四葉エンドでこのまま押し切られた場合、物語構造的にどうにも解せないことが多くて、ここのところ、ぼんやり考えていたのだけれど、どうやら『ぼく勉』もうるかエンドに邁進中なところから、こんな感じに思えてきてしまった。
ラブコメって、いつから「セカイ系」化しちゃったのだろうか?
って。
だって、四葉なら5年前の小学生の頃に出会った、その後の風太郎の人生(といってもたかだか高校生ぐらいまでだが)を決めてしまった「運命」の相手だった、
ってことだし、
うるかなら、中学生のころに、父をなくしてどん詰まりだった成幸の心を支えた「運命」の相手だった、
ってことになりそうで。
どちらにしても、以前のように、単なる幼馴染枠=滑り台枠、というお約束を覆してきている。
もっとも、どちらにしても、かつて自分を支えてくれた相手、という設定は、終盤になって明らかにされるわけだけど(特に、うるかの場合は、終幕の直前w)。
要するに、世界には自分の「運命の相手」がどこかにいて、その人と赤い糸で結ばれている、という世界観。
つまり、一昔前の「セカイ」系。
もっとも、一般にメジャー化したのは、新海誠の『君の名は。』からなのかもしれないけれど。
ともあれ、「赤い糸」の伝説ね。
もっとも、純然たる「セカイ」系と言えないのは、特に風太郎も成幸も、世界の危機を救うわけではないから。
せいぜい、赤点を取らない、とか、入試に合格する、というチマチマした、日常、誰もが経験するような「試練(笑)」くらいのもの。
まぁ、だから、セカイ系って、とうとうここまでセカイが矮小化したのか?とも思うわけだけど。
でも、まぁ、そういうこと。
そこで、一応、登場人物たちにとっての「小さな、でも切実なセカイ」の不幸となるのが、どうやら、家庭に問題あり、ということ。
風太郎にしても、五つ子にしても、あるいは、成幸にしても、片親の家庭。
親がそもそもいなかったり、シングルファーザーだったり、シングルマザーだったりする家庭。
そこで、不在の父なり母を埋め合わせるという「小さなセカイの救済プログラム」が発動される。
四葉やうるかといった、幼馴染枠が正ヒロインとして特権化されるのは、この「小さなセカイの救済プログラム」において、主人公に決定的な助力を、まだ自我が曖昧な子どもの頃に行っているから。
まぁ、だから、一種の「無垢な、イノセントな母性」がそこで発揮されてしまうというか。
けれども、その「イノセントな母性」を示された子どものころの主人公が、自分にとっての「不在の母」の場を埋めてくれたものとして、決定的な存在として受け止めてしまう。
本人も気付かない「心の傷」を埋めてくれた相手として、「運命化」されてしまう。
だから、風太郎は、いろいろと他の五つ子との心のやり取りがあったにもかかわらず、そのような、一花、二乃、三玖、五月との、濃密な分厚いエピソードの全てを放り投げて、ステルス・ラブ(忍ぶ恋)に徹していた四葉を決め打ちで選んでしまったのだろうなぁ、と。
なぜなら、「運命の相手」は、もう、最初の出会いで、特権的次元に格上げされた存在になってしまっているから。
でも、その特権性は、あくまでも「京都の子」と会ったというたった一つの事件から生じた絶対性なので、読んでる側からすると、
はぁ、なんで四葉?、いや、四葉が風太郎争奪戦のステージに上がることは予想できたし、歓迎もするけれども、なんで、ステージに上がった途端、即「花嫁」決定なの?、いくらなんでも、それ、途中経過を省きすぎで、イミフなんですけど? ていうか、風太郎の心情、まったくわからないんですけど。。。
というのが率直なところ。
で、結果として、四葉以外の五つ子推しの人たちが不満を述べ、特に「推し」はないけれどこの物語をミステリーとして楽しんできた人たちからは伏線丸投げじゃん!と憤られ(←このブログの立場は基本的にこれ)、結果として、四葉じゃおかしいよ!、という声が強まったことに対して、遂には四葉推しの人たちの中にも、四葉をもっとちゃんと描けよ!、という声も上がってくる始末。
要するに、読者からすると、今の(121話までの)展開は、わけがわからなすぎて、もうこれ、作者が、読者置いてけぼりで、好き勝手なことを書いているだけだろ?という思わずにはいられない。
で、多分、そういう感想は正しいんだと思う。
きっと、作者は、この物語を、ラブコメと考えてはいないから。
家庭に問題を抱えた子どもたちの日常におけるセカイ系と思っているから。
作者なりに『君の名は。』をやりたいだけだから。
要するにそういうことなのだと思う。
で、このような考えに至ったのは、121話で唐突に語られた、風太郎の母の話があったから。
