パンセ(みたいなものを目指して)

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処罰感(あるいは復讐感)を求める気持ちについて

2020年07月28日 08時30分23秒 | あれこれ考えること

人の感情はコントロールが難しい
特に怒りの感情は、その時収まったように見えても
いつまでも種火のように残っている場合がある

現在人気のドラマ「半沢直樹」も復讐という観点から
見る事ができるかもしれない
「倍返し」も理不尽ないじめとか仕打ちに対する反抗で
これは昔のプロレスの力道山が反則で攻められていたのを
ついに耐えきれなくなって「正義の鉄槌」を下すといった
ストーリーに似ていて、それはテレビを見ていた人の「処罰感」
を満足させるもので、それでスッキリした気分になれたと思われる

人は自らが受けた屈辱のようなものに対して
その相手に対して復讐したい、あるいは処罰を与えたい、、と思ってしまう
これは良い悪いを超えたところで、人間の持っている性質のようなもので
現実的には社会生活を回していくには、その復讐とか処罰の程度を
何らかの方法で決めるしかないような気もする

江戸時代、殺人罪を逃れてしまった人に対して、仇討という形で許可を得て
親族が仕返し・復讐・処罰を与えることが許されていた
たが仇討ちをされた親族も、されたことで恨みを持ってしまい仇討を
するようになると延々と仇討ちが続くことないなるので
仇討の仇討は許可されなかったようだ

要は人は処罰感を求める気分を消し去ることは難しい
と思われるし、それは自分でも実感する

最近、我が市(市議会)で起きているゴタゴタも
あまり単純化するのも良くないとは思うが
突き詰めると、この個人同士の処罰感を求めてのものだと思える
ただそれをストレートにいってしまうのは憚れるので、
いろいろもっともらしい理由をつけているように思える

会議(討論)を行っても最終的には感情の行き違いがあるので
片方からは「説明」であっても、片方からは「言い訳」にしか聞こえない
そして最終的には処罰感を達成しないかぎり満足は得られない
ただその処罰を達成するには、なんらかの法的な根拠が必要となるが
なかなかそんな根拠は見つけ出すことが出来ない
だから余計にいらいらが募ることになる

選ばれた人による、高度な討論によって物事が決められていく
と思っていたいろんなこと(国も市も)が、実は人間的な弱さ
とか欠点を持ちすぎている人たちによって決められている、、
という実態を、最近嫌になるほど実感する

小さなとき今の自分の年齢の人を見て、
おじいさんとかおじさんは悩みもなく、いろんなことに間違いのない
判断ができる大人なんだろう、、と思っていたが
いざ、その立場になってみると、、、全然そうではないことに驚く
相変わらず小さなことに落ち込んだり、悩んだり、判断に迷ったり
瞬間的に怒りを覚えたり、、、

でもしょうがないな、、
人は同じ人でも、すごくいい人の時と、悪い人の時がある
そういうものだから、、、
願わくば、いい人の場面が多くなるようになれば良いのだが
自分は特に、、そして他の人も、、、

抽象的なお話

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