パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

あれこれ真面目に考えてみた

2013年12月11日 19時05分51秒 | あれこれ考えること
「カラマーゾフの兄弟」が(ロシア正教の)キリスト教の範囲内での話と言われるのは、
たとえ小説の中に全人類に適用されるエピソード・思想が含まれているとしても、
キリスト教に馴染みのない日本人には納得できる指摘かもしれない。

同様に当たり前(?)とされている形而上学上の哲学、認識論・存在論も実は
ヨーロッパが生み出したもの、つまりはヨーロッパ人の思考が生み出した
局地的な考えの一つに過ぎないと考えることは特に変わった考え方でもないかも知れない。

認識論は理性をベースにしているが、理性の機能が期待できない子ども・狂人に
果たして有効なのかと考えると、問題は地域差・文化の違いだけではないのかもしれない。

 ここで話は飛躍するが、(これも実質的にはヨーロッパ人の思考傾向に基づくが)
相対性理論などの光の速さをベースとした物理学は呆れるほど精緻な理論で成り立っているが、
光を感じることの出来ない、つまり目の見えない人にはどういった意味があるのだろうかと考えてしまう。
また、どうやって説明をするのだろうか?

簡単に一般化できると思っていた事柄が案外そうではない、そんなことが言えるのかもしれない。
この意味ではヨーロッパ人とは違うアジア人・アフリカ人の思考方法をもっと探っていくと
興味深い結論に至るかもしれない。(あるいは同じような結論に至るか?)

ヨーロッパ人の(現代の思考方法の主流になっているものの)凄いところは
思考でとことん突き詰めて行くところ。人間の限界すらも理屈で説明しようとする。
多くの名を成した人物は、長年かけて得た深い思考を自分だけのものにとどまらず
それを人のために有益な社会化出来る活動に結びつけようとする。
つまり「象牙の塔」で終始しないようにと考える。
(物理学は初めから社会的な活用を前提にされているが)

ここで現実世界の活動に移ろうとすると、分析だけでは済まない問題が多く発生することになる。
マルクスもニーチェもサルトルも、その行動に至る方法論は賛同者も反対者もいた。
しかし評価すべきは、社会と何らかの関係を積極的に持とうとしたこと。
ヘッセの「ガラス玉演戯」も特権階級の立場に留まることへの精神的な危惧を持った名人の事が書かれている。
観念的な小説ではあるけれど、このエピドードが登場するだけでヘッセがいかに深く思考していたかが分かる。

ところが自分はどうか?
自分はこんな風に一見どうでもいいこと、得にも損にならないことを考えるのが好きだし、
その時間は自分なりに充実していると感じるし、それが個性の一つになっていると感じるけれど
社会的に何かをするという役割を果たしていない。
自分があれこれ考えるうち現時点で得た結論というの、はリベラルアーツ、あるいは世界教養が(亀山郁夫氏が言っていたと思うが)
より良い世界のためには必要ということ。
最後の最後になって人が間違わない判断をするためには、こうした普段は表に出ない概念が心の奥に潜んでいることが
必要と考えるが、このことをもう少し多くの人に広める活動をしなくてはいけないかもしれない。
たとえそれが一見上から目線のように感じられたとしても。
コメント
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