パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

利休にたずねよ

2013年12月14日 19時09分10秒 | 徒然なるままに
映画を見る楽しみの一つに
そこに写っている風景(自然)、建物、家具がある
女性ならファッション・髪型などが追加されるだろう
実際最近見た映画も風景を見に行ったと言っていいかもしれない
「大統領の料理人」、「モネ・ゲーム」はフランスの自然・建物を見たかった
アクション映画の「007スカイフォール」も記憶に残っているのは
スカイフォールに向かう荒涼とした風景の素晴らしさ
思わずいつか行こうと思ったりした

家具類の凄いのはヴィスコンティの映画
ヨーロッパの貴族というのは半端じゃない贅沢さに満ちている
あの豪華さは映画セットじゃ表現できないだろう

さて今日出かけた「利休にたずねよ」
もそうした興味で出かけた

楽しみの一つ「本物の樂茶碗」の登場は
テレビのインタビューで見たような気がするが
その他にも普段当たり前に思っている日本の自然をどのように
カメラが捉えるのか
つまりストーリーとは関係ないところの興味が先立っていた

この映画、予想以上に楽しめた
予想以上というのは失礼かもしれないが
正直いい意味で期待を裏切った

ただ今後テレビ放送されたりするのは
楽しむには少しキツイかなという気がする
動きのないゆっくりとした展開は見る方にも集中を要求するが
家庭のリビングのなかではその世界に入りきれないだろう
(余計なお世話か?)

美の追求者千利休
茶の湯における美とは何かわからないが
とにかく一般の生活上の知恵とか才能とは別のところにある
しかし、誰もがその素晴らしさを納得せざるをえない利休の存在

権力よりも美に額ずく
そしてその美は自分が判断すると言い切る
絶対的な審美眼への自信
そこに求道者の姿しか見えないが
妻はフト尋ねる
心に誰か(女性が)いるのでは

その秘密はなかなか明かされない
映画的にもなるべく明かさないようにしているらしく
ポスターにもその人は写っていない

これは映画というより原作(読んでないから分からないが)に
原因があるかも知れないが、このエピソードと利休のその後の
活躍との関係が少し分かりにくい

全体的に言えそうなことだけれど
日本の映画はビルドゥングス・ロマンのような
主人公が試行錯誤しながら自分で成長していく
というより何か絶対的な師匠とかが深遠なそうな会話で
彼を導くみたいなパターンが多い

フェルメールを描いた映画もあの中のフェルメールは
美の追求者というより奥さんの尻に敷かれた
単に絵の好きな人物でしかなかったし
アマデウスにおけるモーツァルトもどういうわけか音楽的才能は
ずば抜けているが社会的な生活はサリエリから見れば下品極まりない

つまりあちらの映画のほうが
一人の欠点の多い人間として描こうすする姿勢が大きい
日本はどうも教育的になってしまう

これは今までずっと思っている不満
人間なんてその時の判断であっちにもこっちにもいく不完全な存在
それをまるで出来上がったように聖人のように描く姿はどうも気に入らない

この映画がそうだと言うわけではないが
利休の美を全面的に良しとしているのは
少し見方が狭いのでは

秀吉のえげつない黄金の茶室でさえ
見方によっては美は存在するかもしれない

そんな風に思うのは自分は京都が大好きで
それこそ年に3回ほど訪れては色んな所に行ってきているが
自分の好きな京都は必ずしも侘び寂びの京都ではないということ

むしろ貴族社会の影響の見られる洗練された雅に心惹かれる
利休の凝縮した密度の濃い小宇宙よりも
直線のスッキリした線からなる貴族の建物
そして彼らが美しいと感じたものに自分も美しいと感じてしまう
そしていつも思うのは、
「この趣味の良さにはちょっと追いつけないなあ」
ということ

