シビックが2022年で登場から50周年。
いろいろとあったけど、日本で名前が残ってることはよいこと。
ただ、大衆車だってのが今では、アッパーミドルとなってしまったでつ。
高価になり過ぎたでつ。
んが~ホンダスピリッツは継承されてるでつ。
そんなシビックでつが、このシビックこそが
世界のホンダへ飛躍させた車でつなぁ~
1960年代の半ば、日本はようやくモータリゼーションの時代を迎えつつあり、
それに伴って排出ガスによる公害も出始めてきたでつ。
運輸省は1966年7月、自動車の有害な排出ガスの排出基準を示し、同年9月以降の生産車については、
一酸化炭素を3%以下にすることが義務付けられたでつ。
翌1967年8月には公害対策基本法が、1968年には大気汚染防止法が施行されるに至ったでつ。
日本での本格的な自動車公害問題として注目を浴びたのは、1970年5月22日、東京・文京区医療生活共同組合医師団が、
住民の集団検診結果を基に、『東京都新宿区牛込柳町交差点付近に住む住民の血中鉛濃度が非常に高い』と発表。
ガソリン中の含有鉛が原因ではないかと注目されたでつ。
通商産業省は同年6月、自動車ガソリンによる鉛害の防止についての通達を出し、
ガソリンの加鉛量についての行政指導を行ったでつ。
また、同年7月18日には、東京・杉並区の立正高校グラウンドでの光化学スモッグ被害発生が社会問題となり、
排出ガス規制に対する要請は一段と高まっていったでつ。
これら一連の動きは、1971年7月の環境庁発足のきっかけともなったでつ。
一方、米国では1963年、連邦政府が全米を対象とした大気清浄法を制定し、
1965年には自動車汚染防止法が追加。
また、カリフォルニア州では大気資源局が、1966年から排出ガス規制を開始。
さらに、連邦政府も1966年3月20日付の官報によって、大気汚染防止の規則を公示。
1970年、公害対策環境行政を強力に推進するため、保健・教育・厚生省で行われていた環境行政を、
新設されたEPAに移管。
時を同じくして、上院議員のエドモンド・S・マスキー氏が、従来の大気清浄法を大幅に修正した
1970年大気清浄法、通称、マスキー法案を議会に提出。
同法案の内容は、非常に厳しく、5年後の1975年型車からは、従来車に比べ、CO・炭化水素は共に10分の1とし、
窒素酸化物は1976年型車から、従来車の10分の1にするというもの。
世界中の自動車メーカーは、この規制内容を達成することはほとんど不可能であると主張したでつが、
マスキー法は同1970年12月31日に発効。
大気汚染は何が原因で起きているのか解答が出なかったでつ。
当時はCOを測定する機器ぐらいしかない状況。
NOxやHCは何のことなのかという具合で、国内にはそれらを測定する機器が一般にはなかったでつ。
最初は、ガスクロマトグラフという機器を使い、注射器で排出ガスを吸って試薬を入れて、
発色反応を観ていたでつ。
この方法では、測定しているうちにエンジンの状態が変化し、測定結果が活かせないでつ。
というような状況で、測定方法や機器の研究から行わなければならなかったでつ。
ここで、本田さんは、4輪の最後発メーカーであるHondaにとって、
他社と技術的に同一ラインに立つ絶好のチャンスであると、新たなチャレンジとして、
AP研に大きな期待を寄せていたでつ。。
AP研がまず始めたことは、当時、他社が研究していた排出ガス対策の検証実験と排出ガスに
関する調査・研究を行うこと、そして研究所内への広報活動。
ガソリンエンジンやディーゼルエンジンの改善・改良はもとより、ロータリーエンジン、
ガスタービンなどの代替エンジン、さらに酸化触媒や再燃焼などの後処理装置、アルコールや
水素などの代替燃料と、さまざまな可能性の調査・研究が行われたでつ。。
APニュースには、国内や米国での排出ガス規制によって、自動車の設計、製造、整備など、
各段階における仕事のやり方などが今後、いかに変わっていくかなどに関する情報が
掲載されていたでつ。。
当時、排出ガス対策で、今あるガソリンエンジンをなくすということは、大変なこと。
自動車会社の生産設備などを全部捨てなくてはならないでつ。
そのような対応ができるわけがないでつ。
既存エンジンへの規制だから、そのエンジンで達成可能な規制であるべき。
だからこそ、既存のレシプロエンジンを改造しなきゃだめだと語り、
既存エンジンでの対応を主張。
AP研では、排出ガス対策は吸気と燃焼の制御を基本とし、
