瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

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豊穣な孤独

2015-09-30 15:03:26 | 随想
梨木香歩「水辺にて」(ちくま文庫)を読んで思う。ああ、そういうものかもしれない。
私は勝手に読み替えるから梨木香歩の書いたものからは離れてしまっているだろうけれど、読んで考えるとはそういうことなのだから仕方がない。書いた人の意図は哀しいくらいに伝わらないものである。

発せられた言葉は受け止められることを望んでいる。受け止められた言葉は変容し、新たなる言葉として発せられる。送受信は複雑に絡み合い、もはや発信も受信もない。
このブログ、発信しているのやら受信しているのやら定かでない。

そもそも、こんなもの交信の極一部。私たちはそれと知らず交信している。
この「水辺にて」を読み始めたのは昨日。カバー写真は星野道夫。同日夜、ラジオから聞こえてきたのは星野道夫の「ワスレナグサ」(「旅をする木」所収らしい)の朗読。何かを受信するからこうなる。いわゆるシンクロニシティは未知なる交信だろう。

私の発している言葉は虚空に消えているような気がしていたが、そうではないのだろう。この言葉を読まずして受信している人もいよう。読まないで受信? どうやって? そんなことは知らない。無理矢理理屈をいえば集合的無意識を介して、とでも言っておく。

私たちの世界は豊穣なのだ。あらゆるものが複雑に絡み合い影響し合いより善くたらんとしている。見えていることなど、知り得ていることなど世界の一部に過ぎない。私たちは私たちの知らないところで繋がっている。梨木香歩の言葉を借りれば「豊穣な孤独」として私たちは存在する。
梨木はこういう意味で「豊穣な孤独」と言っているのではないけれど、読み手とは自分勝手な読み方をするものなのである。
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