侘び寂びは何となく分かるだけに真似出来そうな(?)気がするが

それにしても、この映画がいい映画だったことには間違いない
確かに濃密な時間が流れている

だがこの濃密な時間は男の理想というか憧れというか
絶対女性がつくった物語ではないことを感じる

結局男はよく言われるようにロマンティスト
その場の気分に女性は溺れることはあるかも知れないが
とことんロマンティストなのは男なのだとつくづく思う

市川海老蔵・中谷美紀 なかなか役に入り込んでよかった
問題児(?)海老蔵がここまでいいとは思わなかった
後は秘密の、、、この人も良かった
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メモリ増設

2013年12月13日 20時40分52秒 | 徒然なるままに
最近とみに遅くなったと感じる自分のiMac
レインボーの処理中を示す球がいつまでも回っている
iPhotoなんて立ち上がるまで待ってる時間の長いこと
調べてみるとメモリに全然余裕が無い

で早速メモリの増設を思い立ったが
女性の多くの人がするように、購入日の日付を
どこかに書いておくなんてことはしなかったら
どの型番かわからない
調べてみる2008earlyのタイプということがわかったが
時の経つのは速いものでもうこんなに経っているのかとつくづく思う

どうせならたっぷり増やしてやろうと思ったが
このタイプは最高でも4Gまでしか増設できない
仕方ない!と諦めてバッファロー製のメモリをアマゾンで購入
今届いたところ

早速、メモリの交換をしてみると
うん、快適!
6380円分の効果は認められる

これでしばらくはこのiMacを使い込んでいけるかな

使えるものは大事に使わねばと特に考えているわけではなく
以前みたいに新しい商品が欲しくて仕方ないとは
思わなくなった
今は入ってくるお金が少なくなってしまったからというより
気力というか欲がなくなってきた感じ

物が欲しくないというのは少しつまらない人生か?
それとも幸せな人生か?

とりあえず今欲しい物は、、、、
なんだろう?
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張成沢氏の死刑と大津皇子の変

2013年12月13日 08時33分49秒 | あれこれ考えること
今日は休み(と言っても還暦過ぎの最近はいつも休みみたいだが)
そこに飛び込んできたニュースは
そこまではしないと思っていたがあっさりと執行してしまった張成沢の死刑報道

第一感 怖い国だな
弁明の機会は与えられたのか?
結局、見せしめというか脅しの恐怖政治で国をまとめようとしているのか?
そんな当たり前の事が頭に浮かんだが、続いて浮かんだのは
むかし日本でも行われた似たような事件
「大津皇子の変」

天武天皇の死去の後、皇太子の草壁の皇子の皇位継承を安全にするために
目障りな大津皇子を理不尽な謀反の罪でとらえ
いきなりの裁判と死刑の執行
全くそっくりじゃないだろうか

もっとも大津皇子は、姉の大伯皇女と間に交わした万葉集にも
自分の立場が危ういことを自覚したような歌が残っている
(その姉弟の歌の感情に迫ること)

結局洋の東西、時代を問わず人間の考えることは同じということ
権力者は邪魔な存在は何らかの理由をつけて始末してしまう
後世に都合の悪い証拠が残らぬように全部処理してしまう

これはそんなことはしないと無条件に思われているアメリカでも
行われているかもしれない
アメリカがどうのこうの
というより、人間はそういうことをする存在
ということ

ということで、人間を理性的な存在との前提で物事を決めていくのは
少しばかり危険
人間はとんでもない理不尽な間違いを起こす可能性に満ち満ちている
その不完全さを加味した前提で物事を進めていかないと
結局は自分たちの首を絞める世の中になってしまう

北朝鮮のこの事件が対岸の出来事ではなく
知らないうちにこの国にも行われるようになる可能性は
全然ないことではない


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あれこれ真面目に考えてみた

2013年12月11日 19時05分51秒 | あれこれ考えること
「カラマーゾフの兄弟」が(ロシア正教の)キリスト教の範囲内での話と言われるのは、
たとえ小説の中に全人類に適用されるエピソード・思想が含まれているとしても、
キリスト教に馴染みのない日本人には納得できる指摘かもしれない。

同様に当たり前(?)とされている形而上学上の哲学、認識論・存在論も実は
ヨーロッパが生み出したもの、つまりはヨーロッパ人の思考が生み出した
局地的な考えの一つに過ぎないと考えることは特に変わった考え方でもないかも知れない。

