瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#100

2013-05-28 02:10:13 | 考える日々
100回になるんだなあ、とタイトルに回数を書き込んだときに感慨深いものがあったけれど、ま、それはさておき。

仏教では心の平安(寂静ってこういうことだと思うんだけど、違うかなあ。それよりは悟りというべきかしら。ま、全部同じことを言ってるような気もしないでもないけど)を得るには物質的なことや精神的なことから離れろっていうけど、数回前に書いたことからいえば、だったら魂に還れってことなのかな、なんて思ったりする。
でもお釈迦さまは、たぶん魂を語っていないんじゃないかしら。仏教に詳しくないから判らないけど。

魂をプラトンのいうイデアと解すれば、ま、現実は似像でイデアが本来の在り方なんだから、魂に還れば心安らかってことにもなるねえ。そりゃ、似像でいるより本来の在り方のほうが居心地はいいだろう。

ま、こういう世界観を受け入れるか否かは人それぞれだろうけど、現実が苦しい、つらいっていうのは万人が感じるところでしょう。逆に喜びや楽しみもあるけどね。

苦しいから心の平安を求める。そのためには物質や精神から離れろト。じゃ最初からそんなものなければいいじゃん。魂(たぶんお釈迦さまは、こう語ってないだろうけど)のままでいいじゃん。なんでこんな(似像)在り方してんのさって言いたくもなるんだけど、最初から魂としてだけ存在してると、私たちは阿呆になるんじゃないかしらって思うのよね。そうじゃなくても愚かしいことばかりやってるんだから。

物質や精神は、たぶん桎梏なのよ。桎梏っていうのは言い過ぎかしら。ある種の制約ね。制約がないと、やりたい放題になっちゃう。やりたい放題にやってれば、人は阿呆になるもんねえ。お金持ちのぼんぼんが阿呆だったりするでしょ(いや、みんながみんな、そうじゃないけどね)。なんの制約もないとわがままで愚かになるだけなのよ。ままならないことがあって、ようやくまともになるのよね。

ままならぬことの最たるものは死だろうけど、死ぬことがなけりゃ人は何も学ばないだろうね。あと老いるとか病気になるとかね。いろいろと制約があるから思い悩みもし考えもし、だから賢くなっていくんだろう。こういう考え方をすると、この世は修行の場である、なんて解釈にもなり宗教くささが出てくるか。
ま、そう解釈するしないはともかく、制約があるからこそ賢くなる。賢くなるまでいかなくとも、愚かになることを食い止めはしよう。だったらこの制約のなかで生きる意味はあるわけよね。心の平安のために物質や精神から離れようと考えるより、この桎梏を受け入れ、そこから学び、学んだのちには自然と離れていくということなんだろうね。

ってなふうに考えれば、世の中のあれやこれを見ていて、ため息つきたくなること多いけど、この肉体と精神という桎梏こそが最後に残った希望なのかなとも思うのよ。愚かさや堕落を食い止めるのは、ままならぬこと、この世に在るということなんじゃないかしら。この世に在る意味はその一点なのかもね。



前回の補足らしきもの
すっかり忘れていたけど、チューリングテストってのがあったね。機械の知性を調べるやつ。あれは問題もあるようだけど、やりようによっては、我々は何を以って知性と認識するのかは判るとは思うのよ。知性とは何かという問いに対する答えとは微妙に違う気もするんだけど、参考にはなるでしょう。
でもチューリングテストはやっぱり知性というより人間全体を問うことになるかしらね。それはそれで興味深いけどね。
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