それでも、なお排出される有害物質を後処理装置で処理しようと考えたでつ。
当時の酸化触媒装置は、工場ばい煙などの固定施設に対応したシステムで、
ペレット状の触媒を筒に入れたものであり、触媒としてはマスキー法を十分クリアできる
レベルにはあったでつ。
だけど、自動車に装着した場合、振動で擦り減ったり、エンジンの燃焼具合では
触媒装置そのものが焼失するような状態で、耐久性に大きな問題があったでつ。
また、再燃焼装置は、燃焼室で燃え切らなかった不完全燃焼物を、
排気の途中で再燃焼させるもので、再燃焼を確実に行うためには、
濃い混合気を供給する必要があり、燃費が悪くなったでつ。
本田さんは、AP研のメンバーに、いろいろとアドバイス。
その中の主なものは、吸気の際に新機構のペーパーライザーによる燃料の蒸発促進や、
燃料噴射装置による適正吸気であったでつ。
研究メンバーは意見交換を行う中で、有害物質であるCO・HC・NOxの発生量を
同時に低減する方法としては、燃料を完全燃焼させる希薄燃焼しかないとの思いを
強くしたでつが、当時の技術レベルでは到底クリアできるとは思えなかったでつ。
だけど、本田さんがいつも言っている
「やらんで、何が分かるか」
という言葉を実践すべく、希薄燃焼の実現に向けた基礎研究が始まったでつ。
レシプロエンジンは、燃焼室に混合気を入れ圧縮させた後に点火し、
その爆発力でピストンを下げるという往復運動を、
クランクを使って回転運動に変えるもの。
ガソリンエンジンの理論混合比は、A/Fで、約14・7であるでつが、
理論混合比より希薄な混合気では燃焼が不安定になりやすいため、
通常では理論混合比より濃い混合気を使うでつ。
この濃い混合気では理論混合比で運転する場合よりも燃費が悪化し、
不完全燃焼による有害物質の生成が避けられなかったでつ。
低燃費を維持しつつ有害成分の発生を抑制するためには理論混合比、
あるいは、さらなる希薄な混合気による安定した燃焼を実現する技術が必要。
混合気の加熱、気筒内ガス流動の強化に始まり、点火エネルギーの増大、多点点火など、
あらゆる方策を考えてテストを行ったでつ。
しかし、どれも良好な結果を得ることはできなかったでつ。
試行錯誤が続く中、AP研の幹部たちは、先発メーカーと同じ研究をしていては
追い付くことが難しいと考え、他社がやっていない方法にトライすることとしたでつ。
そこで、従来のガソリンエンジンでは使われていない、
副燃焼室付エンジンで希薄燃焼ができないかと話し合ったでつ。
副燃焼室付エンジンは、既存のディーゼルエンジンの一部では実用化されていたでつ。
また、ガソリンエンジンとしては、ソ連などで粗悪燃料の利用や、燃費の改善としての
研究はされていたが、大気汚染対策の研究としてはされていないことから、
研究する価値があると判断。
副燃焼室付エンジンの研究が始まったでつ。
研究用エンジンとして、N600のエンジンを改造することとし、早速、改造設計を開始。
本田さんは、設計室にたびたび顔を出し、図面を観ては次々と指示を出したでつ。
構造図入れる点は、せっかく、図面をまとめようとしていたら、本田さんから指示が出て、
また引き直さなければならなかったでつ。
試作エンジンの完成を待てない本田さんは、うちにも、汎用エンジンで副室付エンジンが
あるじゃないか。
試作エンジンができるまでそれで研究したらどうかと助言。
汎用エンジン・GD90での先行テストが開始。
同エンジンは、V型2気筒の479cc・副燃焼室付ディーゼルエンジンで、手ごろな実験用エンジン。
メンバーはまず、副燃焼室に点火プラグとガソリン噴射ノズルを取り付け、圧縮比を8から16まで
調整できるように改造。
このGD90を改造したエンジンテストは1969年12月から翌年2月まで行われ、
テスト結果は、ガソリンエンジンでの希薄燃焼の可能性を示唆してくれたでつ。
1970年1月、N600改造試作エンジン(単気筒、300cc)が完成し、テストを開始。
副燃焼室の最適な条件出しなど、希薄燃焼の基礎研究が行われたでつ。
この研究の途中で本田から、この前開発した機械式燃料噴射装置を使ったらどうかとの
提案があり、燃料噴射式とキャブレター式の二つの燃料供給方式を研究することとなったでつ。
次に、排出ガス対策に不可欠の水冷エンジンでの研究が行われることとなったでつ。
しかし、Hondaにはテストに使える4輪車の水冷エンジンがなかったでつ。
早期に研究を行う必要があることから、日産の1600ccエンジンなどを使いテストが行われたでつ。