認識論は理性をベースにしているが、理性の機能が期待できない子ども・狂人に
果たして有効なのかと考えると、問題は地域差・文化の違いだけではないのかもしれない。

 ここで話は飛躍するが、(これも実質的にはヨーロッパ人の思考傾向に基づくが)
相対性理論などの光の速さをベースとした物理学は呆れるほど精緻な理論で成り立っているが、
光を感じることの出来ない、つまり目の見えない人にはどういった意味があるのだろうかと考えてしまう。
また、どうやって説明をするのだろうか?

簡単に一般化できると思っていた事柄が案外そうではない、そんなことが言えるのかもしれない。
この意味ではヨーロッパ人とは違うアジア人・アフリカ人の思考方法をもっと探っていくと
興味深い結論に至るかもしれない。(あるいは同じような結論に至るか?)

ヨーロッパ人の(現代の思考方法の主流になっているものの)凄いところは
思考でとことん突き詰めて行くところ。人間の限界すらも理屈で説明しようとする。
多くの名を成した人物は、長年かけて得た深い思考を自分だけのものにとどまらず
それを人のために有益な社会化出来る活動に結びつけようとする。
つまり「象牙の塔」で終始しないようにと考える。
(物理学は初めから社会的な活用を前提にされているが)

ここで現実世界の活動に移ろうとすると、分析だけでは済まない問題が多く発生することになる。
マルクスもニーチェもサルトルも、その行動に至る方法論は賛同者も反対者もいた。
しかし評価すべきは、社会と何らかの関係を積極的に持とうとしたこと。
ヘッセの「ガラス玉演戯」も特権階級の立場に留まることへの精神的な危惧を持った名人の事が書かれている。
観念的な小説ではあるけれど、このエピドードが登場するだけでヘッセがいかに深く思考していたかが分かる。

ところが自分はどうか?
自分はこんな風に一見どうでもいいこと、得にも損にならないことを考えるのが好きだし、
その時間は自分なりに充実していると感じるし、それが個性の一つになっていると感じるけれど
社会的に何かをするという役割を果たしていない。
自分があれこれ考えるうち現時点で得た結論というの、はリベラルアーツ、あるいは世界教養が(亀山郁夫氏が言っていたと思うが)
より良い世界のためには必要ということ。
最後の最後になって人が間違わない判断をするためには、こうした普段は表に出ない概念が心の奥に潜んでいることが
必要と考えるが、このことをもう少し多くの人に広める活動をしなくてはいけないかもしれない。
たとえそれが一見上から目線のように感じられたとしても。
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マルクス・ニーチェ・フロイト・フッサールを噛じって!

2013年12月10日 18時57分21秒 | あれこれ考えること
先日図書館から本を借りた
初めての体験
お金の節約にはいいが、読みたい本は見つけられずにいたが
ものは試しにと2冊引っ張りだした
「現代思想の源流」マルクス・ニーチェ・フロイト・フッサール
「応仁・文明の乱」

世の中には物事を上手く解説・説明できる能力を持った人がいるもので
前者のような本は、つくづくそういう人の存在をありがたく思う
そんなことが書いてあったのか、自分は何を読んでいたのか
と情けなく思うこともあるが、この手の解説書を読んで解ったつもりになるのは
原典(もちろん翻訳)を読んで未消化になることよりはいいかもしれないが
それでも、本物と対峙しないとその迫力は感じられない

人間生活は観念だけで完結するものではなく、物があって初めての生活となる
だからこそ物をベースとした科学的な仕切り直しが必要として
マルクスは彼の思索を深めた

与えられた世界は解釈の問題
と考えたのはニーチェ
やはり観念的な世界に終始するのは実はそれほど
確かなことではない、、
なんだかショーペンハウエルの「意志と表彰としての世界」を思い出してしまったが
目の前のある世界は、疑うことのない意識に客観的に与えられた存在ではなく
既に解釈がなされた世界

