瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

ドM

2018-12-26 22:25:33 | 随想
身体が資本とはよく言ったものですな。身体がなきゃ始まらない。自分がここに在るのは身体が在ってこそ。身体から始まっているだけに何かと自分を縛るのも身体ですな。健康が損なわれると精神も病みますからねえ。

身体は心を縛りますけど、心もまた身体を縛りますね。気持ちが塞ぐと体調もおかしくなる。

ようするに身体も心も同じものなんでしょう。だから自分っていうときは身体と心、両方指しますからね。どちらかが自分で、もう片方は自分ではない何か、なんてことはありませんもんねえ。

自分ってぇのを物質にしたら肉体で、非物質にしたら精神ってとこかしらね。んじゃ自分って何よってぇ話になりますが、さあ、なんでしょうねえ。魂って言ってもいいですが、それじゃ答えになってませんもんね。魂って何よってぇ話になるだけですから。

つき詰めると何だか解らなくなるんで魂っところで留め置きましょう。

身体が心を縛るだの、心が身体を縛るだのと書きましたが、結局縛られているのは魂でしょう。魂が身体と心に縛られている。

ということはですねえ、死ってぇのは魂が身体と心から解放されるわけでして、恐ろしいことでもないような気もしますが、どうなんでしょう。
ま、縛られていたいドMの人にとっちゃぁ解放は恐怖かもしれませんけど(笑)

解放っていうなら、死なないでもある程度は出来そうな気もしますねえ。身体と心は縛るばかりじゃありませんから。修行で肉体を極限まで追い詰めると精神のリミッターも解除されるようですね。悟りってぇやつですねえ。

だいたい縛られているっていえば、この次元に私たちは縛られていますからな。高次元から観たら、私たちという存在はさぞかし不自由に観えるんでしょうなあ。

縛られまくりですが、縛られているから楽しいってぇこともあるんでしょう。私たちはみんなドMなのかしら(笑)



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