このテストでは他社のエンジンを使うことで、より汎用性のある研究データを収集できたという、
副次的効果も得られたでつ。
第4研究室と第5研究室を設け、要員も常時、100人を超える体制としたでつ。
N600の研究が終了し、有害成分が減少するめどが立った知らせを聞いた本田さんは、
低公害エンジンを公表すると宣言。
早速、新エンジンの名前を決めることとなり、技術研究所が集まり、公表直前に、
『CVCC・複合渦流調速燃焼』と命名。
この時点では、めどが立ったとはいえ研究が進行中。
当然、特許申請もまだ途中。
そんな中での公表ということで、名前から構造の一部でも分かるようなことがあってはならないし、
燃料供給方式もまだ決まってなかったのでユニークでパンチの効いた名前を考えたでつ。
C(Compound)は、エンジン機構として、燃焼室が主燃焼室と副燃焼室の二つがあることから、
『複合・複式』を表すでつ。
V(Vortex)は、副燃焼室で燃焼した火炎がトーチノズルを通して主燃焼室に噴流となって噴出すると、
主燃焼室内に渦流を起こし、エンジンの燃焼速度を早める作用をすることから、『渦流』を表すでつ。
CC(Controlled Combustion)は、燃焼速度を適正コントロールすることから、『調速燃焼』を表すでつ。
本田さんは君たちに聞いても、もうこれで完成したとはいつまでたっても言うはずがない。
それを待っていたのでは会社がつぶれるとおっしゃって、めどが立った段階での公表に
踏み切ったでつ。
Honda流に言う、2階に上げて梯子を外す式で、CVCCの公表による従業員の士気高揚と、
研究開発の進展を促したものだと理解。
1971年2月12日、本田は東京・大手町の経団連会館で記者会見を行い、
1975年の排出ガス規制値を満足させるレシプロエンジン(CVCC・複合渦流調速燃焼方式)開発のめどが
立ったので、1973年から商品化すると発表。
このエンジンでマスキー法クリアのめどが立ったことを示唆したでつ。
同時に従業員に向けても2月26日発行のホンダ社報臨時号で、CVCC技術でマスキー法を
達成できる見通しであると知らせたでつ。
しかし、残された課題は多く、まず第一に副燃焼室付エンジンとしての技術概念、
実用車エンジンとしての有効性を実証しなければならなかったでつ。
当時開発中の小型乗用車・シビックへの搭載を前提に、エンジンの排気量を決定することとしたものの、
過去のシミュレーション結果やデータから、マスキー法をクリアするためには、
負荷のほぼ全域をA/F=20付近で運転しなければならないことから、2000ccのCVCCエンジンを
開発する必要があるとの判断がなされたでつ。
エンジンの開発記号は"993"と称され、企画開始から2カ月という短期間で、試作エンジン1号機が完成。
その後、埼玉製作所の協力を得て、100台が製作され、ベンチでの基本性能テスト後、
日産・サニーのフレームに搭載し、シャーシダイナモ上のテストに入ったでつ。
副燃焼室方式による希薄燃焼では、当初予測していた通り、CO・NOx・HCの減少は図られたでつが、
HCについてはマスキー法1975年度規制値には及ばなかったでつ。
だけど、その後の排気系の研究と、主・副燃焼室の組み合わせや燃料の供給方法で、
排出ガスの保持熱により排気管内での酸化反応が起きて、HCの低減を図ることができたでつ。
これにより酸化触媒装置なしで、マスキー法規制値をクリアできるめどが立ったでつ。
米国EPAでは、5万マイル走行後での規制値達成を義務付けてて、あらゆる条件下でも
適正な混合気が供給できる燃料供給装置、排気管内でより安定した酸化反応を起こさせる
構造と耐久性の研究が、引き続きなされたでつ。
1972年10月11日は、Hondaにとって記念すべき日となったでつ。
東京・赤坂プリンスホテルにおいて、CVCCエンジンの全容が国内外のジャーナリストに
発表されたでつ。
会場は、低公害エンジンを印象付けるためにブルーのパネルで飾られ、
澄み切った青空が表現されたでつ。
この発表会には、社長の本田さんをはじめとする各役員、開発担当者が出席し、CVCCエンジンについて、
その開発過程やエンジン特性、燃焼理論が紹介。
同エンジンの特長として挙げられたものは、
①従来のレシプロエンジン本体をそのまま使うことができるため、現在の生産設備が活かせる。
また、シリンダーヘッドから上を交換するだけで済むので、他メーカーのエンジンに応用でき、