これはショーペンハウエルだけでなく仏教の「色即是空」に通じるのではないか
と思ったりした
ニーチェはショーペンハウエルから、ショーペンハウエルは仏教から影響を受けているから
こうした結論に至っても不思議はない

人は自分のことをどれだけ知っているか
無意識という存在
フロイトならずとも人は自分で自分をコントロールしきれるほどの存在ではない
恋の悩みも快感も脳内に流れる微小な電流の出来事
あるいはほんの僅かな物質(薬)のなせる技
コントロールできるか否かは別として、現状の正確な把握・解釈に取り組んだ
自然科学志向の心理学者のフロイト

デカルトが「我思う故に我あり」と疑うことの出来ないものまで突き詰めていった
結論からスタートするフッサール
確かに、この前提だけでは厳密に考えていくと少し心もとない


以上が自分にとって気になった点
緻密ではあるが現代は難しい時代に入ってしまっている
それは音楽においてもシェーンベルク・ベルク・ヴェーベルンを始めとした現代音楽にも感じられること
今は音を楽しむと言うより難解なものになっている
ところがそれでも時代の気分は現代音楽のほうがしっくり感じることがある
バロックの収まりどころのいい音楽は耳には楽に感じられても
今の感情には訴えない

現代思想の人々の葛藤は、ブーレーズ・シュニトケ・ノーノの試みと
気分的にも通じることがあるような気がする
もっと言ってしまえば素粒子論・宇宙論もゲーデルの不完全性定理も
似た雰囲気を持っているのではないか
つまりは時代の影響、具体的にどうだとはいえないが
確かにそれぞれの領域で感じている本質は
どこか全て通じ合っているような気がしてならない

素人の良さは、こうしていい加減な空想ができること
理屈があっていなくても、話に飛躍があっても誰かから文句が出るわけでもない

図書館で借りた本の正しい感想や解釈ではないかもしれないが
感じるといったことに関して言えば
表現の拙さはあるけれど、こんなふうに刺激を受けたということ

それにしても、歳のせいかどんどん忘れる
困ったものだ
もっとも忘れるくらいなら自分にとって大したことではないのかもしれないが

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熱田神宮

2013年12月09日 19時02分45秒 | 旅・旅行
国内旅行という程でもないが思い立って熱田神宮に出かけた
昨年から続いている古事記がらみの興味からだが
以前訪れた時は大した感動はなかったが今度はどうか?

熱田神宮といえば草薙剣が収められているところ
実物が見れればいいのだが、そんなわけにも行かず
目に入ったのはこんな立て札

これがその建物


それにしても、こころの小径といわれる森のなかの路は歩いていて本当に気持ちよかった
幾種類の鳥の声があちこちから聞こえて、不意に今年出かけたドイツのハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓での
鳥のさえずりのにぎわいを思い出してしまった

鳥たちだけではない木漏れ日も何かしら神聖な感じ


自然というものは本当に心を静かに穏やかにする力があるものだ

昨日はまだまだ七五三のお宮参りをしている人が多かった
おじいちゃん・おばあちゃんの幸せそうな顔がいたるところに
孫はかわいい!そんな無条件の愛情がこちらも幸せにしてくれる

熱田神宮には信長塀というものがある

古事記より戦国時代のほうが興味のある人の方が多いだろうが
自分はたいした感動もなく塀を素通り

お伊勢さんにも行ったし、熱田さんもこの日で二回目
神社がらみでは次は石上神宮、大神神社
あたりが面白そう
その前に歴史の勉強をしなければ!

