BLACK SWAN

白鳥のブログ - 日々の世界を徒然と

Re:CREATORS 第22話 『Re:CREATORS』 感想

2017-09-19 20:57:42 | Weblog
いやー、ひどい話だったねー。
21話が、アルタイルと偽メガネ(女)がなんかウルウルして終わって、え?まさかこれで終わりなんてことないよね?と思っていたのだが、マジであれで本編が終わってしまったとは。

なにしろ、この最終話は、ほんとに後日談だったので。
しかも、だらだらと、作者と「被造物」の間の別れを描くとはね。。。

何がひどいかって、アルタイルと偽メガネ(女)、なんだっけ、シマザキだっけ?、この二人でとりあえず話の決着がついたところで、その状況について、被造物本人たちに「自分たちはモブないしは引き立て役だった」とか言わせているところね。

さすがにこれはないわー。
だったら、それまでのセレジアとか、アリステリアとか、まみかとかの「死」は何だったの?って感じだよね。
ばかばかしいなぁ。
てか、そんな簡単に納得すんなよ、って感じだけど。
とにかく、そんなセリフを、一応、命を張って、アルタイルと戦った当人たちに言わせてしまう創り手の感覚って、全くわからん。アホだろ、マジで。

それにさ、シマザキが現界したのにしたって、まがねのチート能力があったからだし、これ「チート」の意味そのもので「ズル」だからね。

承認力、ってルール自体、正直なところ、売上が一番、ニコ動サイコーみたいな、最初から二次創作バンザイの、つまりは、作者というかクリエイターの敗北宣言でもあるルールってことで、もともと馬鹿げたものなのだけど、その馬鹿げた設定をさらにひっくり返して、いやーこんなグズグズのユリっぽい再会の話なんて今日び、だれも認めないよねー、ってのを無理やりひっくり返しているんだから、何やってんだ?って感じ。

これ、製作側の完全な自縄自縛じゃん。
いや、だって、今時は、もうネットで「承認」されないとダメなんですわ、てか、ネットが全てなんですわ!って、お手上げモードで「承認力」なんてアホな幻想に自分たちが負けている、って認識を示しておきながら、それを都合よく、まがねのホントとウソをひっくり返す力で捻じ曲げてまで、やってるんだから。

なんていうか、これ、完全に創り手=クリエイター、てか監督とか原案者の、敗北意識から始まっているのが、どうにも気持ち悪い。

実際、最終回で、クリエイターたちに、二次創作のシマザキや、ただの素人のソウタに自分たちのアイデアが負けたことまで言わせているのだから。

ホント、ただの原案者のへっぽこな自己意識の発露でしかないよね。

だって、ファンというか、読み手というか、視聴者の方は、なんであれ、とにかく「面白ければ」いいんだから、それをニコ動的数の暴力とか、ツイッター的リツイート数とか、フェイスブック的「いいね」数とかに還元して考えようとしているのが、どうにも寒い。

そして、そんな負け意識を晒している本作の「創り手」たちの敗北感にどうして見る側まで付き合わされなくちゃいけないのか、意味不明だよ。

何ていうか、風呂敷を拡げたのに全然畳めなかったのは、アルドノアのときと全く同じで、これ、監督に学習能力がないのか、マジでこれがオモシロイと創り手側が思っているのか、どちらにしても、終わってね?って感じで、呆れた。

22話やってこれって、アホを通り越して、正直なところ、アニメ製作リソースの無駄遣いにしか思えないのだが。どうなの、これ?

まあ、最後の鳥かご作戦は、作中でも、官主導のイベントが成功したことはないんですけど、とか、言わせていたので、そんな鳥かごイベントがこの程度のオチでした、ってところで、実は意趣返ししているんです、ってこともあるのかもしれないけど、さすがにそれは迂遠だし。

マンガ制作者とかアニメ制作者とか、結局のところ、かっこいい絵が描きたいとか、スゲぇ爆発が描きたい、とかの子どもっぽい欲望しかないんじゃないかと思わせるものだったね。

なんていうか、原作者って役割を、アメリカのマーベルみたいにちゃんとつくったほうがいいんじゃない?とマジで思ったな。

あ、でも、これって、原案者がいたんだっけ?
まったく、何してるんだか。。。

しかし、ホント、アルドノアと同じで、とことん、お話のオチがつくれない。
どうしてこうなるのか、意味不明だよ。

てか、もうこういう「創り手の事情を晒す」ような、しょぼい話はやめて欲しい。
創り手までセルフィーになってどうすんだよ、まったく。

ホント、無駄な半年だったなぁ。

それでも最後はなんかやってくれるのでは?と思っていたんだけどな。
そんな期待を持つほうがバカだったってことか。
あーあ。

それにしても、まさか、ビバを超えるものが出てくるとは思わなかったよ。

どんどん劣化するな、オリジナルものは。

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劇場版 ソードアート・オンライン ―オーディナル・スケール― 感想

