パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「徴候的読解」という言葉を知った

2022年03月04日 09時47分13秒 | あれこれ考えること

いつも本質とは離れたところが記憶に残る読書
昨日取りあげた「マルクスを再読する」の中でも印象に残る部分があった
その部分の抜粋は

徴候的読解  「マルクスを再読する」48ページ

私たちは、ある著作を読むときに、その著作が書かれた時代の言葉を丹念に探りながら、著者の言おうとしていることを理解しようとします。これは普通の理解の仕方です。しかし、著者は、自分の言いたいことを全て文章で表現しえているわけではありません。

自分が本当に言いたいことをなんとか理解してほしいと、それを行間に込めているのです。けれど読者の能力が低いと、それが理解できないのです。しかし、賢い読者は、この徴候的に示されている著者の意図を察して、本当に言いたいことを理解するのです。これが徴候的読解です。ただしこれは徴候的読解の初歩的段階で、ここまでなら、ある程度の頭脳を持った人間ならできるわけです。

徴候的読解の最も高い段階では、著者が文章にも書いていないし、行間にも込めていないことを、読者が読み取ると言う行為が成り立ちえるわけです。文章にも書いていないし、行間にも込めていないことを、読者が著者に代わって著者自身の本当の意図として理解してしまう、と言うことです。

これを文章ではなくて楽譜に置き換えると興味深い
クラシック音楽は再現芸術で、奏者は皆同じ楽譜を見て自己独自の表現を試みる
その時の心情は、自分は奏者ではないので想像するだけだが
書かれたものを完璧に演奏したいと考える人
自分はこう表現したい!と言う方向に向かう人
一体作曲家は何を表現しようとしていたのか!
の方面に向かう人がいるように思われる

最後の方向性の音楽家は自筆の楽譜を見ると、その時作曲家が何を考えていたか
が見えるような気がするらしい
(それは思い込みに過ぎなくても何故か説得力を持つこと多い)

最近はレコードもCDも違う演奏家のものが多くなっている
聴き比べることで、確かにいろんな表現があるものだとは思う
だが、表現の違いが曲の本質に深く関係しているか?というと
演奏者の個性が強すぎると、それは曲を聴いているというよりは
演奏家を聴いている気になる

それはそれで、そういう楽しみ方もあるのだろうが
聴いていて作曲家は何を考えていたのか、何を感じていたのか、何を言いたかったのか
を考えさせる演奏が個人的には好きだ

フルトヴェングラーの指揮はテンポの揺れなどが個性的すぎて、
表現方法ばかりが話題にあがるが、
聴いていて彼の演奏が一番作品の奥の部分に触れているような気がする
吉田秀和氏によれば、「どう表現するかではなく、何を表現するか」
を追い求めた人物という表現がある
それは彼が言ってからではなくて、自分でもそう思う

ところで、指揮者のゲルギエフがロシアのウクライナ侵攻のために
演奏会の機会を失っている
彼の責任ではないが、ロシア人の演奏を聴きたくない、、
という一般人の気持ちもわからないではない

これを思うと、先程のフルトヴェングラーが第二次大戦中にドイツにとどまって
ドイツ国民のために指揮活動(演奏活動)を続けた事実は、
芸術と政治は違うというものの、一般人にはいろんな評価があるだろうなと思われる

自分も彼の選択が良かったのかどうかは、今でも揺れ動いてわからない
だが、彼の戦時中の演奏の録音からは凄まじいまでの悲痛な音を
感じることができるものもある
その一つは「コリオラン序曲」で冒頭はあまりにも聴いてる方が辛くなる音だ

何時でも苦しむのは弱い立場の人たち
やはり話は逸れてしまったが、今の世界情勢ではそれに気持ちが振り回されているのは仕方ない


コメント
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