それにしてもヤマトタケルは何故草薙剣を
熱田さんにおいたまま出かけたのだろう?
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流れを変えるのは難しい

2013年12月07日 21時19分48秒 | サッカー
Jリーグ最終節
アドバンテージがあった横浜は川崎に負け
広島は鹿島に勝って逆転優勝

結果だけを見ると劇的な感じがするけど
今年は奇妙な印象のシーズンだった
普通なら最後数試合はどこかのチームが勢いに乗って
勝ち続けるのだが今年は、どうもどのチームも勝負弱い

横浜も浦和も鹿島も肝心なところで負ける
広島は悪い流れを引きずらなかったのが良かったのかもしれない

ところで、流れ
試合の流れというより「運」のような流れ
これを変えるのは難しい
今日の横浜も先週の新潟戦の悪い流れを変えることができなかった
チャンスはあったけど、雰囲気として点が入る気がしない

この試合だけではない今年のジュビロの転落
昨年のガンバのJ2降格も同じ
もちろん負けに原因がないことことはない
しかし、実力とは違う何かの力が働いて
一旦その流れにハマってしまうと抜け出すのが
とてもむずかしくなるようだ

流れを変える選手とよく言われるが
途中から入ってできることは流れというより
試合のリズムの変化
運の流れは天のみぞ知る世界
最近ますますそんな気がする

今年のJリーグは優勝争いよりも得点王争いが
より興味深かったのではないか
大久保26点 川又23点 柿谷21点 豊田20点
大迫19点 工藤19点
大久保があるときから抜けだして勢いの乗った感じだが
23歳の選手同士の争いは結構面白かった
技術・運・勢いそれらを総合してサッカーの神様は
どんな未来を描こうとしているのか
想像することはなかなか楽しい

今年大ブレークした川又は来年も同じように活躍できるか?
柿谷・大迫・工藤もコンスタントに活躍できるか?

川又は久保竜彦みたいでそれなりに何処に行ってもできそう
柿谷はセンスの塊で偶然のシュートというより必然の得点ぽいから
大崩はしないかも しかし、線がまだ細いかな
大迫は出だしが良ければいいかもしれないが、足踏みすると大変かも
工藤は真面目に走るから平均的に頑張れるかな
サッカーは味方に恵まれないと得点も重ねられないが
味方に恵まれているのは大迫
工藤もレアンドロ・ドミンゲスが活躍できれば今年並みに活躍できるかな
柿谷は得点源が彼に限られすぎているのでマークがきつくなり苦労するかもしれない
川又は仲間にそんなに恵まれているわけでもないのに点をとっているから
実力が本物か、今年は勢いだったのかが勝負の年

それにしても、勝負の世界は運の流れを掴まないといけない
運などと不確かなものを頼って神頼みするのは
科学的ではないが、
それでも何かまるで意図があるような運の采配を感じることは多い

あとになって、そうだったのか
と納得できるような天の采配
しかし、挽回する時間を与えられていない人間もいるわけだから
予定調和みたいな結論にいつも辿り着くわけではない

とりあえずは対戦相手が決まったワールドカップ
それまでに天の采配は誰の頭上にとりあえずのチャンスを与えるのだろうか




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知らないうちに、、、

2013年12月05日 19時30分52秒 | Weblog
特定秘密保護法案が参議院保安特別委員会で
強行採決により可決された

防衛・外交・スパイ活動・テロ活動の4項目の
「特定秘密を取り扱うことを業務とする者」と「公益上の必要により特定秘密の提供を受け、これを知得した者」
による漏えいだけでなく、特定の「取得行為」およびその未遂、共謀、教唆、煽動をも処罰対象とする

処罰の対象となる取得行為 

1.人を欺き、人に暴行を加え、又は脅迫する行為
2.財物の窃取
3.施設への侵入
4.不正アクセス行為
2、3、4以外の特定秘密の保有者の管理を侵害する行為

上記の取得行為の未遂、共謀、教唆、煽動

言葉上は問題なさそうに見えないでもないが、
怖いのはここからどのように拡大解釈されるか?ということ

秘密の定義があやふや、都合の悪い情報は「秘密」扱いにされて
国民のもとには伝わってこない
原発の非常事態だって、防衛上の外交上の秘密と定義されれば
公務員はだんまりを決め込むしかない
報道記者はその調査を出来ない

自民党は今の時点での与党だからこのような法律があったほうが良い
と考えるかも知れないが、果たして自分たちが野党になる可能性を
少しでも考えたのだろうか?