2017-09-14 19:33:52 | SAO/AW
ようやくSAO劇場版を観ることができたのだけど、思っていた以上によくできていてビックリ。
というか、素直に面白かった。

映画公開からすでに結構時間が経ってはいるけど、一応、スペース空けときます。





































なんか最初はVRじゃなくてAR?、なにそれ?なんか時流におもねちゃったの?とか思っていたのだけど、そのARが予想以上にしっくり来て、へぇ、と感じた。

まぁ、キリトさんのセリフじゃないけど、そりゃ、生身の体の動きは重いよね。
そこは最後まで<苦笑>の連続だったわけだけど、そこさえ目をつむれば、ホント、よくできていた。

なにがうまいかって、はじめは今風のARで入りながら、それがちゃんとVRにつながっていくところ。
あと、最初は全然関係ない風を装いながら、最終的にはSAOの原点である「アインクラッド」に戻っていったところ。

エギルが代弁してくれたとおり、おお、これが本来のアインクラッド第100層のラスボスだったのか!って思ったものね。

で、そのラスボスを、SAOキャラ総出で攻略するところは、やっぱり、マジ感動もの。
さすがは劇場版のことだけあって、どのキャラもものすごい速さで動くし、ラスボスの火力もそれに劣らず凄まじいしw

あと、アインクラッドの記憶を失ったアスナが、遅れてラスボス戦に加わりながら、そこで駆使したのが、絶剣ユウキの剣技だった、ってのは、あぁ、そう来たか!って思ったものね。

時系列的には、この「オーディナル・スケール」はマザーズ・ロザリオとアリシゼーションの間の話だということだけど、その位置に上手く収まっているよね。

このラスボス総力戦のあり方は、それこそアリシゼーション編最後の総力戦のいわば前哨戦みたいなもので、これがあればこそ、アリシゼーションにおいてもSAOやALOの皆が駆けつけてくれることにリアリティを与えるものね。

もちろん、最後に「ラース」も出てきたわけだし。

なので、既刊のSAOの話の流れにも無理なく収まっているのがいい。


加えて、新作であるにも関わらず、SAOの原点であるアインクラッドのデスゲームに戻っているところは、やっぱり、作者自ら脚本に関わっていればこそのことなんだろうなぁ、と真剣に感心した。

もちろん、後付の設定だけど、ユナもエイジも、あのデスゲームの中にいた、というのは上手いし、そこで死を迎えたユナを、なんとかデジタル的に生き返らせよう、というのも、今回の事件の動機として理解できる。人々の記憶を集めて本人の心を再構成して電子的に生き返らせようというのは、サイバーものの常套手段だから、すんなり理解できるし。

ともあれ、そうしてARの世界からVRの世界に、今のARの話から昔のアインクラッドの話に遡るのは上手い。それに、ちょっと強引ではあるけれど、アインクラッドでは不完全燃焼で終わってしまった100層ラスボスの攻略を、ユナやその父親の重村の無念をはらすためのイベントにしたところも上手いなぁ、と。

それにしても、重村研、優秀だな。

そこでまた、茅場の姿が現れるし、もっといえば、茅場が電子的には存命していることも、ちらっと描写されていて、これはそのままアリシゼーション編に向けた布石になってるし。

てか、どれだけ茅場が優秀だったのか、ってことだけどね。

あとは、劇場版の舞台となった2026年の近未来の東京が、微妙にリアルなところも微笑ましかったしw
まぁ、オリンピックの後の新国立競技場がこれでもか、という感じで映っていたのは笑えたけど。

とはいえ、新宿にせよ、明治神宮にせよ、恵比寿にせよ、あるいは大岡山のなんちゃって東工大にせよ、いちいち地名も風景もリアルで、物語りの中に具体的な動きがあってよかった。リアルにARっぽいしね。

このあたりはSAOというよりも、アクセルワールドやアイソレータを書いた経験が作者の中で生きているってことなんだろうし。

で物語自体は、とにかくSAOの原点に帰っているところが素晴らしい。

というか、結局のところ、SAOって、アインクラッドのデスゲームが、まさにアルファでありオメガである、ということだよね。

裏返すと、何を書いても、アインクラッドの「痛さ」には届かない。

少なくともアリシゼーション以前のSAOでは、アインクラッドのデスゲームが全て、ってことだね。

フェアリ・ダンス編でリーファというか直葉が言っていたとおり、アインクラッドの帰還者が現れると、もうそれだけでかなわない、ってこと。

結局、デスゲームの経験は、いってしまえば災害経験と言うか戦争経験と言うか、とにかく集団的なトラウマ体験であり、一種のホロコーストのようなものだったわけで、その過酷さと閉塞感は、何者にも代えがたい、ということだよね。

