パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ヘッセの詩(文章)

2013年12月24日 20時11分42秒 | あれこれ考えること
ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」が
あらゆる作品の中で一番好きかも知れない
ドイツ語で読みこなしたら日本語とはもう少し違った印象を
受けるかもしれないが、高橋健二氏の日本語訳は十分すぎるほど
自分の心をうった

最終的にロマンティック過ぎる結末
ヨーロッパ人の仏教解釈
みたいな言われ方をされることがあっても
自分にとってはかけがえのない作品だ

ところでヘッセは優しい
年をとった人に語りかける文章に出会った

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この詩集を持つ友に(1942年)

もう伝説のようになっている少年のころから
私を動かし喜ばしたことのあるものを、
考えたことや、夢見たことや、
祈りや、求愛や、嘆きなどにちなむ
たまゆらな、色とりどりの落ち穂を、残らず
あなたはこのページの数々に見出します。
それが好ましいものか、無益なものかは、
あまりむきになって問わないことにしましょう
やさしく受け入れて下さい、この古い歌を!
私たち、年とったものにとっては、
過ぎ去ったものの中にたたずむことは、許されており、慰めにもなります。
この数千行の詩句の背後には
一つの命が花咲いているのです。かつてはそれは甘美だったのです。
こんなつまらないものにかまけたことを
追及されたとしても、私たちは、
ゆうべ飛んだ飛行士よりも、
血にまみれた痛ましい大軍よりも、
この世界の偉大な支配者たちよりも、
かるがると自分の荷物を背負っているでしょう。

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これが正確に何を言おうとしているかは
理解できていないかもしれない
しかし、言わんとすることはとても共感できる

同じように優しいまなざしの詩
詩集「夜の慰め」から

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慰め

数多くの年々が
過ぎ去り、何の意味も持たなかった。
何ひとつ私の手もとに残っているものはなく、
何ひとつ私を楽しめるものはない。

限り知れぬ姿を
時の流れは私のところへ運んで来た。
私はどれ一つとどめることができなかった。
どれ一つとして私に優しくしてくれなかった。

よしやそれらの姿は私からすべり去ろうと、
私の心は深く神秘的に
あらゆる時をはるかに越して
生の情熱を感じる。

この情熱は意味も目あても持たず、
遠近の一切を知り、
戯れている時の子どものように
瞬間を永遠にする。

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そんなはずではなかった
多くの人が感じるであろう自分の運命に関する少しの後悔
それは自分の努力不足だったかもしれない
あるいはちょっとばかりの運がなかったためかもしれない

そんな頑張れなかった人にも
毎日の生活はやってきて、いつの間にか
そうしたことさえ忘れてしまう

しかし、そうした人にもいつか振り返る時間が訪れる
長く生きた者の権利として

人生はいつからでも遅くない
などと言わないことにしよう
ただあるがままの事実を受け入れて
かすかな後悔の念に浸ることができた時
人は慰められるし、人に優しなれるのだ

たとえこの解釈が自分勝手でヘッセの言わんとする事とは
違っているとしても、間違いなくヘッセからインスパイアされた
考えであることには違いない

一人の人間の心を救うことのできる
こうした文章・詩
これらは実用的な技術ではないものも
人に生活には必要なのだろう






コメント
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