秘密の定義は内閣、と官僚たちで決められるらしいが
内閣はいつ他の政党に取って代わられるかわからない
代わる事態になった時、情報の伝達はその際に円滑に行くとは考えにくい
とすると結果的に秘密をコントロールできるのは官僚だけになってしまう
それでいいのか!

この論旨は多少大雑把で間違いがあるかも知れないが
とにかく、危険極まりない法律ということは想像できる

想像すること、
それは残念ながら市民全体ができるわけじゃない
なにか怪しいと感じるセンサーを持った人とか
理屈の上で危険を感じる人が想像することができる

国家の秘密を守るのは当たり前
公務員は守るべきで
それを規制する法律になんでそんなに反対が起こるのか
と考える人がいても不思議ではないし
確かにそういう人は多い

しかし、心配症な、未来に責任を持つ気持ちを持った人は
出来る限りの力で訴えなければいけないかもしれない

ホント、不安な感じ
段々変な方向に進んでいかないか

ナチスが躍進した時、ドイツ国民はナチスをコントロールできると思っていた
ところが知らないうちに、無自覚にナチスのいうようになってしまった

そしてあるナチスの幹部は特別な妄想癖とか特別な人間ではなく
後々調べてみるといたって普通・平凡な人間だったという

つまり、平凡・普通の小市民が時代の雰囲気に勢いに負けて
とんでもないことを犯す可能性がある
こんな状態に日本がならなければいいのだが、、

こんなのを「決めることのできる政権」
とは言わないと思うのだけれど

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自分の居場所

2013年12月04日 20時08分31秒 | あれこれ考えること
今更自分探しをする年齢でもないが
それでもいくつになっても他人と比較しては
自分が心地よくいられる姿を考えてしまう

時々、ここには自分と同じ種類の人間がいる
と感じることがある
そんな風に感じるのは普段が自分とは(感じ方が)
違うタイプの人達と多く接しているせいかもしれない
そんな時、ここは自分のいる場所ではない
と思うわけなのだが、反対の心地よさそうな場所というのは
とりあえず具体的にはコンサート会場はその一つ

と言っても、この間のポール・マッカートニーのライブとかは
少し違う
コンサートはコンサートでもクラシックのそれのほうが
自分と似た人を感じることができる

それがあまり著名な演奏家でファンが無闇矢鱈と集まるような時とか
ラ・フォル・ジュルネの様なコンサートでは
残念ながら感じることは出来ない
(単にその時の精神状態の違いにすぎないかもしれないが)

自分が心地よい場所、自分の居場所
それは言い切ってしまうならば、空想の世界を作ることが出来る世界
と言っていいかもしれない

確かに自分は、あまり良いことではないかもしれないが
実生活にはあまり関心がない
貪欲にお金を稼ごうとか、有名になりたいとか、異性にもてたいとか
そんなことはあまり思ったことはなかった
その他の頭の中で起きていることにしか興味がなかった
と言っていいかもしれない
そしてその為に家族には少し批判的に思われてきたが
それでもこの歳までそのまま生きていると
個性の一部と半ば諦めて認められる様になっている

ところで、自分の居場所をこんな風に自覚しているのであったら
もう少し、生産的なものにしなきゃダメなんだろうけど
そこが出来ないところが平凡たるゆえん

少しだらしないし、情けないかもしれないが
これもまた人生!
ってところかもしれない

しかし、どうにもならないことを
グダグダ考える(思うこと)は楽しい
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1976年のバイロイト

2013年12月03日 20時55分38秒 | 旅・旅行
本棚をゴソゴソとしていたら、こんな冊子(パンフレット)が見つかった


1976年、バイロイトに行った時に購入したもの
音楽祭の全体を紹介するパンフレットで
この年はちょうどバイロイト音楽祭100周年の年にあたっていたので
音楽祭の歴史やら、歴代の歌手が網羅されている

このパンフレットをめくっていくと小さなチケットが
ページの間に挟まっていた(写真の左下)


8月19日の日付が記入してある
うっすら思い出すと公演のチケットではないようだ
確か本番のチケットはもう少し詳しく席の表示がしてあったはず
公演が休みの時に祝祭歌劇場を見学した際のものと思うしかないが
劇場を見るだけで入った記憶はどうも怪しい
でも、多分そのチケットだろう