作者がそこまで考えてあのデスゲームの世界を作り出しのかどうかはわからないけど、とにかく、あのデスゲーム体験を最初にもってきたのは、SAOにとてつもないほどの物語的強度を与えている。今回の劇場版でそれが確認された感じ。

なので、今後も適宜、「始まりのアインクラッド」に戻ってくるんだろうな。
といか、はっきり言って、物語リソースとしては無尽蔵だよね。
となると、ゲーマスの茅場は、やっぱり神だった、ってことになるのだろうなぁ。
そして、その神を倒した英雄のキリト。

SAOの物語世界は、茅場×キリトで回っていることもよくわかったよ。

となると、AW世界における「始まりの諍い」というのも、やっぱり茅場とキリト絡みなんだろうなぁ・・・とか、思っちゃうよ。

ともあれ、オーディナル・スケール、面白かった。

今回は、キリト一座もみな出番があって活躍できたし、それぞれキャラの強さが増してきたのもよかった。

SAOは、痛みが提示されても、その克服劇がちゃんと用意されていて、大団円を迎えた時、一つの成長が達成されているんだよね。

ある意味で王道過ぎて地味な展開だけど、その安定したプロットがあるから、きっと海外でも人気を博しているんだろうな、って思ったよ。

まぁ、もちろん、キリトさん無双!ってのは、ちゃんと今時のラノベっぽくはあるのだけど、正直なところ、だんだんキリト無双も薄くなってきてるしね。

というか、キリト無双という設定を一度リセットして、素の、弱いキリトを見せるためにも、今回、はじめはARだったのかもしれない。

もちろん、最後はキリト無双なわけだけど。

ああ、そういう意味では、AR中での階層ボス攻略の際、キリトがあまりに鬼気迫る戦い方をした時、周りのプレイヤーがドン引きしていたけど、あれがホントなんだろうなぁ。

その意味で、アインクラッド帰還者は、ある意味で戦争帰還兵のようにある種のトラウマを心のなかに抱えているってことだよね。

アスナが陣頭指揮を取っている時にも、周りのプレイヤーが似たような反応をしていたし。

そして、この「普通のプレイヤーたちとは違う切迫感」を持つ限り、キリトたちの物語は、いくらでもつくれるんだろうな。

そして、このトラウマ体験がキリトたちにある限り、リーファやシノンは絶対、アスナたちには勝てないよね。まぁ、逆に、その経験がないことを理由に、絶対的な愛情を示すという展開もなくはないわけだけどw

時系列的にオーディナル・スケールの後には、アリシゼーションが控えていることはわかっているのだけど――設定上は、オーディナル・スケールが2026年4月、アリシゼーションが2026年6月で、2ヶ月しかないw キリトさん、大忙しだなw――、できれば、このオーディナル・スケールのノリで、アリシゼーション編がなかったルートの物語が始まっても面白いかも、と思った。

どうやら、電撃文庫のSAOでは、21巻からは、現実の2026年の時間軸に戻ってくるみたいなので、同じようなことを作者も考えているのかもしれないけれど。

うまくいけば、ワンピース同様、「終わらないコンテント」として大成するかもしれないね。

とりあえず、積読状態にある、アリシゼーション編の文庫版、読もうかなw
もちろん、ウェブ版は読了してるのだけどねw

オーディナル・スケール、面白かった!


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UQ HOLDER! 第140話 『ヨルダとの決着』 感想

2017-09-13 01:11:53 | UQH/ネギま!
たまたま別マガを見る機会があったので、超久しぶりにUQHを読むことができたのだけど、なんか、いつの間にか、ナギ救出作戦の全貌が描かれていたのね。

というか、これ、ネギま!の最後で端折られた部分だよね。
なんとか、始まりの魔法使い、今はヨルダだっけ、を倒して、ナギが生還するところ。

・・・なんだけど。

うーん、いまいち展開がよくわかっていないところであれこれ言うのも何だけど、このナギ救出劇は、正直なところ、いまさら感が強いなぁ。

これ、やるなら、やっぱりネギま!本編でやってほしかった。
それが無理なら、特別編、というかたちでもいいから、とにかくUQHの時間軸ではないところでやってほしかった。

