じいたんばあたん観察記

祖父母の介護を引き受けて気がつけば四年近くになる、30代女性の随筆。
「病も老いも介護も、幸福と両立する」

結婚式旅行記(4)宴のあと、そして辞去の朝。

2006-01-24 23:32:38 | 介護の周辺
披露宴が終わって、母の家に一旦戻った。
結婚式に出られなかった母方の祖母に、着物姿を見せるために。

そしてそのまま、着替えたら横浜へと、戻るつもりだった。
風邪気味のじいたんが、わたしを待ちわびている。

ところが、ふと気づくと、母の様子がおかしい。
家へ到着してから、ずっと、彼女は洗面所でぼんやりしている。
目を洗っては鏡を覗き込んで、不安げな様子。

聞くと、

「片目に、スモークが流れているみたいなの、おかしいわねぇ」

こういうとき。
彼女は、よほどのことでない限りじっと我慢するほうだ。
わたしが中学生の頃、
父の病が再発して看病が大変だった頃も、
我慢に我慢を重ねて、ついに自宅で倒れたのだった。


その場で、今夜横浜に戻るのは諦めようと決め、
母にはそしらぬ顔をして、二階へ。
自室に引き上げていた、母の夫をたたき起こす。

「ごめんなさい。母の様子が変なんです」

母の夫は飛び起きて、母に問診をして(彼は腕のいい内科医だ)、
すぐに、救急で眼科医のいるところを探し出し、
彼女を病院に連れて行った。

結果としては幸い、大したことではなかった。
目の老化によるもので、突然始まる症状なのだそうだ。
(但し、網膜はく離を起こす場合があるので、
 今回かかっておいて良かったらしい)

ここのところずっと、無理を重ねていたから、
妹の結婚式が無事終わったところで、疲れがどっと出たのだろう。

母に、伴侶が付いていてくれることの有り難みを痛感した。


*************


翌日の朝のこと。

彼女は、すこぶる上機嫌でわたしを起こした。

食堂に引っ張り出して、あれもこれも食べろと促したかと思えば
今度はウォーク・イン・クローゼットにわたしを引っ張り込んで

…ずいぶんとはしゃいでいる。

わたしは、内心、帰る時間を気にし始めていた。
―じいたんのことが気にかかって仕方がなかったからだ―
けれど、昨夜のこともあったので、
しばらく彼女の着せ替え人形になりながら、様子を伺っていた。

ひとしきりそうやって過ごして、満足したのか、
そのうち彼女は、「ちょっと」と、風呂場へ消えていった。

彼女の夫は、せっかくの晴れだから、と洗車に出かけていた。

家の中では、
年老いてすっかり暴君になった母方の祖母の声が、
きんきんと響き渡って、ひどく耳障りだ。

身体に自由が聞かない分、口が達者になるのは仕方ない。
それにしても、この人は、前からこんなに傍若無人な女性だったろうか?
母の夫でなくとも逃げ出したくなる。


…ちょっと気分転換しよう、と思い、
母方の祖父に声をかけた。

シガレットケースを持って、ダッフルコートを羽織り、
(家の中は禁煙なのだ)

玄関を出ようとした、そのとき。


母が、風呂場から、バスタオル一枚で飛び出してきた。



「たまちゃん、どうしたの?…帰っちゃうの?」


まるで母親においていかれる子供のような、
狼狽した、そして必死の表情。

いったい何をどう考えたらそういう結論に行き着くのか
(挨拶もしないで帰るほどわたしは無礼ではない)
と思う一方

そんな風に、何かを悟って、怯えている彼女を
心底、哀れだと思った。

「ママ、あたしちょっと一服してくるだけよ。
 挨拶もせずに、ママを置いていくわけないでしょ」

と、笑顔で答えてやると、
彼女は、露骨に安心した表情をして、

「置いていかないでね、送っていくんだから。
 玄関横のテラスに椅子があるから、使ってちょうだい」

と言いのこし、風呂場へと戻っていった。
その後姿には、
かつての母のあの美しかった裸体の面影は薄く、
抜けるような白い肌の上に、老いの陰が忍び寄っていた。


外へ出て、不意に、

顔を上にしか向けていられなくなった。
一滴も、こぼしてはならない、そう思った。


母がどうあろうと、
わたしの母への愛情は変わらないのに、
多分そのことに、母は一生、気づくことはないのだろう。

でもわたしには、どうしてやることもできない。

なんてかわいそうなんだろう、
と思う自分がいる

それでも、だからこそ、せめて
彼女を哀れんだりしてはいけない、と思う。
彼女の尊厳を傷つけてはならない、と思う。



こんな状態の母を、置いて、広島を出る。
あなご飯も、じいたんへの土産も、新幹線代も全部…母の用意だ。


彼女を置いて、
わたしは、また、
この土地から、出て行くのだ。

母が決して口にしない、心の痛み、願い、
その気持ちを、その腕を振り切って。


一服したあと、いつも携帯している便箋を取り出す。

母の夫に、手紙を書いて、
(このブログのように、推敲もなしだ)
彼しか開かない引き出しへそっと、しまった。

わたしにできるのは、これくらいのことしかないのだ。