パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

モーツァルトのこと

2013年04月26日 19時59分00秒 | 音楽

自分はモーツァルトの音楽が好きだが
他の人がどのように彼の音楽が好きか
を考えると、
きっと自分と同じような感覚・印象・感動を
持つからに違いないと勝手に思ってしまう

そして、それはあながち外れでもないようで
ラジオのトーク番組などでモーツアルト好きのゲストの
話を耳にすると、やはり同じような印象を持っているのだと
納得したりする

まるで会話のよう、完璧、自由、
そしてその言葉以上の心に訴える何か
いや訴えるのではなく、話しかけるような音楽
それが(自分にとっての)モーツァルトの音楽

昨日、吉田秀和氏の著作の中でモーツァルトに関するところで
こんな文章を見つけた

心が乾燥している時はモーツァルトへの手がかりはない。
音は空しく耳の傍らを駆け抜けていったしまう。
しかし、彼をきく用意が、私の知らない何かの機微によって
心のどこかで整っている時は、こんなに素晴らしい音楽はない。
その《心の耳》が、いつどこでどういうふうに、開かれたり
閉ざされたりするのか。
それは私たち自身にも、よくわからないことだ。

確かに、それはしばしば実感することで
素晴らしいモーツァルトも
いつもいつも幸せな時間を供給してくれる
わけではない
時には、ただ音響が耳を過ぎていくだけ
というのもある
だが聞く耳にスイッチが入ると
唯一無比の音楽のように思えてくる
そんなに難しいことをしなくても
言いたいことは完璧に表現して
そして美しいという言葉しか該当しないような
そんな印象を持つことができる

話はかわって吉田秀和氏のこと
以前は感性だけで書いているような印象を持ったが
読み返すと何と言う深い知識をベースに
平易な言葉で何人も納得できるような
文章を書いているのかと
改めて感動してしまう

定番的な言葉の羅列はなく
自分の感じたことを自分の言葉で表現しているところが
(当たり前のようだが案外できていない人が多い)
自分は気に入っている
そして、氏のモーツァルトに対する考え方・感じ方も
共感できるものが多い

6月にはザルツブルク・ウィーンに行くことになっているが
そこで感じるモーツァルトは日本で感じるものよりは
違ったものになるのだろうか?

それにしても、モーツァルト好きだな!


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