というのも、今回の話の最後で、刀太が言っていたように、あくまでも今回の救出劇は、刀太の世界からみて、「この世界では・・・」という但し書きがつく決着なんだよね。

要するに、まぁ、こんな終わり方もあったんだけどさ!って感じで。

全く「本物感」がない。

もちろん、すでにUQHでは、平行世界を導入してしまっているから、いわゆる「この時間軸では・・・」と断ってしまえば、何でもあり、なわけだけど。

でもねー。
それじゃ、物語はつまんないんだよ。

別にネギま!に限ったわけじゃないけど、いわゆる「平行世界」って、おそろしく物語と相性が悪いと思っている。

だって平行世界を導入した時点で、ホント、何でもあり、になってしまうから。

たとえば、今回でも、いつの間にか、千雨がネギ君の嫁になった結末が、結婚式の写真で示されるわけだけど、それもまた「あり得べき中の一つの結末」でしかない、ってことになる。

つまり、せっかくのハッピーエンドも、生殺しのようにしか感じられない。

いや、ネギま!連載の頃から、千雨こそがネギのパートナーだと思っていたから、この写真には、そうだろ、そうだろ、って頷くところなんだけど、でも、何の感慨もわかないんだよね。

だって、あり得た一つの結末でしかないから。

しかも、ナギとエヴァが結ばれる・・・なんて蛇足な結末までついてくる始末。

いやいや、ナギ&エヴァのカップリングをするなら、いつの間にか途中「蒸発」していたアリカのその後を明らかにしないとおかしいだろ!って、さすがにここはツッコミを入れざるを得ない。

というか、このアリカ問題が解決していないから、ネギ&千雨カップルの誕生も、本当っぽく見えないんだよね。

でもさ、ネギま!本編をリアルタイムで読んだ人たちなら、魔法世界編に限らず、千雨がネギに示した献身がいかほどのものであったかは、よくわかっているし、連載中のリアリティからすれば、ネギが千雨に惹かれることには、それこそ、きちんとリアリティがあったわけで、だから、ネギま!本編の「結論」として、千雨が選ばれることは、ものすごく納得がいくはずの結末だったはずなんだよね。

でも、その自然な結末を、むしろ、この並行世界による処理は、ないがしろにしてしまう。

つまり、刀太たちが、テレビの画面をみるかのように、一つのお話しとして消費してしまう。

それは、徹底的に「ダメな」扱いだよ。

どうも、このあたりの、ゲーム由来の「マルチエンディング」に対して、今の漫画家は、勝手に怯えすぎているんじゃないかな。

それは、どうやら最終回を酷評で迎えそうな『Re:CREATORS』を見てても感じることで。

いや、もっと一本線の、起承転結のある物語に自信を持てよ、漫画家なら、とものすごく思うよ。

仮に平行世界を使うにしても、『君の名は』のように、時間の先後関係がある形に限って導入するくらいのことはしないと、結局、カタルシスも何もないものになってしまう。

もっといえば、漫画家は、あくまでも一つの原作をつくったオリジネーターとして君臨すればよくて、その平行世界バージョンたる「二次創作」は、ファンを含む第三者にまかせておけばいい。

そこに作者そのものがでしゃばる必要はなくて。

だって、作者自身がいくつもの解釈が可能なマルチエンディングを示した時点で、物語は物語であることを辞めてしまって、ただのキャラの背景事情に墜ちてしまう。

まぁ、もちろん、キャラだけを売りたいなら、それでいいんだけどね。

でも、そういうのは、やっぱりつまらないと思うんだよね。
だったら、設定資料集だけあればいいじゃん、と思ってしまう。


ということで、UQH、ホント、蛇足だなぁ。

まぁ、もともとは、刀太たちによる新世代の話としてUQHを始めて新たな読者を集めたかったのだろうけど、裏返すと、ネギま!本編を、それこそ旧世代の、おっさんたちが楽しんだ話として過去の遺物にして、読者層の新陳代謝を図るつもりだったのだろうけど、その目論見は外れて、UQHといえども、結局、旧ネギま!読者が食いついてきたくらいだったんだろうな。

それは、別マガに移ってから、ネギま!2、なんて副題が付けられてしまったところで明らかなわけで。

それゆえ、今回のようなナギ救出劇やネギ&千雨エンドが描かれることになったのだろうけど、しかし、やっぱりこれは、このUQHという枠組みの中では、蛇足でしかない。

まぁねー、
要するに、続編、ってむずかしいね、ってことなんだな、きっと。
二匹目のどじょうは、そうそういないってことだよね。
あーあ。
なんか、ネギま!本編まで汚されてしまったようで、ホント、残念だよ。

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