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毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「日本僑報社と段躍中さん」 2013年9月18日(水) No.751  

2013-09-18 19:58:00 | 中日(日中)関係
日本僑報社という出版社、
そして段躍中さんの名前はご存知だろうか。

「中国人の日本語作文コンクール」主催の
日中交流研究所の母体となっている出版社であり、そこの設立者である。
中国の日本語学科の学生たちは、
このコンクールで、もし最優秀賞に選ばれたら、一週間日本に行ける。
なので、私も
「作文はちょっと・・・」
と尻込みする学生たちに、とにかく書かせ、3年間応募を続けてきた。
(たった一週間?それぐらい自分で来れば?)と不思議に思われるかも知れない。
しかし、それができるくらいなら、とっくに皆やっている。
まず、保証人を見つけなければならない
次に、物価高の日本に持っていくお金の心配
この2つをクリアできる学生はほとんどいない(すくなくとも江西財経大学には)。

このコンクールや、日中交流、そして日本僑報社に対する冷ややかな声もあり、
また、コンクールの運営資金繰りにも段さんは四苦八苦しているという。
それでも、なぜ、彼は頑張り続けるのだろうか。

段躍中さんが、中国での新聞記者生活をやめて、
日本に渡ったのは1991年「妻が日本に留学して寂しくて・・・」
という理由だそうだから、人生とは分からないものだ。
「若い時からバリバリの体制派で、毛沢東と同じ湖南省出身なのが誇りだった。」
という段さんが、「妻恋し」の思いを募らせて日本に来たにしても、
それに至る途上には、来日2年前(1989年)のいわゆる
てんんあんんもんんじけんん」(註1)があった。

『北京のてんんあんんもんんひろんば(註2)は、
民主化を求める学生や市民で溢れかえっていた。
座り込みを続ける彼らの声に耳を傾ける。が、それが紙面を飾ることはなかった。
記者が伝えたいことを伝えられない新聞とは…。夜の編集局で同僚と泣いた。
軍が発砲を開始したのは、数日後だ。記者を辞めて日本に渡る決心がついたのは、
そんな経験があったからかもしれない。』

(読売新聞2008/4/6梅村雅裕記者のインタビューに答えて)


明日に続く

(註1・2)下線部は2文字おきに余分に「ん」を入れています。万が一に備えて。
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「私は私を好きな人が好きだ」 2013年9月15日(日) No.748

2013-09-15 20:50:18 | 中日(日中)関係
「私はどんな人が好きかって?それははっきりしているわ。
私を好いてくれる人が好きやねん。」
これは我が師匠と仰ぐ亡きスエミ姐さんの言葉だ。

今、中国人と日本人の多くはお互い、会ったこともない相手に向かって
「あんたなんか、だ~いっきらい!」
と言い合っている。
韓国と日本も同様だ。

3年前に中国に来たばかりの頃、
ある学生が言った。
「日本人は中国人が嫌いなんですよね」と。
(イヤイヤ、それ、違うんちゃう?)と私は思い、
「日本では、中国人の方が『日本人なんか皆死ねばいいのに』と思っていると伝わっているよ。」と答えた。

3年後の現在、
日本人の中に、とても攻撃的な言辞を弄する人が目立つ。
しかし、そういう人たちも、
元々は自分たちから仕掛けたのではないと信じている節がある。
元在特会の活動をしていた人の話で、
「ずっと日本は韓国や中国からいわれのない攻撃を受けてきた。
なぜ自分ばかりが黙って我慢しなければならないのか。
悔しかった」
というのを記事で読んだ。

「いわれがない」かどうかは別として
要するに、
相手が自分を好きでいてくれたら、自分も相手が好きになるし、
相手に嫌われていると思ったら、自分だって相手を嫌いになる。
お互いの国で、
(相手が嫌いなんだからこっちだって!)
と思っている人が多いようなのである。

実際に出会い、話すと、何のこだわりもなく仲良くなれるのに、
誰かに聞いたり、間接的に伝わると
変なズレが生じてしまう。
簡単な構造なのに、いつまでもそれが越えられない。
これって情けなさすぎでは・・・。
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「『他国の長所を学ぶのが日本人の特徴』と中国の教科書に…」2013年9月2日(月)No.736

2013-09-02 10:00:01 | 中日(日中)関係
3年間、南京師範大学出版社の「最新商務日語教程」(羅萃萃・阿部誠編)
という教科書を使って、ビジネス日本語を教えてきた。
その中に『他山の石』というコラムがあり、冒頭に
日本に行った多くの人が、日本人の生活の国際色豊かなことに驚く。」
と書いてある。
確かに、ここ南昌市でインドやフランス、イタリア、ロシア、トルコ料理などの店には
未だ遭遇したことがないが、大阪の我が家の近所を例にとっても、
少し歩けば色々な国のレストランが随所に見られる。

