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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

第三者委員会の評価は何故あんなに分かれるのだろう

2025年04月02日 09時53分55秒 | あれこれ考えること

現時点での流行語大賞の候補には「第三者委員会」が挙げられるかもしれない
兵庫県とフジテレビ絡みのそれで、今まで馴染みのなかった人も
こうした用語とか制度があることを知っただろう

ところで、とても不思議なのはこの第三者委員会の報告についての評価が
全く割れて世の中に存在しているということだ
(信頼できる第三者に調査・評価を任せたというのに)
フジテレビのほうは、比較的第三者委員会の報告を多くの人が認めているが
兵庫県の方は、認める人、認めない人の割合はわからないが
少なくともSNS(ツイッター、Youtube)上では分断と言われる状況が生じている

物事が数学的、理性的に判断される分野なら否応なしに理屈のままに
判断せざるを得ないが、人間の感情が判断に含まれる分野については
必ずしもそれを受け入れることは難しいようで
第三者委員会そのものも信頼されないような雰囲気になっている

こんなことなら人間が理性的な判断を行なうとした試みも全て
多様な意見があるの一言で済まされてしまいそうだ

とにかく、兵庫県の第三者委員会については怒りを持って反論する人達がいる
それは政治家、弁護士、一般の人たちから成り立っていて
彼らは怒っている(少なくともその気分はにじみ出ている)
だが、自分が少し疑問を持つのは
彼らは第三者委員会の報告をしっかり読んだのだろうか?という点で
読んだ上で反対の気持ちを持ったのだろうか

そこでかなりのボリュームの第三者委員会の報告をダウンロードして読んでみた
(要約版と部分的に本文)
すると、その内容は流石に専門家らしい段取りと客観性を保ち
慎重な言い回しと、一般人の常識的な判断を基にした報告のように自分には思われた

何事もその道のプロはすごいな!
これが読んだ時の第一印象だ
そしてSNS上に反対派の人が挙げた公益通報に当たらないとする理屈の部分も
第三者委員会では検討していて、その上で公益通報に値するとしている

それにしても、現状の分断を見るにつけ
人間社会は言葉による相互理解が成り立つのだろうか?と思えてならない

おそらく手続きの正しさをもって、客観性を確保するのが現行制度のように思われる
兵庫県では知事の提案のもと予算の議会の了解を得て
兵庫県の弁護士会の推薦に基づいてメンバーを決めて丁寧に進めている

百条委員会は知事が言い出したことではないが、第三者委員会は知事が提案した委員会だ
その委員会が違法とした報告を、知事は判断は間違っていなかったと固執するのは
とても不思議な気持ちだ(第三者委員会は何だったのか?と)

そこでこんなふうになっている原因を少し考えてみた
感情を伴う部分はある程度仕方ないとして、分断の大きな原因は
制度的な進め方に対する理解が人々の間に進んでいないからではないだろうか
わかりやすく言えば、議論の進め方、反論の仕方とか論点整理をするとか
そうした訓練がなされてないので、いつまで経っても各人が
自分の考え(感情)に終始してしまうのではないか

議論の進め方も、算数の計算の仕方を覚えるように一つの技術として
身につけるべきものではないだろうか
(ヨーロッパの自由7科にはこの分野も入っていたような記憶がある)

多様な意見があるということ、それをまとめて集約するというのは一つの技術で
それを多くの人の共通の知恵として身につけていればもう少し世の中に分断は
避けられそうな気がする

もっとも、こうした考え方は理屈っぽいが故に思いっきり反論を受けそうだが

ところで、兵庫県は報告のあったものの他に第三者委員会が2つ行われている(いた)

1、元総務部長が、告発文書を作成した元県民局長の私的情報を県議会議員らに漏洩した疑いに関する第三者委員会

2、NHK党の立花孝志氏が、元県民局長の公用パソコン内にあった私的情報をSNSで公開した問題に対する第三者委員会


これらについても報告を認める、認めないという分断がまた生まれるのだろうか

※以前読んだ「プロパガンダ」の中に、今を想像できるような気になる部分があった
 それが↓

キケロの貢献の一つは、アリストテレスの非技術的検証という概念を発展させてスタシスすなわち、問題の地位の理論を確立したことであろう。弁士や弁護士の仕事は、ある立場に最も有利になるような状況を定義することである。たとえば、来談者が殺人罪で訴えられたとしよう。最初にやるべき弁護は事実の否定である。「いや、彼はそのような罪を犯していない」。それが不可能になったら、行為の定義に挑戦することになる「彼女は確かに彼を殺したが、謀殺とは違う」。それでも駄目なら行為の質に疑問を呈する。「そのとおり、彼を殺した。しかし、それなりの理由があり、情状酌量の余地がある」。万策尽きたら、当該の裁判所にはこの事件を裁判する権利がそもそもないことを主張する。「この法廷には、女王を裁く権限はない」。おそらく読者の方々は、キケロの勧めるやり方と現代の法廷での発言が共通していることに気づくだろう。







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