風太郎の母親は、どうやら、自分の店(=飲食店)を始めたものの、開業から日の浅いところで死去してしまったようで。
で、その母の死を風太郎は、多分、小学生にあがったかどうかくらいの頃、らいはがまだ物心つかないくらいの頃に経験したのだと思う。
とすれば、彼なりに心の傷として抱えていたはずで。
竹林が子どもの頃の風太郎を、まさに姉のように気にかけていたのは、母の死の結果、無鉄砲になった様子を知っていたから。
だから、日の出祭に来た竹林は、現在の風太郎を見て、ほんとに大きくなったね、と姉のような感想を持ったのだと思う。
その荒れていた風太郎が、京都から帰ってきて以来、一心不乱に勉強するようになったのだから、竹林からしたら、どんな魔法がかかったのだろう、というぐらいに感じていたのだと思う。
つまり、それだけの変化をもたらした「運命の相手」が四葉だった、ということになる。
問題は、その運命的な重要性が、今までの描写では、他の姉妹とのやり取りに沈んで、大して重要なものには見えない、というところで。
これは、端的に、作者の描写ミスだし、担当編集者の構成ミスだと思う。
ただ、裏返すと、作者も担当編集者もともに、「運命の相手」認定を、読者が四葉に対して勝手に思ってくれるだろうと、暗黙のうちに期待していたことになる。
それだけ、読者も含めて、『君の名は。』モードの、「赤い糸」伝説が自明視されていると信じていたということなのだと思う。
そして、今更ながら、その運命性を強調するために「風太郎の母の死」というエピソードを加えてきたのだろうな、と。
要するに、簡単に言えば、風太郎って、母の不在から生じる、本人も気付かないほどの、重度のマザコンだったわけで、その「母」の場を埋めたのが京都の子=四葉、だったということ。
まぁ、だから、そう考えても、まだ、四葉が京都の子であるかどうかは明らかにされていない、とか、零奈が五月だったこともバレていない、とか、いろいろと伏線の回収方法事態では、四葉以外に相手が花嫁になる、という土壇場のどんでん返しもないことはないと思うけれど。
でも、そうした「バレネタ」についても、すでに高校卒業から作中時間を5年間飛ばすという「キンクリ」によって、その間に実は、四葉が風太郎に話していました、と言われてしまえばそれまでのことなので。
なので、純粋に、なぜ、四葉だったのか?といえば、それは、風太郎が、『君の名は。』ばりに、四葉を運命の子だと感じていたから、ということで、一応の説明はついてしまう。
にしても、いろいろと細部で矛盾が生じるところはあるわけど。
でも、そうしたものを全部、ふっとばして、作者は、『君の名は。』の日常生活版としてのセカイ系をやりたかった、ということで。
もっともほんとうにそうだとしたら、お世辞にもその試みは成功したとは言い難いけど。
だって、四葉を運命の相手にするにしても、その説明や描写がなさすぎるから。
加えて、これは作者にとっても誤算だったかもしれないけれど、四葉以外の姉妹の描写が、あまりにもうまく行き過ぎて、どの娘も、つまり、一花も、二乃も、三玖も、五月も、気がつけば、四葉以上に魅力的な存在になってしまっていたから。
彼女たちを覆すだけの魅力を四葉が描かれているわけではないし。
あ、今気がついたけど、『君の名は。』のヒロインは「三葉」だったね。
となると、もう、四葉という名前は、この「三葉」にあやかったもので決定だなw
ともあれ、ただ「赤い糸」、すなわち「結びの伝説」で「運命」を説明するには、四葉の魅力はわかりにくかった、ということで。
率直に言って、四葉エンドという結論だけから見れば、四葉はただのあざとい女子、普通に言えば「泥棒猫」と言われるに等しい存在だから。
その点で二乃が、「いいわね、あなたは。待ってれば向こうの方からよってきてくれるのだから」というのは、けだし名言。
全くそうだと思うし、いまでも、その印象は消えない。
そのあたりは、作者や編集者も気にかけて、115話以降、あれこれ、四葉に弁明の機会を与えたのかもしれないけれど、でも、それでかえって、彼女のあざとさのほうが目立ってっしまった。
とはいえ、この物語が、運命の相手を赤い糸で手繰り寄せるセカイ系の変種だとすれば、風太郎が、あの、バカ丸出しのプロポーズをしたのも理解できる。
なぜなら、運命の相手とは、結ばれる以外の選択肢はないから。
だって、それは、運命だから、自明だから。
・・・とまぁ、こういうこと。
惜しむらくは、作者にこうしたセカイ系的構成を入念に組み上げるだけの力量がなかったこと。
ということで、四葉エンドのままなら、荒れることは必至。
さてさて、最終話、どうなることやら。
ラブコメって、いつから「セカイ系」化しちゃったのだろうか?