教科書の文はさらに続く。
「一つにこだわらず、いろいろなものにトライして学ぼうという考え方が
日本人の特徴の一つである。」
「日本には『他山の石』という諺がある。
他人の言葉や行いがたとえ完璧でなくても、
自分の才能や人格を高める助けになるものだというこの諺は、
日本人の特徴をよく反映している。
日本は島国で資源が乏しい国なので、
昔から自然資源の開発より、人間の知力を開発することが何より重要であると
誰もが考えている。
そして、他国の長所を学ぶことが知力を開発する上で、
最も重要な手段だと考えられている。」


そう言われたら(いや~、それほどでも~)と照れつつも、
中国の教科書に日本がこのように紹介されていることの意義は大きいと思う。
多くの日本語学科の学生がこの教科書で学んでいるのだから。 

小澤征爾の桐朋学園時代の斉藤先生という人が、
「ドイツ人の音楽をドイツ人はドイツ音楽としてしか受け止めないが、
日本人は外国の音楽としてドイツ音楽を必死で勉強する。
イタリアやフランスの音楽についてもそうだ。
それが日本人のいい所だ。」

と語ったという。

そうだ、日本人は昔から学び上手だったんだ。
四方を海に囲まれている地形は、日本人をして、
海の向こうの未知なるものへの憧れを形成させたのかも知れない。
心を開いて謙虚に海外の文化を吸収しつつ、
独自の日本文化として練り直し、形作ってきた日本人のスタンスはなかなかいいじゃないか。

昨今の日本の人種差別的「唯我独尊」排外主義の風潮は、
日本人の伝統的、開放的立ち位置と相容れない。
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「友好と平和の灯を若者に託して」 2013年8月29日(木)No.733

2013-08-29 18:13:08 | 中日(日中)関係
サウナのような南昌で、去り逝く夏休みを振り返っている。
今夏の最大の出来事は、
何と言っても中国から劉思婷さんという若者を招待したことだ。
たった一人しか来てもらえない微力な自分だが、
どんな小さいことでも、一人ひとりできることを続けることが大事。
そして、こんなささやかな取り組みでも、
多くの友人知人、そして身内の協力なしには決して実現させることはできなかった。
庶民パワー全開の取り組みでもあったのである。
少し前に書いたものだが、
劉さん招待に関わって助けてくれた全ての皆さんに改めてお礼の言葉を掲載させていただく。


『劉思婷さんが、関空から広州の大学へと帰っていきました。
彼女は来日以前から、親日的というか、
物事をできるだけ公平に、多面的に見ようとこころがける若者ですが、
2週間弱の滞在中、一般の観光客とは違って、地元の人たちと直に交流したことで、
彼女自身の今までの日本並びに日本人観を見直し、
さらに補強深化できたことと思います。
決して社会的事象に無関心ではない彼女ですが、
今まで日本が中国にODA援助をしていたことも知らず、
今回、日本の若者たちと交流する中で初めて聞いて驚いたという事実が物語るように、
中国人民は、ある特定の分野の事柄について知る権利を持ちません。
国家がそれをコントロールしているからです。
(今の時代、インターネットで調べればいくらでも知ることができるじゃないか)
と不思議に思う日本人が多くいます。
私も中国に来たばかりの時はそう感じていました。
しかし、全く知らないということは、疑うことすらできないのです。
私たちも同様です。
疑う視点がないときに、調査しようとか検証しようとか思いつかないでしょう。
これが両国民の間に横たわる大きい困難の一つです。
しかし政府が変わるのを座して待つことは、
あまりに消極的に過ぎると考える両国民はたくさん居ます。
そして彼女ら・彼らは長年自分にできることを実行してきました。
それが現在、両国民が決定的に憎み合うのを阻止する力になっています。

劉思婷さんは、将来、中国でそうした力を発揮してくれる人です。
彼女は教師になる希望を持っています。
ものごとを冷静に、客観的に見る視点を中国の子どもたちに教えてくれると信じています。
彼女の子どもが、また日本に遊びに来る日がきっと来るでしょう。
寛大に優しく彼女に接してくれた日本の全ての皆さんに感謝します。』
  ーブルーはーと
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「今さらながら『一衣帯水』の日中両国」 2013年8月6日(火)No.722

2013-08-06 15:20:09 | 中日(日中)関係
広島に原爆が落とされた時から68年経った。
記念式典5万人が参加。


朝寝坊して8時半過ぎ、慌ててテレビをつけた。NHKを含めどのチャンネルも式典中継をしていなかった。劉思婷さんに見せてあげようと思ったのに。
NHKラジオをつけた。式典会場から被爆者の女性にインタビューしていた(ふう~)。
「リベンジでなく、平和こそが最も大切です。核兵器による被害者も、福島原発の核事故の被害者も同じです。核は廃絶すべきです。」
という言葉に心から賛同。
式典では、なんと安倍総理も「核兵器廃絶」と公言したそうだ。
あれ?常日頃の態度と違う。しかし、ちゃんと公言したのだから責任持って、その言葉を守ってもらいたい。今年4月24日、スイスなど80か国が賛同して核兵器の非人道性を訴える共同声明が発表されたが、
被爆国日本は強い要請を受けたにも関わらずそれに署名しなかった。
まず、その言っていることとやっていることの矛盾を正すべきである。

