パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

日本では生まれない本?(ディスタンクシオン)

2021年11月22日 10時22分29秒 | あれこれ考えること

難解だ、だが手がつけられない程ではない
むしろその難解さ故に頭をフル活動せざるを得ない濃密な時間に充実感を感じることがある

100分de名著で紹介された「ディスタンクシオン」プエール・ブルデュー著
果たして読み終えられるか心配で、永らく欲しい物リストのままだったが
先日アマゾンで思い切ってポチッとした

この本は社会学の本というジャンルなのだそうだ
個人と個人の社会的な関係を、豊富なアンケート調査を元に独自の解釈をしていく
不意に最近流行りの「親ガチャ」という言葉を連想した
親の経済的な環境が子供に影響する現実は、今だけでなくブルデューがこれを書いた時代も
そうだったのだと思い知らされる
「結果平等ではなく、機会平等こそが求められるべきもの」とされる最近の一見正しそうな
お題目も、実は社会は個人の判断力を左右する体験の機会も平等ではなく
またそのクラスから脱することには困難が伴うこことも実例として挙げている
(個人の体験の違いは絵画・音楽に接する機会のことだったり
 同じくクラスの人たちが自然に身に付けている感じ方・考え方の違いだったり
 将来就く仕事のポジション・内容だったりする)

文章はフレーズが長くその中にいろんな概念を組み入れているので、
スッキリとわかるわけにはいかない
しばしば現れる()の挿入句のために余計にわかりにくくなっているが
これは大勢に影響がない限り無視して読むことにした

それにしても、、、、
読んでいて感じたのはこの本の内容から派生したのものではなく別のことだった
それは「何故、日本ではこのような本が生まれないのか?」という点だ

何百ページを要して必死に何かを説得しようとする気力とか熱情
書きながら格闘しているようなものを感じるスリリングな高揚感
わからなくても何かとても重要な体験をしていると感じさせる重量感
そうしたものを感じさせる書物は日本にあるだろうか?

もしかしたら単に自分が知らないいだけかもしれない
それなら良いが、そうでないとしたら、、

良い悪いは別として、資本主義とか因果関係を元にした思考方法は
西欧のそれが現在の社会の共通認識のようになっている
ところが、本当に共通認識となっているか?と一旦疑問を掲げててみると
これは思いの外怪しいことのように思えてしまう
認識の解釈や応用は、受け入れる国(地域)独自のアレンジが行われる
日本人の捉えた西欧人の思考方法とか感じ方は、西欧人が感じているものとは
本質的に異なるのではないか
そんな気がしてならない
それは西欧人が極端なまで突き詰めて、その中に秩序を求めようとする思考法は
日本ではもののあわれ風な感覚にもとづく生活感とは少し相容れないものがある
これは自分だけでなく、割合多くの人が実感しているようなことで
「近代の超克」の対話の中にも触れられていた

このとことんまで突き詰める迫力のなさは、物事を簡単に理解しようとすることに繋がる
そして、それは世間にありふれた通説をそのまま受け入れる態度となる

話は飛ぶが「野党は批判ばかり」との評価は、
「何故反対ばかりか?」「本当に反対ばかりか?」「野党の役割は何か?」などを
そもそもの時点から自分の頭で考えることなく、自動的にそういうものだと信じさせられている

少し変人ぽい自分は、そもそもの前提を疑うことも多い
方法論としての多数決は、正しいいか?
民主主義は民意を反映できるか?
そもそも民意は正しいか?(正しいとはなにか?)

こんなふうに連想はあちこちに飛んでプルーストの「失われた時を求めて」状態なのだが
この表現も分かる人しかわからない

話は最初に戻って「ディスタンクシオン」
感覚としては「全体主義の起源」を読んでいる時と似ている
よくわからんが、とても重大なことが書かれているという感じだ
よくわからんのは悔しいが、読み終えられないのも悔しい
ということで、何も蓄積されないかもしれないが、意地でも最後のページまで行きたい
この本は上下2冊だが、今年中を目標に頑張るか、、


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