Bouddha me bouda,
Le cruel Bouddha...
♪ 仏陀はわたしに 仏頂面をした
つれない仏陀
ジュール・クラルティ『仏陀』(Jules Claretie, Bouddha 1888 Gallica http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k68967w)は19世紀末の、パリと戦地トンキン(ベトナム北部の古名)を舞台とする。
エドモンEdmond de Laurièreはles Turcosと呼ばれるアルジェリア人部隊を率いる士官。
アジアから帰還し、オペラ座に近い将校クラブのバルコニーで夜景を楽しみながら友人と話す。肌は日に焼け、銀のメダルは激戦と勲功を物語る。
エドモンが外地で猛烈に渇きを覚えたのは、パリのような劇場がないことだった。オペラ座界隈の空気、ざわめき、光、パリのすべてがこの一角にある!(?Tout Paris dans un coin de Paris ! ? p.12)
どこからかピアノに合わせ聞こえてくる唄に、思わず身を起こした。
三年前、新作座le Théatre des NouveautésのオペレッタLa Petite Mousméeで、アントニアAntonia Boulard演ずる横浜の娘が歌った「仏陀の唄」l’air de Bouddhaだった。
「新作座」と訳したのは写原さんの「十分間の停車」初演 1905年9月8日(金) ちょうど100年前のフランス雑誌瞥見 に倣う。現在の劇場Théâtre des Nouveautés - 24 boulevard Poissonnière - 75009 Parisは1921年にできた4代目。
この小説の「新作座」は1878年から1911年までle boulevard des Italiensにあり、フェイドーFeydeau作の戯曲が演じられ人気を博したという。
http://www.evene.fr/culture/lieux/theatre-des-nouveautes-345.php
日本の公使ヤマトの協力で制作されたオペレッタ、仏陀を演ずる相手役に、日本娘に扮したアントニアが恋をする。ジャポニスムの時代、実際にそんな作品が上演されても不思議ではなかった。アントニアは自宅のサロンまで日本風にしている。
『仏陀』は、ヴェイエルガンスの『私は作家だ』(1989)にほぼ百年先行する。作者はオペレッタの内容まで詰めた書き方をしていない。横浜の娘が仏陀を愛する珍妙さなど、気にしなかったのだろうか。挿絵は本作品から。
1850年代後半、蚕病でリヨンの絹織物産業は壊滅的打撃を受けた。59年に横浜が開港すると、横浜・リヨン間に蚕と生糸貿易の「新しいシルクロード」が生まれる。1864年に横浜の外国人居留者の5分の1はフランス人だった。(クリスチャン・ポラック『絹と光―知られざる日仏交流一〇〇年の歴史』アシェット婦人画報社)
『絹と光』には、日本のいたずら小僧が仏像を汚し罰で全身が痛くなるが、仏様の慈悲で助かりよい子になりました、というImagerie d'Epinal誌掲載の漫画が収録されている。
オペレッタの仏陀も、最初は不動の仏像で、娘が恋し、歌いかけ、やがて動き、歌い出す、そんなふうに思い描かれたのかもしれない。