劉思婷さんと京都、奈良を巡って思ったのは、
つくづく日本と中国は昔むかしから平和的に交流を続けてきたことだ。
例えば、唐招提寺の蓮。
鑑真和上縁の寺では、今も中国から伝わった様々な蓮が手厚く栽培保存されていた。

孫文が革命資金をカンパしてくれた日本人に感謝して送った蓮の種から育った蓮。


西湖原産の蓮


中国古代の蓮


中日友誼蓮


中日友好♡蓮の精
平和がだいじ。戦争アカン。
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「劉思婷、日本の若者と大いに語る」 2013年8月5日(月) No.721

2013-08-05 13:54:21 | 中日(日中)関係
劉さん後半のスケジュールも大詰めを迎えている。
8月1日から最終日7日までの日程はざっとこんな感じで過ぎつつある。

8/1 〈午前・午後〉NPO法人「まいどイン尼崎」(障がい者の自立支援団体)作業所見学体験 
〈夜〉「まいどイン」メンバーの「劉思婷さん歓迎:流しそうめん・たこ焼き交流会」、民家1泊

8/2 〈午前・午後〉川西能勢郊外の森宅訪問交流 財大生後輩黄君と再会 

8/3 〈午前〉研究資料収集保存
 〈午後・夜〉尼崎園田のお祭り出店手伝い体験

8/4 〈午前〉研究資料保存 
〈午後〉尼崎若者との交流 
〈夜〉十三地域帰国者の友女子会参加

8/5 〈午前〉研究資料保存 
〈午後〉尼崎FMラジオ出演 
〈夜〉回転寿司

8/6 〈昼間〉自由 
〈夜〉十三の享子宅で歓談交流 

8/7 〈午後〉関空から広州へ帰国

いずれの日も、私や周囲の友人・知人・身内が、彼女に対して精一杯のもてなしとして
計画・実行してくれた(くれる)ものばかり。
非常に盛りだくさんだが、思婷さんも
「毎日、本当におもしろいです!」
と、積極的だ。

昨日の午後、地元尼崎~神戸在中の20代、30代の若者たちが、
山田さんの家に集まり、山田さんの手料理をいただきながら、
尖閣問題から食の安全まで、あれこれ聞きあい、話し合った。
集まったのは、
「やばい」(註)野菜作りを目指す人、
障害者の自立を支援するNPO法人スタッフ、
車のディーラー転じて今は農場で働く人、
塾の営業スタッフ、
半分ミュージシャン、
弁護士など、バラエティに富む顔ぶれで、
共通しているのは自分の考えを臆せず、正直に、
言葉で表現しようとする若者達だというところか。

「中国の人は謝らないって本当?」
「農薬について中国の生産者、消費者はそれぞれどんな意識をもっているの?」
「三国志で誰が一番好き?」
など、日本側?からの質問があり、そして、劉さんも
「日本の若者はどうしてそんなにボランティアが多いの?
中国とはずいぶん違うけど」
といったように、始めは両者の質疑応答風な流れだったが、
そのうち、
話題が「尖閣問題」「日中戦争」「戦争の謝罪」「ODA」などになると、
日本・中国に関係なく、話が白熱した。

「私は戦争について謝らない。だって、自分がしたことじゃないから。国家と私は関係ない」
と言いつつ、
「尖閣諸島は日本国家のものと思う。日本はもっと主張すべきだ」
という人の意見に対して、だれかが、
「遺産に正と負があったとき、正の遺産だけもらって、
負の遺産は引き受けないと言うのは無責任だ」と反論し、
何人かがなるほど、と頷いた。

日本がたいへんな額のODA援助を中国にしていることについて、
ミュージシャンは、
「GDPが世界第二位の国に、第三位の日本が何でいつまでも援助しなければならないのか。
日本の生活困窮者対策にそのお金を使うべきだという意見の人は多い。」
と問題提起をした。
その後、議論は
「周恩来首相が日本から戦争賠償金を取らない、と言ったことを日本人は忘れてはならない。
あの時、中国だってそんなにお金もなくて人民が困窮していた中で、
中国は寛大な申し出をしてくれたのだ」
「だからそのお詫びの意味で日本は巨額のODA援助を続けていた」
「しかし、それは損害賠償ではない。それはそれ、これはこれ。
政府開発援助は経済後進国への援助だ。意味をすり替えてはいけない。」
「ODAによって利を得たのは結局多くの日系企業だった。
要するに援助と言う名の経済進出だったのだ」
とまあ、かなり突っ込んだ内容になった。
それを聞いていた劉さんは、
「実は日本からのODA援助について、今、初めて知りました。
とてもショックを受けています」
と。

