パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

命令されたこと、他人の意見に振り回されること

2021年09月14日 09時57分38秒 | あれこれ考えること

本を読んでいても枝葉末節なことにしか印象に残っていない不安はある
例えばフーコーの「監獄の歴史」では、有名な概念である中心部に監視塔の存在する円形の監獄塔
(監視塔からは各独房が見えるが、独房からは監視員が見えない
 そこで常に監視されている意識が働き、自ずと規律化された従順な身体を形成するというもの)
のエピソードよりも、冒頭に紹介される人間の残酷さのほうがショックを覚えた

支配者が手向かう者、あるいは犯罪者に罰を与える
その罰がとても嫌悪感を感じるようなエゲツないもので
両足首をそれぞれロープで縛り、その先は馬につないで
それぞれ反対の方向に走らせるように鞭打つというものが紹介される
読んでいて気持ちの悪くなるような話だ

人は何という残酷なことを考え、なしうるものか、、
(それが例えば身内が殺されたための復讐の気持ちを果たすためであっとしても)
それがショックだった

この残酷なことは他にも思いだすことはできる
ナチスがユダヤ人に対して行ったこと「シンドラーのリスト」か「戦場のピアニスト」か忘れてしまったが
まるでモノのように人を銃で撃つ殺すシーンがあった
その時も吐き気がしたものだった

その実際の実行者は主体的な意思ではなく、命令されて行っているのだが
命令された人物はそれがどんな内容であろうと
個々の内面に関与することなく実行してしまうかもしれない
不意に浮かぶこの恐怖は、実は今の世の中にも形を変えて多く存在するかもしれない

現在はその実験方法自体が非人間的なために禁止されてしまっているが
命令されたことを人はどの程度行ってしまうかを調べたものがある
(「服従の心理」 アイヒマン実験 スタングレー・ミリグラム著)

ある問題に答える人が部屋のかなにいる
重要な問いを投げかけてイエスかノーか答えるようにする
実は被験者はこの人ではなく、次の行為を行うように言いつけられたひとで
その人物は答えが違っていると、罰として電流が流れる装置のボタンを押すことになっている
このとき、電流が流された人の痛みを訴える姿が声が見聞きできる場合とか
ボタンを押す命令を下す人物が上司であったり、、などと条件を変えて行われ
人としての傾向性が明らかになった
そこでは、命令されたことは自責の念を持たずに実行してしまう可能性を
人間の心理的傾向として捉えていた

人は他人の声にどの程度影響されるか
次に気になるのはこのような点になるが
人は自分で思っているほど自分の考えを守りきれるものではないようなことは
「ソロモン・アッシュの同調実験」で明らかにされた
左に一本の直線、右に三本の直線があって、右の直線と同じ長さのものはどれか?
と被験者に問うのだが、答えは比較的わかりやすく直ぐに正解を見つけることができる
ところが実感はここから先で、被験者に「その答えは違っていて多くの人は違うものを選択している」
と伝えたならば、その被験者は答えを変えるかがこの実験のポイントで
残念ながら被験者のある程度は自分が間違っていたと答えを変えてしまうというのだ

これらのことから、人は命令されればどんな残酷なことをなしうるし
自分の意見も他人の影響で容易に変えさせられる可能性がある

これら踏まえると、特にみんなの声の影響の方だが、メディアが膨大な時間を費やして
雰囲気の醸成を図っているように思えてしまうことはとても怖いことだと思う

テレビ広告の世界では総視聴率(GRP)、到達度(R)、フリークエンシー(F)という考え方があって
それらの関係はGRP=R✕Fとなっている
ここで総視聴率というのはテレビCMを流した時の視聴率の総和
到達度は一回でもそのCMをを見た広がりの割合
そしてフリークエンシーとは、その広がりの人が見た回数を表している

テレビ広告は多くの人に伝えることができる
だが、一回見ただけでは頭に入らない
頭に入るためには何回見させることが必要かの検討材料としてフリークエンシーがある
CMの質によってくるので、頭に入るまでの回数は差があるが
おおよその必要な回数は慣れたところは把握しているようだ

そもそもテレビCMはそうした目的をもって流されるものだが、これをCMではなくて
報道の内容と置き換えると、これは一気に不安を覚えさせるものとなる

現在の総裁選の、まるで戦国時代の駆け引きのような内部暴露を中心とした報道は
到達度もフリークエンシーも十分すぎるほど達成されている
そして多くの人が思うことについ左右されてしまう人のメンタリティもゆるく支配されている

つまりは自分自身が感じていなくても、知らずしらず何かに支配されつつあるかもしれないということだ
もちろん現実的に、すべてのことがらからフリーにいられることは不可能だ
だが、少なくともこうした現実を認識した上で、ことに当たるのは必要なことと思われる

それにしても、テレビ局は無邪気に面白そうに伝えているだけなのか
それともある種の意図をもって、伝えているのか 不安とか恐怖を覚えてしまうこの頃









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