この年のトリスタンとイゾルデ、パルジファルを
見ることが出来たのだが、今にして思うと本当にラッキーだった
自分にとっては遅く訪れた疾風怒濤の時代の無鉄砲な旅で
バイロイトのチケットなんて当然手にはしていなかった

それどころか、ユースホステス泊の旅を続けて
バイロイトに来た時は電車で降りる時になっても
泊まるところは確保していなかった

ところが、電車で隣に乗り合わせたおばあさんと
親しく話すうちに彼女も泊まる場所が決まっていないという
そこで、それなら一緒に泊まりましょうということになって
見ず知らずのひとと一つの部屋を借りることになった

でも色っぽい話はなし
着替える時は「出て行って!」の一声
部屋の外で終わるまで待つだけ

でもこの人はとても品の良い方で
ご主人は確か化学者だったと記憶している
彼女との会話は英語で名前はキャサリン・デイワットさん

このキャサリンさんのおかげで貴重なバイロイトのチケットを
手にすることができることになる

翌日祝祭歌劇場近くに二人で行き
そこで行ったのは「Suche Karte」と紙に書いてチケットを売ってくれる人を探すこと
周りには自分たちだけでなく沢山の人が同じようにしていた
ユーゴスラビアだったかルーマニアだったか、とにかくそちらの方から来た人と
並んで待っていた

キャサリンさんの年齢は70歳くらい
それが幸いしてか、それともお金がありそうに見えたのか
一人の男が声をかけてきた
結論から言えば
100周年の記念のシェロー演出・ブーレーズ指揮の指輪のチケットを
譲ってもいいとのこと
それで、自分は彼女の隣にいたから同行者として譲ってもらえることになった

その価格は、一体相場より高いのか、そうでないのかは
わからなかった(本当の価格も知らなかったから)
でもそんなに理不尽な値段ではなかったような気がした
男に言わすれば
「彼女は歳をとっているから、これから先は
 この公演を見る機会は少ない、だから若い他の人ではなくて
 彼女に譲ることにする」とのこと

というわけで、自分も指輪の4日分を手にした
彼女は更に運の良いことに、当日の「トリスタンとイゾルデ」
のチケットも手にすることが出来た

100周年のバイロイトらしい画期的なシェローの演出
ブーレーズ指揮の指輪
普通なら大喜びということになるのだろうけれど
手にしたのはいいけど自分はガッカリ
なぜなら自分が見たかったのはヴィーラント・ワーグナーの演出のような
抽象的な真っ暗な舞台での指輪で
タキシードを着るようなヴォータンの演出ではない

それでまた紙に書いて会場付近をウロウロ
「Tauche karte」チケット交換して下さい

結局、交換に応じてくれて手に入れたのが
「トリスタンとイゾルデ」2日分と「パルジファル」2日分
このホルスト・シュタイン指揮のトリスタンが自分にとっての歌劇体験だったので
それはそれは印象的なものとなった
本当に感動した

今年読んだ吉田秀和氏の本に
彼もこの年のバイロイトにいってトリスタンを聴いたが
ホルスト・シュタインの指揮は平凡でつまらない
と酷評されていたが、比較対象出来ない自分はそんな耳もなく
ひたすら音楽だけに集中して充分過ぎるほど堪能できた

そういえばキャサリンさんが見たトリスタンは
カルロス・クライバー指揮したものだった
見終わって感想を聴くと「beautiful」彼女は何度もそうつぶやいた
でもなんだか「beautiful」の表現ではなんか違うんじゃないかな
というような気持ちになったことを覚えている

今年37年ぶりにドイツ・オーストリアへ行って
昔訪れた個所を廻ったわけだけれど
その場に経つと記憶は割と鮮明によみがえり
今の年齢のことをすっかり忘れてしまう自分がいた

バイロイト、仮にもう一度自分を振り返る旅をするなら
ここは外せない!

しかし、あの時バイロイトを体験できたのは
本当にラッキーなことだったとつくづく思う



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