中国の若者がいかに特定分野の情報を受けていないか、
3年前の中国人ノーベル平和賞受賞者のこと、
1989年天安門事件のこととも合わせて、
国民がある種の情報を知ることができないということは、
いったい何を意味するのか、
それによって何がもたらされるのか、
その場にいた若者たちは少し実感できたのではないか。

劉さんは、
「国家が情報をコントロールすることの必要性は理解できる。
私自身は詳しい情報を知りたいけれども。」
と、この日の話し合いの一番初めに述べた。
交流の後、彼女の心境に変化はあっただろうか。
あってほしいと思う。


(註)「やばい」とは、最近の若者言葉で、「すばらしい」という意味で使われることがあるという。
この日の「やばい」もそうだった。






コメント (2)
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「中国帰国者は永久平和を望む」 2013年7月18日(木) No.712

2013-07-18 20:48:22 | 中日(日中)関係
日中戦争時、国策で「開拓」団として旧満州に渡った多くの日本人がいた。
李(渡辺)さんは彼の地で生まれ、西井さん、石原さんは幼児の頃、
父母に連れられて行った子どもたちだった。
多くは残留孤児となって辛酸をなめつつも中国の大地に根を張り、
養父母に育てられるなどして生きのびた。
彼らが合法的に日本に戻れるようになったきっかけは、
1972年の田中角栄・周恩来による日中国交正常化であったが、
多くの場合、自分が築いて来た生活を捨てて
言葉も分からない祖国であっても、日本に戻ろうと決断をしたのは、
あの文化大革命での大迫害であった。

帰国者たちには愛してやまない祖国が二つある。
父母の故郷日本と、
自分を育ててくれた中国だ。
簡単に「戦争も辞さず」などと言うことがどれほど愚かしいことかは、
もし自分がそうなったらどうかを
ちょっとでも想像したら分かるだろう。


■李(渡辺)達夫さん(70歳)大阪在住
「私は日本というこの美しい祖国が大好きです。
日本に来てから、生活面ではとても良くなりました。でも、精神面では何か
物足りないような感じがしています。
日本人として満州で生まれた私を育ててくれたのは、中国の人々であり、
中国の大地でした。
60年間、中国で生きてきた私は、何と言っていいか分からないほど
中国に感謝しています。
私が自分の全てをかけて熱望するのは、ただ一つ、
『中日永遠友好!』です。」


■西井澄さん(77歳)大阪在住
「1942年5月7日、6歳で父母妹とともに吉林省に渡りました。
政府が土地も馬も農具も全部用意してくれるというので
父が乗り気になり参加を決めたそうです。
父は1945年7月1日、関東軍に召集され、
8月15日から母、私、二人の妹の逃避行生活が始まりました。
当時9歳だった私は、
(どうしてこんなことになってしまったんだろう。
戦争だ。戦争は怖い。戦争は人を殺す。戦争は家族をバラバラにした)
と思いました。」
逃避行途中、生後4か月の下の妹を亡くす。


■石原政子さん
「今でも誰か官僚に聞きたい。
何で私たちを満州へ送り出したのかって。」

役場の人に「満州へ行けばお米もたくさんあるし、作物はだれでもできる」と
何度も勧誘され、一家で満州へ渡ることに。彼の地に着いたのは昭和20年5月26日。
まもなく終戦。開拓団から避難命令が出たその日に日本から来た荷物を
紐解くこともなく逃避行。満州で父母、妹らを亡くす。


■樗沢仁さん
「開拓団の人たちがトラックの窓に手をかけて『乗せてってくれ』って。
それを振り払って行っちゃうんだから。」

終戦の2か月前、10歳のときに父の小部隊のある鞍芬河へ渡る。
ソ連との国境の町であったが、終戦時は軍人家族として最優先で後方へ
逃がしてもらえた。
軍のトラックに乗って避難する道中に見たのは、
何十台と続く軍のトラックが、
逃亡手段を持たない開拓民たちを置き去りにして進む姿だった。
満州で母と妹を亡くす。


*李(渡辺)達夫さん、西井澄さんの話は
帰国者の友文集「帰国者の歩んできた道」より抜粋、
石原政子さん、樗沢仁さんの話は
映画「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子演出)チラシより転載。
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「ある日本軍兵士たちの責任の取り方と、日本の政治家たちのあまりの違い」 2013年7月6日(土)No.700

2013-07-06 20:27:36 | 中日(日中)関係
今からここに書く事柄は、日本でも中国でもあまり知られていないと思う。
つい先日、江西省日中友好の歴史の生き字引である博堅先生から直にお聞きしたことだ。

日本では戦後「戦友会」という組織がたくさん作られた。
私も聞いたことがないわけではなかったが
その名称から、
(戦争が終わってからも“貴様と俺~と~は~”など軍歌を歌って、
戦争当時を懐かしんでいるような団体)という
勝手な印象を持ち、それを確かめようともせず長年放置してきた。
自分のその怠慢と傲慢を恥じる。

