18日から21日の沖縄訪問が終わりました。
今回は読谷村在住のSさんに全面的にお世話になり、
今までの訪問とは一味もふた味も異なる体験をさせていただきました。
(本来本名を書くのが一般的礼儀ですがここは日本、事情が異なり、
情報が一人歩きするのを避けるため仮りの名前で失礼します)。
今日は最も心に残っていることの一つ、
チビチリガマの今の姿について書きたいと思います。
写真①・・・世代を結ぶ平和の像。
1987年4月2日(4月2日は集団自決日)、
遺族たちが彫刻家金城実さんと共同で製作・設置したものです。
この像は設置半年後、襲撃され破壊されました。
遺族たちは
「チビチリガマの犠牲者たちは二度殺された」
と悲憤慷慨に暮れましたが、その後再建しました。
しかし、昨年9月の少年たちの襲撃は、
いったい何度目の殺害なのでしょう。
「犠牲者づらするやつが一番エライのが日本だ」
とネトウヨが平然と投稿する今の日本にあって、
戦争の犠牲者たちは今も殺され続けている、と私は感じます。
写真②・・・今年1月に設置された野仏たち。
(ガマを損壊した少年たちが金城さんの指導下製作したもの。
全部で12体あるそうです)。
お世話になったSさんは金城実さんと懇意の方です。
Sさんが金城さんのお宅に連れて行ってくださるというので
私はどうしても、この野仏と少年たちのことを
金城さんにお聞きしたいと思いました。
被害者に寄り添い、平和の像モニュメント製作の指揮を取った金城実さんは
なんと今、
ガマを荒らした16歳から19歳の4少年の保護司なのだそうです。
「法務省官僚から少年たちの保護司になってはどうかと言われた時、
なぜ俺が、
被害者遺族の側に立ち、
モニュメントを共同制作したこの俺が、
よりもよって加害者のクソガキの味方をするのか、
加害者の社会復帰教育に加担して更正させなあかんのか。
この申し出をヌケヌケと受けて立つべきか。
そういう思いはあったよ。」
と、金城さんは語ります。
「俺より20歳も若い遺族会会長の与那覇さんが
『先生、引き受けたら良いんじゃないですか。
沖縄の未来を担っていくのは若者たちだから、
この子どもたちを引き受けたらいいんじゃないですか。』
と言ったんだ。」
これが保護司になったきっかけだったと。
さらに、
少年たちを引き受けた金城実さんの心の柱には
「恨(はん)を解き、浄土を生きる」があったのでしょう。
金城実さんは2007年に親鸞像を作りました。
「恨みつらみは個人の世界に属するものだ。
恨(はん)とは個人的な悲劇や恨みを語るものではない。
民族としての恨(はん)を解き放ち、
権力と闘うものが現世浄土である。」と語る金城さんの声は
穏やかで、しかも力がこもっていました。
保護司となって、少年たちに
「野仏を作ろう。
折鶴を引きちぎったり、遺品を壊したりして、
死者を鞭打ったおまえたちが、
その重たい罪を背負い、
死者に向き合い、繋がろうとしたら
その険しい道をつなげる助けをするのが野仏だ。
野仏を彫ることによって死者と繋がることができるかも知らん。
俺は知らん。あとはお前ら彫るものの責任だ。」
と言って製作に取り組ませたそうです。
ある少年には恋人がいて、
金城さんが彼に
「恋人はお前の行為に何て言った?」
と聞くと、
「殴られました・・・・・・。」と。
金城さんのお話を聞いて、
(子どもだものな。切り捨てたらアカンな)
と自然に私も思えました。
育てる大人の責任もあるのですから。
ー関連記事ー
少年ら謝罪「沖縄戦、学びたい」 読谷チビチリガマ損壊
「歴史を知らず大きなことを犯した」 チビチリガマ損壊4少年 仏像12体設置
この少年たちにとって人生で一番大きな出来事になるのかもしれません。
金城さんの苦悩と大きな愛とで包まれて、人間として育ってほしい・・・・・未熟な私が言えた言葉ではありませんが。少年たちの未来が明るく開けますように。
一年半後の金城実さんの記事の中に、金城さんが少年たちを引き受けることになった気持ちの推移が書かれています。
真っ直ぐな心を持って人生を歩いてきた金城さんならではの人間の見つめ方に(そうだな、本当にそうだな)と思わされます。
下は記事の一部です。
「少年らと付き合って自分も勉強した。背景を知ることにしたんだ。彼らは何者や、と」
「ある1人の少年が気になっていた。親に育児放棄されて育っていた。1年後、全員に反省文を書かせたところ、よいレポートを書く少年たちのなかで、その少年のレポートは誠意が感じられなかった。」
「彼らを見ていると悲しい。これでいいのかなと、俺が深みにはまってしまった。保護観察官から連絡はないが、保護司をやめたつもりはない。これは、宿題だ」
「少年たちを知れば知るほど、(わからない世界を生きとる)と金城さんは感じた。」
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【集団自決の遺構を荒らしたのは少年だった。戦後生まれが当たり前になった沖縄の苦悩】2019年8/5(月) 8:00配信 〈週間女性PRIME〉https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190805-00015730-jprime-soci&p=2
「恨(ハン)」という思想(あるいは情念)は、金城さんが本土で何年も暮らす中で個人的に出会い、深めてきたもののようです。他の沖縄県民の方々から聞いたことはありません。
沖縄語(うちなーぐち)に、
「胆苦りさ(ちむぐりさ):他人の苦しみや哀しみを知った時に、自分の肝(心)もその人と同じように苦しくなる」、
「わじわじーする:身も焦がすような怒りに震える」
など、感情を表す深い言葉がありますね。「恨(はん)」は元来朝鮮半島の人々の痛苦、悲哀、無常観を表す言語ですが、苦しみを強いられ続けてきた人々は、その気持ちを表す言葉を持っている、というか持たざるを得ないのですね。
ヤマトにも「怨」がありますが、ニュアンスが違う感じがします。