広く低公害化が図れるでつ。
②エンジン内部できれいな燃焼をするため、触媒などによる排出ガス浄化装置は不要で、
2次公害の恐れがないでつ。
などであり、本田さんが開発当初から目指していたエンジンになったことを明らかにしたでつ。
この時点で、CVCC方式の原理に関する総合特許、ならびに周辺技術を含めて、
230件の特許出願が既になされていたでつ。
他社にも良い研究はあったけど、それを実現する技術がなかったでつ。
Hondaは、全部自分たちで考え、研究し、その技術を確立したのですと、
本田さんの教えである『自前技術』の大切さでつ。
この発表は、国内外に大きな反響を呼んだでつ。
米国EPAからは、早速、CVCC搭載車の提出要請があり、ミシガン州アンナーバーにあるEPAの
エミッション・ラボに3台が送られたでつ。
3台のうち2台は1万5000マイル走行車、もう1台は5万マイル耐久テスト完了車が持ち込まれたでつ。
立会いテストは1972年12月7日から14日まで行われ、1975年規制のマスキー法合格第1号となったでつ。
テストでは、日産のサニーにHondaのCVCCエンジンを積んでデータを採ったでつ。
まだ、HondaにはCVCCエンジンを積める大きさの車体がなかったでつ。
重量合わせのために、サンドバッグを積み込んだのですと、アンナーバーで
現地責任者を務めていたでつ。
当時Hondaでは、シビックを7月21日に発表したばかりで、やむなく、
テスト時から使っていた他社の車体での適合テストとなったでつ。
本田さんは、かねてから公害対策技術は公開する方針を表明してて、
CVCC技術は他の自動車メーカーにも公開。
これに呼応して、トヨタ自動車からの問い合わせがあったでつ。
トヨタの技術者が技術研究所へ来所し、クルマの試乗、技術内容の説明などを
受けたでつ。
トヨタはCVCC技術を評価し、同年12月13日、技術供与に関する調印が行われたでつ。
トヨタが最初というのは、CVCCにとっても、Hondaにとってもプラスが大きかったでつ。
トヨタに技術供与をしたと新聞に出たら、すぐに国内や米国メーカーからも引き合いが
ありましたからねと、技術供与に関する対外交渉の実務責任者であったでつ。
さすがトヨタ。
自社開発できなければ、プライドもなく、下るでつなぁ~
その後、フォード・クライスラー・いすゞの各メーカーにも技術供与されたがでつ、
この間、技術研究所には世界の主要自動車メーカーの技術者が続々と来訪。
1973年3月19日、EPAの公聴会がワシントンで開催されたでつ。
これはマスキー法を予定通り実施するか否かを決めるため、
自動車メーカーからの証言を聞くものであったでつ。
この公聴会で、1975年規制を達成可能と証言したのは、Hondaとマツダだけ。
公聴会で、Hondaは本当に1975年規制適合車ができるのか。
できるのならば、HondaはGMなどにCVCCエンジンを供給できるのかと言われたでつ。
Hondaは自分のところが手いっぱいで、GMに供給できる力は、あのころはなかったでつ。
公聴会の結果、マスキー法の実施は延期されることに決定。
これがだめだったら、4輪市場からの撤退も考えなければならないという背水の陣で
開発されたシビックが、1972年7月12日に国内で発売。
同車の市場評価は高く、1973年度モーターファン誌主催のカー・オブ・ザ・イヤーに輝いたでつ。
翌1973年12月13日には、4ドアのシビック・CVCC(1500cc)が発売され、
シビックの名前を国内市場で不動のものとしたでつ。
米国市場へのシビック・CVCCエンジン搭載車は1975年モデルから輸出。
輸出に当たっては、EPAからマスキー法1975年規制適合認定を受けなければならなかったでつ。
Hondaは1972年にCVCCエンジン単体でマスキー法の適合審査に合格していたでつが、
完成車としての審査は受けていなかったからでつ。
前年の1974年のシビックが、国内でのエミッション審査では
何ら問題がなかったでつが、EPAでは認定が取れなかったでつが、後に合格したでつ。
1974年春、マスキー法施行初年度となるため、技術研究所ではEPA認定プロジェクトが組織。
同プロジェクトが最初に取り組んだのは、1974年モデルが認定審査で苦労した原因の追及。
技術研究所と鈴鹿製作所、米国EPAのアンナーバー認定ラボを含めて、なぜ日・米で
このような違いが出るのか、徹底的に比較し相関関係の調査が行われたでつ。