大阪府吹田市の戦友会「椿会」(資料1)の会員約130名が1986年、南昌を訪れた。
その会の前身は日中戦争のとき、
江西省、湖北省各地を作戦地域として戦闘を展開した日本軍部隊だという。
博堅先生はその会メンバーがが南昌を訪問した時、
同行した17人の日本語通訳の1人だった。
博堅先生の記憶によると、
会長はバンバさんという野戦病院の院長で少将だった人、
副会長は井上豊治さんという奈良県の人。
他にも、西村完さん、有田正男さん、島田さんという名前の人がいた。

その椿会の人たちは何をしに南昌に来たのか。
そのメンバーは、最も若い人でも現在健在であれば103歳ぐらいだという。
’86年当時はその人だと76歳ということになる。
皆、大変高齢になってからの訪問だった。
彼らは、博堅先生ら通訳を伴い、かつて戦闘作戦地だった
武漢、宜春、萍郷、南昌新建県・安義県・永修県など各地を訪れ、
戦争時に自分たちがした行為を謝罪したのだった。
博堅先生はその時の様子をこう語る。

「南昌新建県のある村に行ったとき、
井上先生(註:博堅先生は誰にでも『先生』を付ける。『さん』という意味だそうだ)が
村長に向かってこう言いました。
『私たちは罪人です。私たちの部隊は、新建県のたくさんの人達を
殺しました。本当に申し訳ございません。これからは、日中友好のために尽くしたいと
思います。』と。
村長がどう答えたかははっきり覚えていませんが、うん、うんと頷いて握手し、
二人とも涙を流していました。」


椿会の人たちは何しに南昌に来たのか。
まさか観光気分で浮かれて来たのじゃないのか。
話を聞く前に湧いたその疑念は、私の無知と傲慢さによるものだった。
本当に恥ずかしい。
彼らは自分が死ぬ前に、きちんと、自分たちのしたことを謝りに来たのだ。
戦闘作戦を命令されて実際に担ったのは、
主に、日本全国からかき集められた農民やお店屋さんやサラリーマンやらだった。
「兵隊に取られる」という言葉があるように、
一般人は、喜んで兵士になったのではない。
国の命令に従ったのだ。
軍隊に入れば、「一人前の兵隊にする」という名目で
たいへんな虐めに遭った。
その中で、生き延びるために、次第にまともな神経を麻痺させ、
残虐な殺戮をも平気でするようになる。
ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」で、
ある元兵士が、自分がやったことの資料を見せられ、
「おれが、それをやったのか…」と絶句していたシーンがあった。
忘れなければ、生きていけないようなことをしてしまった元兵士たち。
それでも、忘れることなどできないし、忘れてはならない。
いくら国家の戦争政策だったとは言え、自分がそれに手を染めたことの
責任は逃れようもない。
そうした思いの謝罪の旅だったのだろう。

日本では、最近、
日本的に言えば侵略はなかったかのような言辞を弄した首相がいた。
(まだ首相をやっている)
彼はさらに、その発言についてアメリカからちょっと厳しく言われたら
「侵略していないとはいっていない」
と言い逃れをした。
昨年早早に「南京大虐殺はなかった」と根拠もなく言った名古屋市長といい、
歴史を改ざんしようとしている政治家の多いこと、多いこと。
こんなことがなぜまかり通る日本になったのか。

近代から今まで日本がアジアの国々に対して、
具体的に何をしたのかを嘘偽りなく調べ、、
実際に日本の政策に現場で関与した人々の証言を、証拠として真摯に認め、
謝るべきはきちんと謝り、正すべきは正すという基本的なことが
なぜできないのか。
こんなことでは、日本の子どもたちは、これからもずっと、
アジアの国々に対して肩身の狭い思いをし続けなければならないのだ。
1995年の村山談話で、
(日本もようやくきちんと謝罪した。
これでアジアの人たちに顔をあげて挨拶ができる)
と、ホッとしたのもつかの間、
雪崩をうって靖国参拝をしたりする政治家たちや、
よりもよって「731」番号の自衛隊機内でホクホクと手を振る
日本の総理大臣が出現したりしている(資料2)この現象を、
江西省に謝罪に来た日本軍元兵士たちは、
もし、今も生きていたらどう思うだろう。


(資料1)
戦友会研究会(Research on Japanese "Sen'yukai")の戦友会データベース
http://www.senyuken.jp/database/search/

戦友会名:椿会
所在地:大阪府
部隊名:歩兵第34師団衛生隊

*「大阪吹田・椿会」で検索するとこの椿会が出てきた。
この椿会が1986年に江西省などを訪問した団体の可能性が大だが、
(「衛生隊」がたくさん人を殺したりしたんだろうか?)という疑問も湧く。
「戦友会」についての資料は唯一この戦友会研究会のものしか分からなかった。
どなたかいい資料をご存知ないだろうか。


(資料2)
安部総理大臣の本物の写真(合成じゃない

4月12日、安倍晋三首相は、宮城県松島基地の『ブルーインパルス』の操縦席に座り得意満面、親指を立てるポーズで写真撮影に応じた。(逝きし世の面影さんブログより) http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/e0516e05dd33a346fe1136b7669ba9a8


