これがお粗末。理系の基礎教養はうまくいってたようだけど(技術立国として戦後やってきたんだから。でも、ゆとり教育で危うくなったみたいだね)、文系の基礎教養はガタガタ。古典教えないからね。哲学思想がスッポリ抜け落ちたまま教育しても笊にじゃぶじゃぶ水をぶち込んでいるようなもんよ。

でも、土台が何にも無い状態では生きようがないのよ。思考の基礎工事をやらないと何も積み上げようがないんだから、生きていくことが破綻してしまう。じゃ、学校で教えてくれないなら、どうするか。自分でやるしかない。皆それぞれに土台作りをするしかなくなる。各人各様に土台作りをし始めたから国民的基礎教養はなくなった。しかし、あえて国民的基礎教養をどこかに求めるなら、それはマンガだと思う。

これには異論もあるだろうなあ。あたしがマンガを基礎教養と考えるのは、子供が最初に接触する世界観がマンガだと思うからなのね。もちろん、その前に昔話とか童話とかを親が読み聞かせるし絵本なら自分でも読むというか見る。それはそれで基礎になるけど、如何せん知力が幼い。ある程度の知力がついてきてから摂取するようになるのがマンガだから、基礎教養というなら昔話よりマンガだろうと思うのね。
そういう一般論とは別に、あたしは何を礎石にしたんだろうと考えたときに、それは「ドラえもん」だと思ったのよ。マンガばかり読んでいたわけでもなく、学校の図書室の本も読んだ。いまにして思えば自分なりに基礎工事をしてたのね。学校では教えてくれないから自力で、依って立つ考え方の土台となるものを図書室で探していたんだろう。でも振り返ってみれば、結局あたしの土台となったのは「ドラえもん」なのよ。マンガなの。

各人各様で基礎作りしてるから異論があるのは当然。しかし、それを承知でマンガが基礎教養であるとしてハナシを進めます。マンガに加えてアニメもそうだろうと思うし、最近はゲームもそうかもしれない。古典教育を受けなかったから、こういうものを代わりに基礎教養にした。けがの功名みたいなもので、新しい土台を作ったのよ。もちろん、この新しい基礎教養はまったく新しいわけではない。初期のマンガやアニメを作った世代の基礎教養は戦前戦中の教育なんだから。その延長線にマンガやアニメがあるんだけど、戦後は基礎教養をちゃんと教えないから、いきなりマンガやアニメで基礎作り始めてしまって、これが新たな基礎教養の位置に座ったという図ね。古典教育しないから過去と断絶しちゃったかわりに、新しい教養を作ったのよ。

このまま過去と断絶してちゃ駄目だから古典教育はすべきなんだけど、けがの功名でマンガやアニメが基礎教養として育ってきたんだから、これを未来へきちんと引き渡すべく教育の一環として確立したほうがいいと思うのよね。
クールジャパンを本気で国家政策とする気なら、まずは研究機関よ。マンガ家やアニメーターの養成は民間がやるから、国家はお金にならない研究のほうをやるのよ。資料の収集、分類整理。学問としての体系化。マンガを扱っている大学もあるみたいだけど、個々の大学まかせじゃなく国家が旗振って先導しなきゃ。
そして教養なんだから当然義務教育の段階でも教えるべきよ。現在連載中、放送中のものは子供は放っておいても摂取するから、この分野における古典を教えるのね。歴史が浅い分野だから古典というには時間の篩(ふる)いにかけられていないけど、それでも名作と言われる作品はいっぱいあるんだから、それらを教えればいいのよ。そういうのを学べば現在の作品とのつながりがわかって、理解が深まる。古典を教えるというのは過去の理解だけでなく現在の理解でもあるのよ。全部つながっているんだから、あたり前よね。そして未来へつなげる。

でも本気でマンガやアニメを国民の財産として捉えて政策を実行しようなんて政治家はいないだろうなあ。それに教養として学校で教えるべきなんて、あたしの考え方も支持されないだろうし。ま、考え方はいろいろあっていいけど、何をどう教えるべきかという議論はもっとあっていいはずなのよ。ゆとり教育なんて何がしたかったのか、よくわかんないし。詰め込むのが良くないとか、そんなレベルの議論はどうだっていいのよ。問題は内容なんだから。何を教えれば人間になるのか、ということよ。子供なんて半分動物みたいなものなんだから、それをどう人間らしくするかよ。日本人の場合、むかしは仏教で人間に仕上げていたわけだけど、いまは人間に育て上げるという要の考え方もないまま、いたずらに教育改革するから教育されるほうはいい迷惑。いまの教育の要にある考え方はいったい何なのかしらね。あたしみたいな人間に仕上がるところをみるに、あんまり高尚な考えのもと、教えているとは思えん。ま、あたしがこんなのになったのは教育の側に問題があったのではなく、あたしの側に問題があったのかもしれないけれどね。
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