映画を見る楽しみの一つに
そこに写っている風景(自然)、建物、家具がある
女性ならファッション・髪型などが追加されるだろう
実際最近見た映画も風景を見に行ったと言っていいかもしれない
「大統領の料理人」、「モネ・ゲーム」はフランスの自然・建物を見たかった
アクション映画の「007スカイフォール」も記憶に残っているのは
スカイフォールに向かう荒涼とした風景の素晴らしさ
思わずいつか行こうと思ったりした
家具類の凄いのはヴィスコンティの映画
ヨーロッパの貴族というのは半端じゃない贅沢さに満ちている
あの豪華さは映画セットじゃ表現できないだろう
さて今日出かけた「利休にたずねよ」
もそうした興味で出かけた
楽しみの一つ「本物の樂茶碗」の登場は
テレビのインタビューで見たような気がするが
その他にも普段当たり前に思っている日本の自然をどのように
カメラが捉えるのか
つまりストーリーとは関係ないところの興味が先立っていた
この映画、予想以上に楽しめた
予想以上というのは失礼かもしれないが
正直いい意味で期待を裏切った
ただ今後テレビ放送されたりするのは
楽しむには少しキツイかなという気がする
動きのないゆっくりとした展開は見る方にも集中を要求するが
家庭のリビングのなかではその世界に入りきれないだろう
(余計なお世話か?)
美の追求者千利休
茶の湯における美とは何かわからないが
とにかく一般の生活上の知恵とか才能とは別のところにある
しかし、誰もがその素晴らしさを納得せざるをえない利休の存在
権力よりも美に額ずく
そしてその美は自分が判断すると言い切る
絶対的な審美眼への自信
そこに求道者の姿しか見えないが
妻はフト尋ねる
心に誰か(女性が)いるのでは
その秘密はなかなか明かされない
映画的にもなるべく明かさないようにしているらしく
ポスターにもその人は写っていない
これは映画というより原作(読んでないから分からないが)に
原因があるかも知れないが、このエピソードと利休のその後の
活躍との関係が少し分かりにくい
全体的に言えそうなことだけれど
日本の映画はビルドゥングス・ロマンのような
主人公が試行錯誤しながら自分で成長していく
というより何か絶対的な師匠とかが深遠なそうな会話で
彼を導くみたいなパターンが多い
フェルメールを描いた映画もあの中のフェルメールは
美の追求者というより奥さんの尻に敷かれた
単に絵の好きな人物でしかなかったし
アマデウスにおけるモーツァルトもどういうわけか音楽的才能は
ずば抜けているが社会的な生活はサリエリから見れば下品極まりない
つまりあちらの映画のほうが
一人の欠点の多い人間として描こうすする姿勢が大きい
日本はどうも教育的になってしまう
これは今までずっと思っている不満
人間なんてその時の判断であっちにもこっちにもいく不完全な存在
それをまるで出来上がったように聖人のように描く姿はどうも気に入らない
この映画がそうだと言うわけではないが
利休の美を全面的に良しとしているのは
少し見方が狭いのでは
秀吉のえげつない黄金の茶室でさえ
見方によっては美は存在するかもしれない
そんな風に思うのは自分は京都が大好きで
それこそ年に3回ほど訪れては色んな所に行ってきているが
自分の好きな京都は必ずしも侘び寂びの京都ではないということ
むしろ貴族社会の影響の見られる洗練された雅に心惹かれる
利休の凝縮した密度の濃い小宇宙よりも
直線のスッキリした線からなる貴族の建物
そして彼らが美しいと感じたものに自分も美しいと感じてしまう
そしていつも思うのは、
「この趣味の良さにはちょっと追いつけないなあ」
ということ
侘び寂びは何となく分かるだけに真似出来そうな(?)気がするが
それにしても、この映画がいい映画だったことには間違いない
確かに濃密な時間が流れている
だがこの濃密な時間は男の理想というか憧れというか
絶対女性がつくった物語ではないことを感じる
結局男はよく言われるようにロマンティスト
その場の気分に女性は溺れることはあるかも知れないが
とことんロマンティストなのは男なのだとつくづく思う
市川海老蔵・中谷美紀 なかなか役に入り込んでよかった
問題児(?)海老蔵がここまでいいとは思わなかった
後は秘密の、、、この人も良かった