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「日本の若者の声―中日関係改善を―」 2013年4月21日(日)No.627

2013-04-21 19:46:55 | 中日(日中)関係
昨日は日本の高校生の多くが日本国憲法第九条を支持しているという話題だった。
今日は引き続き、日本の若者の意見を発見したので紹介しよう。
二人とも、本当に普通のお嬢さんたちだと思う。
我が娘や息子、その周囲の子たちもみんなこんな発言が多い。
ネットでは普通の声があまり取り上げられないのか、
やたらエキセントリックな金切り声が聞こえてくるが・・・。
朝日デジタル4月13日付。

(声)若い世代 中国一人旅、関係改善を願う
 大学生 羽原由記(神戸市須磨区 22)

 中国を一人で旅しました。
機内で隣の中国人の方と仲良くなり、入国審査を手伝ってもらいました。
北京に着くと、大気汚染で空は真っ白。ホームレスも多く、
中国の格差社会をひしひしと感じました。
高速鉄道で上海へ。
たまたま入ったショッピングセンターには、
ドアのないトイレがずらり。びっくりしました。
大学の友人の中国人の家に泊めてもらい、ご家族にもお世話になりました。
その際、日中関係についてよく問われました。
日本人は中国人のことを、報道されているほど悪く思っていない。
そう伝えると、中国も日本に対してそうだと教えてもらいました。
ご年配の方からは、昔は強制的に日本語を教えられたと聞き、心が痛みました。
しかし慣れない土地で右往左往する私を助けてくれた中国人は皆、優しかったです。
日中の旅人が互いの長所を伝え、広めていけば、
日中関係は少しずつ改善していくのではないか。
今回の旅で、そう思いました。


2013年04月13日
(声)若い世代 ルポ「中国の旅」 歴史の証言
 大学生 藤山亜莉沙(奈良市 18)

 かねて知らねばならないと思っていた
日本の中国侵略についての読書に着手した。
いま、元朝日新聞記者でジャーナリスト、本多勝一氏の「中国の旅」を読んでいる。
1971年に中国を取材し、新聞や雑誌に連載したルポを元にした本で、
旧日本軍による中国人虐殺、拷問などの実態が緻密(ちみつ)に書かれている。
 「人間の細菌実験と生体解剖」「防疫惨殺事件」「三光政策の村」……。
凄惨(せいさん)で、私の全身を恐怖が駆け抜け、何度も本を閉じる。
人間はかくも残虐になり得るのか。
しかし、膨大な犠牲の上に今の平和を享受する自分がいるのだ。
歴史の証言から目を背けてはならないと思う。
 自分が知ろうと知るまいと過去を変えることはできない。
それでも加害者としての日本人の姿を知ることはこれからの私にとって必要だと思う。
国境や民族の間で翻弄(ほんろう)される人々、
地球を虐殺の舞台に変え得る国家というものとどう向き合っていくのか、
今後、考えていきたい。

http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201304120583.html
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『在中邦人の悲痛な叫び「日中開戦報道は大迷惑」SPA!』2013年3月28日(木)No.605

2013-03-28 19:32:14 | 中日(日中)関係
今日はブログ「村野瀬玲奈の秘書課広報室」で見つけた
SPA!ニュースの全面転載

―――――――――――――――――――――――――
在中邦人激白
「日本のメディアよ、開戦を煽るのはやめてくれ」

2013.03.12 ニュース

無責任に開戦を煽るメディア。
先の大戦前を思い起こさせる中国海軍艦艇によるレーダー照射事件が明るみになって以来、
週刊誌には物騒な見出しが毎号のように踊る――「中国人9割は『日本と戦争』『東京空爆』」(週刊新潮)「日中開戦『狙いは首都・東京』習近平の中国は本気だ」(週刊現代)。



 これを見て、記事を手に取って愛国心や危機感を募らせる人、 無関心を決め込む人、その反応はそれぞれだろう。しかし、中国在住の日本人には、センセーショナリズムに走るこうした日本の中国報道に、命の危険すら感じている者も少なくない。

 上海市で自営業を営むNさんは言う。

「軽々しく開戦なんて言わないでほしい。戦争が起きたら、間違いなく私たちが最初の犠牲者になるでしょうからね」

 日本のマスコミの「日中開戦」報道は、中国でも反響を呼んでいる。 東莞市在住のある日本人駐在員Mさんはこう話す。

「中国版ツイッターの『微博』では、日本の週刊誌が翻訳されてすぐ出回る。中国メディアも開戦を煽る記事を引用し、すぐに配信する。中国人もこうした報道を見ていることをわかってほしい」

