パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

遠くを見ている人(藤井聡太とフルトヴェングラー)

2021年11月20日 09時56分58秒 | あれこれ考えること

大谷翔平がMVPを獲得
野球に関心のない自分でも、喜ばしいことだと思う
テレビでは翔平の名前が連呼されているので、我が家のえらい人は
将棋の藤井聡太のことを、つい藤井翔太と呼んでしまう
「翔太ではなくて聡太だよ」と訂正するが
大相撲好きの彼女は阿武咲、大栄翔と「しょう」と名前についているので
聡太より翔太のほうが言いやすいのかもしれない

将棋の経験のない自分は藤井聡太の凄さが実感として解りにくい
第一人者に勝っていくことがすごいのか、内容がすごいのか
一手一手を興奮気味に解説する棋士の話の半分も理解できない
それでも昼ごはんやデザートの話に食らいつくほど情けなくはない

藤井聡太の風貌から感じるものは、何故か勝ち負けの世界にいる勝負師のそれとは違う印象を持つ
勝ち負けよりも、何かもっと別のものを追いかけているような、、
遠いところを見ているような、、、

不意に、この雰囲気の人が以前にもいたぞ、、と思い浮かんだ
この写真の人だ


この人もなにか遠いところ(頭の中に浮かんでいること)を見ているような雰囲気がある
実際のところ彼の一生は、まるで夢の中とか理想とか、、憧れとか、、
そのようなかたちのないものをずっと追い続けていたような気がする

彼の名はフルトヴェングラー、カラヤン前のベルリン・フィルの主席指揮者だ
彼はナチスがドイツを支配していた時、ドイツのとどまって演奏会を続けた
あるときはヒトラーの誕生日を祝う演奏会で指揮を務めた
いかなる理由があるとしても、この事実は重く、かれは戦犯の疑いをかけられ
裁判にかけられることになった

裁判では、当時彼に助けられたユダヤ人演奏家等の証言によって無実の判決を得るが
やっとベルリン・フィルの演奏をできるようになったのは戦後2.3年過ぎていた

自分が彼フルトヴェングラーに惹かれるのは、この重い生き様故にではなくて
やはり彼の演奏の生み出す圧倒的な印象のせいだ
それは感じやすい若い時に聴いたせいかもしれないが、とにかく何かが違っていた
それは音響という媒体を使って、もっと別の何か、、理想とか秩序とか美しいものとか
とにかく言葉では表現できないようなものを、音楽で伝えているような気がした

彼の戦時中の演奏にベートーヴェンのコリオラン序曲がある
これなどは冒頭の音が緊張感に満ちた凄まじい悲劇的な音響で、
戦時中の彼の苦しい心情を反映している気がして、もう二度と聴くのが辛い
と思わせるものだった

彼の演奏は今の基準からすると時代がかっていたり、主観的過ぎる
といった評価になるのかもしれない
そして、何でもハイテンポで過ぎていく時代には、その深刻さや真面目さは
少しばかりリアルな体験として感じられなくなっているのかもしれない

だが懐メロを繰り返し聴くようになってきた自分らにとっては
彼はいつまでも唯一無二の存在だ

若い時、ドイツを放浪した際、ハイデルベルクにある彼のお墓を訪れて手を合わせた
(そこで、とても不思議な体験をした)
そして約40年後、再び彼のお墓に行くためにドイツ旅行を計画した
40年の時間経過のなせる技は想像以上に大きくて、自分がそこで確かめたかったことは
残念ながら確認できなかった(不思議な体験はおきなかった)

今でも年末になるとベートーヴェンの第九が話題となる
その第九の一番のおすすめ演奏として長らく挙げられているのがフルトヴェングラーの演奏のものだ
これは聴くというより体験するものといった感じのもので、他の演奏と同じ物理的な時間経過を
しているのか、いつも不思議な思いに襲われる

時代は変化し、その時代の好みも、感じるなにかも変わってくる
でも、おせっかいな知ったかぶりをしたい者としての自分は
フルトヴェングラーの何かを感じられることはとても良いこと!
と言いたくなってしまう


藤井聡太とフルトヴェングラーは遠くを見ている
と感じるのは、実は自分もそうありたいと感じているせいかもしれない


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