って。
だって、四葉なら5年前の小学生の頃に出会った、その後の風太郎の人生(といってもたかだか高校生ぐらいまでだが)を決めてしまった「運命」の相手だった、
ってことだし、
うるかなら、中学生のころに、父をなくしてどん詰まりだった成幸の心を支えた「運命」の相手だった、
ってことになりそうで。
どちらにしても、以前のように、単なる幼馴染枠=滑り台枠、というお約束を覆してきている。
もっとも、どちらにしても、かつて自分を支えてくれた相手、という設定は、終盤になって明らかにされるわけだけど(特に、うるかの場合は、終幕の直前w)。
要するに、世界には自分の「運命の相手」がどこかにいて、その人と赤い糸で結ばれている、という世界観。
つまり、一昔前の「セカイ」系。
もっとも、一般にメジャー化したのは、新海誠の『君の名は。』からなのかもしれないけれど。
ともあれ、「赤い糸」の伝説ね。
もっとも、純然たる「セカイ」系と言えないのは、特に風太郎も成幸も、世界の危機を救うわけではないから。
せいぜい、赤点を取らない、とか、入試に合格する、というチマチマした、日常、誰もが経験するような「試練(笑)」くらいのもの。
まぁ、だから、セカイ系って、とうとうここまでセカイが矮小化したのか?とも思うわけだけど。
でも、まぁ、そういうこと。
そこで、一応、登場人物たちにとっての「小さな、でも切実なセカイ」の不幸となるのが、どうやら、家庭に問題あり、ということ。
風太郎にしても、五つ子にしても、あるいは、成幸にしても、片親の家庭。
親がそもそもいなかったり、シングルファーザーだったり、シングルマザーだったりする家庭。
そこで、不在の父なり母を埋め合わせるという「小さなセカイの救済プログラム」が発動される。
四葉やうるかといった、幼馴染枠が正ヒロインとして特権化されるのは、この「小さなセカイの救済プログラム」において、主人公に決定的な助力を、まだ自我が曖昧な子どもの頃に行っているから。
まぁ、だから、一種の「無垢な、イノセントな母性」がそこで発揮されてしまうというか。
けれども、その「イノセントな母性」を示された子どものころの主人公が、自分にとっての「不在の母」の場を埋めてくれたものとして、決定的な存在として受け止めてしまう。
本人も気付かない「心の傷」を埋めてくれた相手として、「運命化」されてしまう。
だから、風太郎は、いろいろと他の五つ子との心のやり取りがあったにもかかわらず、そのような、一花、二乃、三玖、五月との、濃密な分厚いエピソードの全てを放り投げて、ステルス・ラブ(忍ぶ恋)に徹していた四葉を決め打ちで選んでしまったのだろうなぁ、と。
なぜなら、「運命の相手」は、もう、最初の出会いで、特権的次元に格上げされた存在になってしまっているから。
でも、その特権性は、あくまでも「京都の子」と会ったというたった一つの事件から生じた絶対性なので、読んでる側からすると、
はぁ、なんで四葉?、いや、四葉が風太郎争奪戦のステージに上がることは予想できたし、歓迎もするけれども、なんで、ステージに上がった途端、即「花嫁」決定なの?、いくらなんでも、それ、途中経過を省きすぎで、イミフなんですけど? ていうか、風太郎の心情、まったくわからないんですけど。。。
というのが率直なところ。
で、結果として、四葉以外の五つ子推しの人たちが不満を述べ、特に「推し」はないけれどこの物語をミステリーとして楽しんできた人たちからは伏線丸投げじゃん!と憤られ(←このブログの立場は基本的にこれ)、結果として、四葉じゃおかしいよ!、という声が強まったことに対して、遂には四葉推しの人たちの中にも、四葉をもっとちゃんと描けよ!、という声も上がってくる始末。
要するに、読者からすると、今の(121話までの)展開は、わけがわからなすぎて、もうこれ、作者が、読者置いてけぼりで、好き勝手なことを書いているだけだろ?という思わずにはいられない。
で、多分、そういう感想は正しいんだと思う。
きっと、作者は、この物語を、ラブコメと考えてはいないから。
家庭に問題を抱えた子どもたちの日常におけるセカイ系と思っているから。
作者なりに『君の名は。』をやりたいだけだから。
要するにそういうことなのだと思う。
で、このような考えに至ったのは、121話で唐突に語られた、風太郎の母の話があったから。
風太郎の母親は、どうやら、自分の店(=飲食店)を始めたものの、開業から日の浅いところで死去してしまったようで。