 メディアのミスリードによって戦争が勃発した例は、歴史的に枚挙に暇がない。中国事情に詳しいジャーナリストの富坂聰氏は言う。

「太平洋戦争で日本のマスコミは欧米からの侵略の危機を煽り、政府の弱腰を批判しました。結果、軍部の暴走を後押しすることとなった。中国では今、それと同じことが起き得る状況にある。レーダー照射が現場の暴走だったことを見てもわかるとおり、人民解放軍は統制が取れていない。中央政府は戦争を望んでいないが、日中メディアの商業ジャーナリズムによって、最悪の事態に陥ることは否定できません」

 もちろん、中国の軍事力の脅威や、尖閣問題に関する中国側の歪んだ主張について、警鐘を鳴らすことはメディアの役割だ。しかし度を越したセンセーショナリズムに偏った報道は、その代償を考える責任があるだろう。

 中国には現在14万931人の在留邦人がいる(外務省・平成24年速報版)。しかし、この数字は在留届の受理数に過ぎない。複数の在中邦人の証言によると、届出していない人や長期滞在者などを合わせると、40万規模の邦人がいるというのだ。

「中国は戦争を望んでいる」というような報道もあるが、それは絶対にない。ただ、挑発に弱いのは中国や中国人の弱点。冷静さを欠いた愚かな選択をさせないために、面白半分の報道は慎むべき(35歳・不動産会社経営)

 実利実害のない立場の人は、威勢のいいことを言ってもかまわないだろうが、家族とともに中国に住んでいる人の身にもなってほしい。子供が学校で虐められるようなことがないか心配しています(36歳・調査会社経営)

 ネトウヨだけが喜ぶ開戦報道で、国を出て働く我々の肩身が狭くなるのは理不尽(35歳・編集)
 などなど。開戦を煽るメディアはこれらの人々の声を、在中の40万人にものぼる日本人の命をどう考えているのだろうか。

 3/12発売の週刊SPA!『在中邦人の悲痛な叫び「日中開戦報道は大迷惑」』には『中国嫁日記』がベストセラーになった井上純一氏もコメントを寄せているほか、仮に開戦となった場合、日本側に在中邦人を救う手立てはあるのかなどを検証している。
 〈文/週刊SPA!編集部〉

http://nikkan-spa.jp/402430
http://muranoserena.blog91.fc2.com/
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「中国の大学生から安倍首相への手紙」2013年3月18日(月)No.594

2013-03-18 18:59:54 | 中日(日中)関係
中国の大学生から、安倍首相への手紙(三通)

その一
湖北大学日本語学部四年生
第8回中国人の日本語作文コンクール最優秀賞受賞者
李欣晨

安倍首相:

私は中国一人の大学生です。大学に入ってから、日本語を専門に学び続
けて、昨年が既に四年生になりました。

四年生になると、同級生の皆は、進学と就職の問題について、さんざん
迷っています。

日本へ留学したい学生も多くいますが、そういう時期に、日中両国は、
尖閣諸島の領土帰属問題を巡り、お互いに一歩を譲りませんでした。矛
盾の深化に伴う両国関係が、ずっと冷え込んだままです。

そのせいで、政治領域だけではなく、民間文化交流、企業経済活動など
の分野にも影響を受けて、後退の傾向を呈している。特に日本留学を夢
に頑張っている学生は、日中関係悪化の影響で、自分の家族や親友の反
対により、夢を叶える機会を諦めてしまいました。

私の同級生の一人は、「一生君を養っても、日本に留学させない」とお
母さんに言われ、残念でなりませんでしたが、日本留学の夢を諦めてし
まいました。私自分でも、最初は留学に行きたいでしたが、両親に反対
されて、一応中国大学院の試験を受けました。

しかし、日本僑報社により主催された「第八回中国人の日本語作文コン
クール」最優秀賞である日本大使賞受賞の副賞として、今年の1月日本
へ参観に行きました。

そして、中日両国民は、直接の接触もないのに、観念中すでに醜悪化さ
れている相手と戦い、過激な行動でお互いに傷つけているのが何の意味
もないことを、この旅を通じてしみじみ感じてきました。

それで、日本から帰ってきた後、周囲の人々に自分の見聞を話しました。
日本への先入観を取り除くために、微力ながら、自分なりの力を尽くし
たいです。

これまで暖かい感情で繋ぎとめられていた日中友好関係は、いきなり冷
え込んでいることは、すべて日中の永久友好を祈る人にとって、大きな
ショックです。

日中両国は、隣国で同じく東アジア地域に属し、交流往来が長く続いて
いる。その友好関係は、アジア・太平洋地域に限られず、全世界の平和
発展に及ぶ影響力を持っているので、どうか両国の平和と共同発展を祈
る人の夢に、願が叶える翼をつけておくために、日中両国の未来を明る
い道にお導きください。

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その二
国際関係学院日本語学部四年生
第7回中国人の日本語作文コンクール最優秀賞受賞者
胡万程

大学一年の時、高橋さんという留学生と週に一度、相互学習を始めた。
しかし、1ヶ月たっても学習言語は上達せず、親しくもなれなかった。

僕たちは初級だったが、相互学習の間、僕は習いたての日本語を、高橋
さんはたどたどしい中国語を話し続けた。二人とも本当は相手から生の
母語が聞きたかった。しかし、生の母語を聞けず、楽しいはずの相互学
習は、自分の能力を高めるためだけの『戦いの時間』のようだった。