その結果、気圧、シャーシダイナモ、運転状況の3つの点で違いがあることが分かったでつ。
標高差が約350mあるため、検査時の気圧の違いによる影響が出ていたでつ。
シャーシダイナモはメーカー・機種は同じだが、Hondaのシャーシダイナモは、
小さなクルマの検査がしやすいように前後ローラ間のスパンが改造され、短くなっていたでつ。
運転状況は、米国と日本のドライバーでは、アクセル操作に大きな差があることによるもの。
調査結果を基に、EPAの測定条件を設定し、それを、クリアできる仕様であるか否かを確認し、
量産車への反映を確認。
1974年11月、シビック・CVCC1975年モデルがEPAに持ち込まれたでつ。
テストが終わり、コンピュータが計算をして、その結果が出てくるまでは、大学の入試発表を
待つような気分。
審査終了後、EPAの検査官は「コングラチュレーション」と、握手を求めてきたでつ。
溝口や福井は無事に認定が取れただけで喜んでいたが、EPAの検査官は燃費が1番であると
伝えたでつ。
われわれはエミッションばかりに気を取られていて、燃費のことは全く考えていなかったでつ。
だけど、EPAにとっては、エミッションは当たり前で、将来を考えたら燃費だということ。
シビック・CVCCは年を追うごとに燃費が向上し、1978年モデルまでの4年連続で、
米国での燃費1位を獲得。
『シビックの良さは燃費』、ということが米国のお客さまの間で定着。
また、燃料を選ばない低公害車ということでも評価を受けたでつ。
1975年、マスキー法が実施された。他社メーカーのクルマは酸化触媒装置を装着しているため、
無鉛ガソリンしか入れられなかったでつ。
鉛が酸化触媒装置に影響を与え、その機能を低下させるからでつ。
EPAの型式認定が終わり、燃費テストのためレンタカーを借りて、カリフォルニアからネバダに向かったでつ。
クルマは最新型のフォード車で、途中でガソリンを補給しようとスタンドに寄ったところ、
給油してくれなかったでつ。
そのスタンドには無鉛ガソリンが置いてなかったでつ。
砂漠でガス欠になりますから入れてくださいと、スタンドのおやじさんに頼みましたが、
罰金を取られるから駄目の一言。
次のガソリンスタンドに幸いにして、無鉛ガソリンがありましたから助かりましたというような
トラブルが、全米で起こったでつ。
罰金の他にも有鉛ガソリンの混入を避けるための対応がなされていたでつ。
酸化触媒装置を装着した無鉛ガソリン専用車にはクルマの給油口を小さくさせ、
ガソリンスタンドには無鉛ガソリンの給油ノズルを細くしたものを使用。
しかし、無鉛ガソリンの製造が間に合わなくて、当初は、
ごく一部のスタンドでしか給油できなかったでつ。
CVCCエンジン発表 / 1972
CVCCに込められたHondaの理念
Hondaは、マン島TTレースへの出場宣言以来、高回転・高出力のエンジンを絶えず追求。
このようなHondaのエンジン技術の積み重ねを基に、低公害エンジン技術の確立に向けて、
マスキー法への対応は企業本位の問題ではなく、自動車産業の社会的責任上なすべき義務で
あるととらえ、Hondaは自らの手でCVCCの開発に取り組んだでつ。
現在では、三元触媒装置・電子式燃料噴射装置などの進化により、CVCCシステムの
必要はなくなったでつ。
1970年代の初期の技術力で、レシプロエンジンの改良によって規制適合を行い、
他の多くのメーカーが技術的に不可能としていた問題にいち早く対応。
Hondaは自動車メーカーとしての社会的責任を果たすとともに、早期の排出ガス対策技術の向上を、
業界全体に投げ掛けたでつ。
CVCCはHondaの総力を結集して開発に当たったものであり、
自動車メーカーとしての地位を確固たるものとした技術。
特にアメリカでは、既に得ていた"2輪のHonda"としての名声に加え、4輪でもHondaの知名度を高め、
現在の強力な販売網の基本が、その時に出来上がったでつ。
CVCCエンジンには、現在も追求されている希薄燃焼方式の考え方がいち早く採り入れられていたでつ。
その考え方は今もLEVエンジンなどに脈々と受け継がれているでつ。
ホンダのエンジンは、やっぱり最高でつ。
だけど、シビックもう100万コストダウンしてくれるといいのと
セダンも復活させてほしいでつ。
アメリカンサイズではなく、日本にあったシビックを出してほしいでつ。
そりが出来るホンダ技術だと思うでつ。
シビックはいい車。
いい車を作ってもセールスも考えた車作りも期待したいでつ。