また凶悪な事件…子供が犠牲になりましたね。
とにかく子供を取り巻く環境がどんどん安全から遠ざかっている。
子供は危険にさらされ、どこにでもいそうな普通の人が簡単に凶悪犯に変身する世の中だ
どうしてこんな風になっちゃったのかなぁ…。
瀬戸内寂聴さんが「戦後の核家族化のせい」だと言っていた。
昔は一つ屋根の下に何世代も住んでいて、年長のものを敬う気持ちがあり、子供はおじいちゃん、おばあちゃんが年を取って死んでいく姿を目の当たりにする。
目の前で家族が死んで、焼かれて、骨になるのを身をもって知ること、それが大事なんだと。
だけど今は病気になった年寄りは入院し、病院で死ぬのだ。
子供にとって年寄りは汚くて、ボケていて必要のない存在で、決して尊敬の対象になっていないのである。
と、いうようなことを寂聴さんは言っていた。
たしかに昔は子育ても家族の枠を越えて、地域ぐるみでしたよね。
悪いことしてる子がいればよその子でも叱ったし、道で会えば誰とでも挨拶するのが普通のことだった。
あそこの家は子供が何人で、職業は何で、奥さんは後妻で、旦那は酒乱だけど子供たちは勉強ができる…なんてことまで地域の人たちが知っていて、一緒に喜んだり心配したり。
だけど今は隣の人がどんな人がまるでわからなくて、自分の子供は自分で守らなくちゃいけないのだ。
それでますます人は個人主義になって、自分の意に沿わない相手は排除したくなるような気がする。
それが親でも子でも友達でも。
でも今更大家族主義や隣組には戻れないんじゃないだろうか?
昔の大家族が良かったかといえば、そこには壮絶なる嫁姑戦争が展開していただろうし、村八分もあって、きっと誰かの犠牲の上に「家族」や「地域」というバランスをとっていたに違いないと思うのです。
かくゆう私は超個人主義人間です。
親も子供もうっとうしいし、学校や地域のために骨身を削りたくない
奉仕の精神皆無
隣組だって、今はお祭りや町内の活動にに参加したりして積極的に地域に溶け込もうと努力すれば顔を知られて役員にされ、多大なる負担を負うのである。
自分の家族だけでなく学校や地域もよりよくしようと思うならば、今はそのくらいの覚悟が必要ということでしょう。
私が学校の役員なんかをずっとやってきたのは、そんな高尚な理想のためではなく、あくまで小心者の意志薄弱で断り切れなかっただけのことですから
で、この話題にはオチがありません。
私も寂聴さんの話は確かにそうだな~と思うけど、それは原因の分析であって、解決策じゃないと思うの。
だって今、実際に子供たちを危険から守ったり、凶悪犯罪を減らすためにすぐに大家族主義には戻れないでしょう。
でも自分さえよければ他はどうなってもいいという考えがこの危険な環境を作っているなら、超個人主義の私が言うのも何だけど、それぞれがちょっとだけ周りを思いやることは必要な気がします。
…と、今日はちょっと真面目に考えてみました