僕は清華大学の笈川先生に相談し、アドバイスをもらった。「二人とも
自分の利益ばかり考えすぎ、勉強じゃなくて、山登りなどに行ってみた
ら」

僕は半信半疑だったが、アドバイスに従い、高橋さんを香山へ誘った。
すると、二人は母語で話しをし、互いに相手を思いやりながら登山でき
た。それがきっかけで、私と高橋さんは、相手を大事にするようになり、
その後の相互学習もうまくいった。自分の利益より相手の利益を優先し、
双方が利益を得る、つまりウィンウィンの関係になれたわけだ。

これは僕の個人的な体験であるが、中日の絆にも適応できると考える。
無論、国家同士の絆ともなると、個人の関係ほど簡単ではない。しかし、
原則は同じではないだろうか。

中日国交正常化から41年、この間、中日は関係を深めてきた。現在、
日本の最大貿易国は中国であり、日本人の最多渡航先も中国だ。また、
2007年、在日外国人中、中国人は一位、全体の32%を占める。しかし、
日本人の中国に対する認識は、1978年から続く「外交に関する世論調
査」では最悪の状況にある。2006年外務省の「日中関係に関する世論
調査」では、日中関係は良好ではないという人が66.7%、良好と言う
人はわずか6.9%だ。

歴史問題と領土問題が日中間の外交・友好関係の最大の壁と言える。
外交の基本原則は自国の国益を守ること。しかし、自国の国益だけ
を追って、双方の国益を損なう結果になっていまいか。領土問題な
ど、即刻解決が困難な問題は、双方、暫時、静観するという方法は
とれないか。周恩来も「求同存異」を提唱している。

領土がどちらのものかを争う前に、お互いがその領土の資源を最大
限に利用する協力体制を模索する。歴史問題は忘れないが、まず民
間交流を図る。そのようなウインウインの関係を考えること、それ
こそ、中日の絆の出発点ではないだろうか。

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その三
国際関係学院日本語学部四年生
第7回中国人の日本語作文コンクール三等賞受賞者
欧陽文俊

安倍 晋三 さま

はじめまして、中国北京で日本語を専攻としている欧陽文俊です。突然
で不躾だとは思っておりますが、どうしても伝えたいことがあるので、
拙文を読んでいただければ幸いです。

去年の五月に中国大学生訪日団の一員として日本へ行ったことがありま
す。印象に残ったことの一つは早稲田大学の学生たちと将来の夢を話し
合ったことです。中日両国の大学生の夢を聞いて気付いたのは、国が違
っても、立場が違っても、生い立ちがそれぞれであっても、両国大学生
の夢はあまり違いはないということです。つまり、立身出世、穏やかで
幸せな生活を送っていきたいというのは夢の共通点といってもいいでし
ょう。もう一つ気付いたのは言語が通じないとしても(訪日団にはまっ
たく日本語ができない中国学生もいるので、英語で話し合ったグループ
もあった)、ちゃんと自分の本音を伝えようとすれば、必ずや話し合い、
理解し合うことができるということです。

人間は自分の立場からしか物事を考えることができないので、自己中心
主義を貫く癖があると言ってもいいでしょう。しかし、自分の考えを主
張しすぎると、他人との「和」を忘れ、人間関係を壊してしまうのは空
しいことです。考えれみれば、国と国との関係は人間関係と同じもので
しょう。魚釣り島であれ、尖閣諸島であれ、民族主義に任せないで、落
ち着いて話し合おうとしてこそ、利益の共通点が見えてくるでしょう。
また、利益点や文化が同じでなくても、国家レベルの会談、草の根の交
流を始め、あらゆる手段を尽くして話し合おうとするこそ、お互いに理
解し合うことができます。偉そうなことを書いてしまったようだが、た
だ自分の経験から考えたことです。

私はただ一人の大学生としては、中日関係の改善に力が小さいことがわ
かっています。それでも、今でも日本への留学を準備しております。日
本でもっと知識を見に付きたいだけではなく、自分の目で見た日本、体
験した日本を丸ごとに友達や家族に教えたい、より多くの日本人と友達
になりたいと思っているからです。自分の力が微小だとは知っているが、
自分なりに頑張っていこうと思っております。中日関係を改善すること
には安倍首相が一番有力ではないでしょうか。中日両国が各レベルでち
ゃんと話し合う未来へ導いてほしいです。

中日両国代々の平和と友好をお祈りいたします。


※この三通の手紙は、コンクール主催者、日本僑報社より転送したもの
です。
連絡先
171-0021東京都豊島区西池袋3-17-15 日本僑報社・日中交流研究所
担当者
段躍中(日中交流研究所長)
TEL 03-5956-2808 FAX 03-5956-2809
info@duan.jp

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