パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

さじ加減(いい塩梅)

2022年05月20日 09時17分02秒 | あれこれ考えること

あまり深く考えることもなく、ぼんやりとそうなっているのだろうと思うのが
現在の代表制民主主義
庶民は詳細な情報を得て、広い視野をもって判断を行うだけの技術も時間もないので
その代わりをしてもらえる人(首長や議員)を選ぶ
任された議員・首長は関心があったり得意とする分野はあるが、
あらゆる方面の知識があるわけではないで、ある分野の役割を官僚(職員)に依頼する
任された官僚は委任したひとの意向を読んで行政的な方法(法案)を考え出す

これらの過程で、議員・首長は庶民の声をそのままストレートに反映すべきか
といえば、どうやら自己の裁量によって判断するのが通例となっているらしい
もしその裁量による判断が庶民にとってふさわしくないものであれば
次の選挙で落選の憂き目を見ることになるので、自分勝手ではいられない

官僚や職員も適切な作業がなされないならば、かれらは左遷にあうとか
ステップアップの機会を失うことになる
だから必然的に命令者の意図に沿った行動を取る

これらの過程で必要なのは説明責任という行為で、議員・首長は庶民に対して、
官僚(職員)は議員・首長に対して丁寧な納得の行く説明をすることが要求される
そうすることによって制度としての代表制民主主義は、まともに機能する
と考えられている、、、とその手の本には解説されている

ところが、現実世界はこのような善人を想定した社会とはなっていない
それは制度上の問題と言うより、人間が持っている本質的な傾向によるもののような気もする
制度として性善説をとるか性悪説をとるか、といった問題ではなく
生活者としての人には時と場合によって良くも悪くもなる可能性があり
現在はその負の部分が目立っている気がする
生活者としての職業人は、必ずしもその道のあるべきプロ意識を貫徹できるわけではない
彼の優先順位は多くの人と同じように、自分が大事!となる可能性は容易に想像がつく

こうなると、制度として存在していても、なかなかうまく回っていかない事態は
珍しいことでなないと思われる
だが、それでは困るので、どうやったら誤差を少しでも減らすことができるようになるか
を考えざるを得なくなる

まず今起きている状態を、そのまま理解する
政治的な対立関係の理解ではなく、そうした部分を除いて事実のみを理解する
それを知った庶民は(それを知ろうとする庶民は結果的に少ないのが問題だが)
四角四面にあるべき姿を原理主義のようにギチギチの解釈だけでなく
人間だからしょうがないなあ、、と言えるような、
ざっくりとした幅をもった理解の仕方も時には必要だと思う
ただ、これ甘くなるすぎると、それはそれで問題だ

結局のところ、適切なさじ加減が庶民にも必要ということ
(怒りの声も選挙行動への反映も)
適当なさじ加減、、
これは、言うは易し行うは難しそのものだ

ということで、社会はなかなか難しいな、、というのが実感
もう少し鷹揚に回って行かないものかな、、と思えてならない

いつものまとまらない話!



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あれこれ思うこと | トップ | 訓練、あるいは教育 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

あれこれ考えること」カテゴリの最新記事