日課になっている近くのお墓参りに出かけた
(最近は自分の役割になっている)
夏に改めて気づいたのがお寺さん(福住寺)の大きな木
楠と銀杏の2本だが、絵本の「大きな木」の
なんでも作れるほど大きくはないが
それでも実物は想像しているより大きい
フト、この木は何年生きているのだろうと浮かんだ
もしかしたら300年以上?
江戸時代から生きているのだろうか?
とんでもない幹の太さだからその可能性は十分有り得る
宮城谷昌光さんの「風は山河より」(1)では
新城市が舞台になっていて、そこに地元の福住寺とか永住寺が
登場したような記憶がかすかにある
もしかしたらその時代からここで生きているのかもしれない
そう思うと、なんか凄いな!と単純に思う
明治生まれの祖父と祖母のおじいちゃんやおばあちゃんは
きっと江戸時代生まれだろうだから
江戸時代がものすごく昔という感覚はない
この大きな木は生活は豊かではなくて、ものんびり過ごせた江戸時代
何かと騒がしかった明治維新
戦争へと向かった大正、昭和
敗戦後の復興を、ただただ眺めていたのだろうか
生き証人というわけだが、残念ながらそこで感じたものは
人間には解読できない
一年ほど前、新城橋を渡って南進し富岡に向かう道のど真ん中に
どっかと鎮座していたランドマークの楠は
(江戸時代からそこで生きていた有名な木だったが)
とうとう寿命を迎えて、なおかつ車の交通の妨げになるので
伐採されてしまった
(なにか喪失感のようなものを覚えてしまった)
最近は訳あって命についてしんみり考えることが多い
人間社会には邪魔になる雑草も彼らの必死の生き方には心動かされるし
動植物の本当にいろんな形状には生きる可能性を求めて変化を繰り返す
生命の意志とか時間というものを感じる
戦え!という人は、人ひとりの命というより、確率で物事を考えてしまう
(このくらいの犠牲は仕方ないとか)
最近の見たくもない例の地区の紛争では、本当に人ひとりの命が軽くなっている
と思わずにはいられない
マザー・テレサは、自分ひとりの価値とか存在する意味を失っている人に向かって
「世界の調和のためには、あなたひとりが欠けてはならないのです」
といった内容の言葉を残しているが、この言葉が出るまでに
彼女はどのくらいつらい思いをしたのだろう、、と考えてしまった
連想がつい気が滅入る話に繋がってしまうのは
今がきっと良い時代ではないからだろう
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