パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

訓練、あるいは教育

2022年05月22日 09時52分32秒 | あれこれ考えること

人は生きてきた歴史や環境が違うから考え方が違うのは当たり前だ
だがそれをそのまま認めるのは意外と難しい
特に日本のような同質性の高い国、同調圧力の強い国、
社会正義を強要する傾向のある国は、違う意見の少数者は声に出しにくい

一般的に対話と討論とディベートは違うらしい
対話は意見の相違を認めた上で円滑な話し合いの争点などの整理を行い
妥協点をも探し出す行為
討論はディベートと似ていて話し合いで白黒をつける行為ということらしい
(知らんけど)

最近は対話ではなくて討論とかディベートが幅をきかして
弁舌の技術が高い人が有能と思われ勝ちのようだ
だがそこには一歩間違うと不毛な対立ばかりが生じてしまう
ということで、今こそ求められるのは対話(ダイアローグ)だそうだ

最近知った対話の訓練をする方法がなかなか面白い
ある時、教育現場で最近の出来事のロシアのウクライナ侵攻をテーマに行われた
ここに工夫があって対話の参加者は、くじ引きでグループ分けをされる
あるグループはロシア、別のグループはウクライナ、また他のグループはポーランド
ベラルーシ、スウェーデン、ドイツ、フランス、アメリカ、中国等の立場に立つように指定された
そして各グループは独自にそれぞれの事情を理解するために情報を独自に集める
それが終わった時点で、自分たちの立場を踏まえ、どうすべきかを話し合うという段取りだ

現在の日本のような西側の立場の情報やら、なすべきことの多い選択肢と違って
それぞれの事情を踏まえていくと、そこでは結論の出ないような頭を抱えることが多くなって
簡単に答えは出にくくなってしまう
だが、それでも対話をする、、という行為は、簡単に結論を出すよりも意味があるとしている
(と自分も信じたい)
それこそが熟議の民主主義と言われるらしい(?)

相手の立場を客観的に知るということは、自己の感情と相容れない結論を知ることにもなる
その時の自分の感情のコントロールの訓練になる
感情的な判断がいつも間違うとは思わないが、感情をコントロールした判断は
当事者同士の理解に説得力をもつ
そしてそれは相手側の人間の尊厳を認めるということになる

ということで、何でも役立つのは訓練とか場数だな、、
教育は教えられるのではなく、訓練だな、、と思う昨今
(そこには、いろんなアイデアがあるものだ)




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