そこに写っている風景(自然)、建物、家具がある
女性ならファッション・髪型などが追加されるだろう
実際最近見た映画も風景を見に行ったと言っていいかもしれない
「大統領の料理人」、「モネ・ゲーム」はフランスの自然・建物を見たかった
アクション映画の「007スカイフォール」も記憶に残っているのは
スカイフォールに向かう荒涼とした風景の素晴らしさ
思わずいつか行こうと思ったりした
家具類の凄いのはヴィスコンティの映画
ヨーロッパの貴族というのは半端じゃない贅沢さに満ちている
あの豪華さは映画セットじゃ表現できないだろう
さて今日出かけた「利休にたずねよ」
もそうした興味で出かけた
楽しみの一つ「本物の樂茶碗」の登場は
テレビのインタビューで見たような気がするが
その他にも普段当たり前に思っている日本の自然をどのように
カメラが捉えるのか
つまりストーリーとは関係ないところの興味が先立っていた
この映画、予想以上に楽しめた
予想以上というのは失礼かもしれないが
正直いい意味で期待を裏切った
ただ今後テレビ放送されたりするのは
楽しむには少しキツイかなという気がする
動きのないゆっくりとした展開は見る方にも集中を要求するが
家庭のリビングのなかではその世界に入りきれないだろう
(余計なお世話か?)
美の追求者千利休
茶の湯における美とは何かわからないが
とにかく一般の生活上の知恵とか才能とは別のところにある
しかし、誰もがその素晴らしさを納得せざるをえない利休の存在
権力よりも美に額ずく
そしてその美は自分が判断すると言い切る
絶対的な審美眼への自信
そこに求道者の姿しか見えないが
妻はフト尋ねる
心に誰か(女性が)いるのでは
その秘密はなかなか明かされない
映画的にもなるべく明かさないようにしているらしく
ポスターにもその人は写っていない
これは映画というより原作(読んでないから分からないが)に
原因があるかも知れないが、このエピソードと利休のその後の
活躍との関係が少し分かりにくい
全体的に言えそうなことだけれど
日本の映画はビルドゥングス・ロマンのような
主人公が試行錯誤しながら自分で成長していく
というより何か絶対的な師匠とかが深遠なそうな会話で
彼を導くみたいなパターンが多い
フェルメールを描いた映画もあの中のフェルメールは
美の追求者というより奥さんの尻に敷かれた
単に絵の好きな人物でしかなかったし
アマデウスにおけるモーツァルトもどういうわけか音楽的才能は
ずば抜けているが社会的な生活はサリエリから見れば下品極まりない
つまりあちらの映画のほうが
一人の欠点の多い人間として描こうすする姿勢が大きい
日本はどうも教育的になってしまう
これは今までずっと思っている不満
人間なんてその時の判断であっちにもこっちにもいく不完全な存在
それをまるで出来上がったように聖人のように描く姿はどうも気に入らない
この映画がそうだと言うわけではないが
利休の美を全面的に良しとしているのは
少し見方が狭いのでは
秀吉のえげつない黄金の茶室でさえ
見方によっては美は存在するかもしれない
そんな風に思うのは自分は京都が大好きで
それこそ年に3回ほど訪れては色んな所に行ってきているが
自分の好きな京都は必ずしも侘び寂びの京都ではないということ
むしろ貴族社会の影響の見られる洗練された雅に心惹かれる
利休の凝縮した密度の濃い小宇宙よりも
直線のスッキリした線からなる貴族の建物
そして彼らが美しいと感じたものに自分も美しいと感じてしまう
そしていつも思うのは、
「この趣味の良さにはちょっと追いつけないなあ」
ということ
侘び寂びは何となく分かるだけに真似出来そうな(?)気がするが
それにしても、この映画がいい映画だったことには間違いない
確かに濃密な時間が流れている
だがこの濃密な時間は男の理想というか憧れというか
絶対女性がつくった物語ではないことを感じる
結局男はよく言われるようにロマンティスト
その場の気分に女性は溺れることはあるかも知れないが
とことんロマンティストなのは男なのだとつくづく思う
市川海老蔵・中谷美紀 なかなか役に入り込んでよかった
問題児(?)海老蔵がここまでいいとは思わなかった
後は秘密の、、、この人も良かった