で、その母の死を風太郎は、多分、小学生にあがったかどうかくらいの頃、らいはがまだ物心つかないくらいの頃に経験したのだと思う。
とすれば、彼なりに心の傷として抱えていたはずで。
竹林が子どもの頃の風太郎を、まさに姉のように気にかけていたのは、母の死の結果、無鉄砲になった様子を知っていたから。
だから、日の出祭に来た竹林は、現在の風太郎を見て、ほんとに大きくなったね、と姉のような感想を持ったのだと思う。
その荒れていた風太郎が、京都から帰ってきて以来、一心不乱に勉強するようになったのだから、竹林からしたら、どんな魔法がかかったのだろう、というぐらいに感じていたのだと思う。
つまり、それだけの変化をもたらした「運命の相手」が四葉だった、ということになる。
問題は、その運命的な重要性が、今までの描写では、他の姉妹とのやり取りに沈んで、大して重要なものには見えない、というところで。
これは、端的に、作者の描写ミスだし、担当編集者の構成ミスだと思う。
ただ、裏返すと、作者も担当編集者もともに、「運命の相手」認定を、読者が四葉に対して勝手に思ってくれるだろうと、暗黙のうちに期待していたことになる。
それだけ、読者も含めて、『君の名は。』モードの、「赤い糸」伝説が自明視されていると信じていたということなのだと思う。
そして、今更ながら、その運命性を強調するために「風太郎の母の死」というエピソードを加えてきたのだろうな、と。
要するに、簡単に言えば、風太郎って、母の不在から生じる、本人も気付かないほどの、重度のマザコンだったわけで、その「母」の場を埋めたのが京都の子=四葉、だったということ。
まぁ、だから、そう考えても、まだ、四葉が京都の子であるかどうかは明らかにされていない、とか、零奈が五月だったこともバレていない、とか、いろいろと伏線の回収方法事態では、四葉以外に相手が花嫁になる、という土壇場のどんでん返しもないことはないと思うけれど。
でも、そうした「バレネタ」についても、すでに高校卒業から作中時間を5年間飛ばすという「キンクリ」によって、その間に実は、四葉が風太郎に話していました、と言われてしまえばそれまでのことなので。
なので、純粋に、なぜ、四葉だったのか?といえば、それは、風太郎が、『君の名は。』ばりに、四葉を運命の子だと感じていたから、ということで、一応の説明はついてしまう。
にしても、いろいろと細部で矛盾が生じるところはあるわけど。
でも、そうしたものを全部、ふっとばして、作者は、『君の名は。』の日常生活版としてのセカイ系をやりたかった、ということで。
もっともほんとうにそうだとしたら、お世辞にもその試みは成功したとは言い難いけど。
だって、四葉を運命の相手にするにしても、その説明や描写がなさすぎるから。
加えて、これは作者にとっても誤算だったかもしれないけれど、四葉以外の姉妹の描写が、あまりにもうまく行き過ぎて、どの娘も、つまり、一花も、二乃も、三玖も、五月も、気がつけば、四葉以上に魅力的な存在になってしまっていたから。
彼女たちを覆すだけの魅力を四葉が描かれているわけではないし。
あ、今気がついたけど、『君の名は。』のヒロインは「三葉」だったね。
となると、もう、四葉という名前は、この「三葉」にあやかったもので決定だなw
ともあれ、ただ「赤い糸」、すなわち「結びの伝説」で「運命」を説明するには、四葉の魅力はわかりにくかった、ということで。
率直に言って、四葉エンドという結論だけから見れば、四葉はただのあざとい女子、普通に言えば「泥棒猫」と言われるに等しい存在だから。
その点で二乃が、「いいわね、あなたは。待ってれば向こうの方からよってきてくれるのだから」というのは、けだし名言。
全くそうだと思うし、いまでも、その印象は消えない。
そのあたりは、作者や編集者も気にかけて、115話以降、あれこれ、四葉に弁明の機会を与えたのかもしれないけれど、でも、それでかえって、彼女のあざとさのほうが目立ってっしまった。
とはいえ、この物語が、運命の相手を赤い糸で手繰り寄せるセカイ系の変種だとすれば、風太郎が、あの、バカ丸出しのプロポーズをしたのも理解できる。
なぜなら、運命の相手とは、結ばれる以外の選択肢はないから。
だって、それは、運命だから、自明だから。
・・・とまぁ、こういうこと。
惜しむらくは、作者にこうしたセカイ系的構成を入念に組み上げるだけの力量がなかったこと。
ということで、四葉エンドのままなら、荒れることは必至。
さてさて、最終話、どうなることやら。