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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

知らないことは悪いことか?

2022年03月18日 11時20分25秒 | あれこれ考えること

世の中は簡単に白黒決められないことが多い
そうした案件に思考実験のようにそれぞれの立場を考えると
どっちつかずになり勝ちで一部の人からは(コウモリのように)
「お前はどちらの立場なのだ!」と批判を浴びそうになる

批判を覚悟しながらいろいろ考えてみる
現在新城市では小中学校の給食についてゴタゴタが起きている
一番の問題は共同調理場として予定した土地に県の土地も含まれていて
そのために実施計画のやり直しをしなければならなくなったことだが
ここで、別の問題も発生してきた
それは、そもそも共同調理場の方式(センター方式)は良いものか?
学校ごとで調理する方法(自校式)のほうがいいのではないか?
とする対立が今になって表に出ていることだ

市議会で予算が上程され、その一部は既に可決されたものもあるが
一部の議員からは大きな金額を要する事業であるにも関わらず
議員に要求されたのは「予算案の可決・否決」の議決だけで
センター方式と自校式の選択には少しも関わっていない点に疑問をもっている
また、多くの市民がセンター方式に決定したことを知らない現実と
その選択に関われない点を疑問視している

議員や市民は大事な問題に関与できるはずだ
とする根拠は新城市自治条例の以下の項目だ

第4条 まちづくりの基本原則は、次のとおりとします。

(1) 市民主役の原則 市民一人ひとりが主役となってまちづくりを進めます。
(2) 参加協働の原則 市民、議会及び行政は、積極的な参加と協働によりまち づくりを進めます。 
(3) 情報共有の原則 市民、議会及び行政は、互いに情報を共有し、まちづく りを進めます。 

これらの文章を正確に真面目に解釈すれば、大きな予算を要するような案件は
みんなで話しあったり情報の共有が図られるべきだとしている
(今回に当てはめると給食センターの問題は皆で考えるべきと)
条例の抽象的な文章は解釈という行為でいろんなものに当てはめるのだが
ここには解釈という個人間に差が出てくる可能性がある
(市の条例はそこまで書いていないとする解釈)
このようないろんな解釈による混乱を防ぐために、より具体的な文言で書かれているのが
多治見市の市政基本条例で、そこにはこう書かれている

(市民参加の推進)
第19条 市は、多くの市民の参加機会を保障するため、審議会の委員の公募、意見の公募などの多様 
な参加手法を用意しなければなりません。

2 市は、市民からの意見に対して、誠実に応答しなければなりません。
3 市は、次に掲げるときは、市民の参加を図らなければなりません。 
(1) 総合計画などの重要な計画を策定し、見直すとき。

(2) 重要な条例、規則などや要綱(政策、事業の基準を定めた文書をいいます。以下同じです。) 
を制定し、改正し、廃止するとき。 
(3) 事業を選択するとき。

(4) 事業を実施するとき。

(5) 政策評価を実施するとき。 
4 市民参加の推進に関して必要な事項は、別に条例で定めます。 

つまりは給食センターのような問題は、市民の参加を図らねければならない事になっている

ここまで書き込まないと市民参加が保証されないのかとは情けないという声もあるが
書き込むことで一定のステップがはっきりするなら書き込んだほうが良いように思えてしまう

ところで、現実は多くの市民がこの市のドタバタを知らないのだが
その知らないということは果たして悪いことなのだろうか?
(この問自体が一部の人には不評かも)

人の生活の関心事には優先順位があって、あるべき社会の体系よりは
まずは自分の身の回りの生活となる
でもそれだけでは心苦しいとこともあるので、そうしたことを考えて
判断してもらう人を自分たちの代理として(分業と専門家として)選ぶ
わかりやすく言えば、直接民主主義は現実的でないので間接民主主義に頼るというわけだ
(民主主義の本家ギリシアのポリスでも実は議員になるのは面倒と考えられていたようで
 資格のある人から抽選で議員は選ばれたとか)

誰かにお任せしていろいろ決めてもらうということは
現実的に有効な方法と思える
ところがこのお任せする人は信用できるか?
となると話がややこしくなるので、今の時点では横におくとして
とにかく制度として間接民主主義の方法はとりあえず、それほど悪いものではない
と考えられる

お任せする人は地方自治体では首長と議員と別々に選ばれる
首長はお金(税金)の使い方を提案できる
議員はその使い方の賛否ができる
以上のような前提があれば(それぞれが誠実に行っていれば)
一般市民は知らなくても、あるいは直接民主主義のような参加形式を取らなくても
社会は上手く回っていくものと考えることができる

新城市の予算とか将来を決めるようなことは基本的には首長の役割だが
最近知ったことだが、市の幹部による「市政経営会議」というものがあるらしく
大体はここで決められるらしい

それは新城市庁内会議設置規程に以下の様に書かれている

第3条 市政経営会議は、行財政運営の基本方針及び重要施策に関する市の意思決定のための協議を行う。
2 市政経営会議は、次条に規定する部長会議を通じて執行機関全体の事務を調整し、指揮・監督する。
3 市政経営会議は、市長の主宰のもとに副市長、教育長、総務部長及び企画部長をもって構成する。
4 市長は、必要があると認めるときは、事案関連部門の部長職職員その他必要な職員を出席させることができる。
5 市政経営会議は、毎月2回開催を例とする。 
6 市政経営会議に付議する事項は、次に掲げるとおりとする。
(1) 市の基本構想、基本計画及び実施計画に関する事項
(2) 予算編成方針など市の財政運営に関する事項
(3) 市の組織、人事、財政その他行政機能に重大な影響を与える事項
(4) 市議会に提出する議案のうち市政運営に重大な影響を与える事項
(5) 各部門相互間において意見を異にするものの調整に関する事項
(6) その他市長が必要があると認める事項 

つまりは実務的な方面からの手続きはこの様に行われるということで
少し考えてしまうのは、この庁内会議設置規程は自治基本条例と相反するところはないだろうか?
と思えてしまうことだ
(条例の制定は議決が必要だが、段取りについての規程には議決は必要ない?)
行政は自らの正当性を担保するために、段取りをきちんと踏んでいることを何よりも重視する
だがその段取りは使い勝手の良い一人よがりのものになっていないとする証はどこにあるのだろう

予算を上程できる権利を持つ人として市民は首長を選ぶ、首長は手続きにそって物事を決定していく
人が選挙によって首長を選ぶということは、彼に権限(予算とが事業の)を与えるばかりでなく、
ある程度任せているということだ

市民が細かなことをいちいち知らなくても、いい塩梅にお金を使ってみんなが普通の生活ができるように
市政を運営していてくれる(多くの人はそう思ってる?)
それを担保するのが、行政の言い分とすれば規則にそった手続きだ
その他にも意思決定の過程を明らかにすることがあるかもしれない

ところが不信感や疑問を持った場合、この意思決定の過程を知ろうとすると、かなりの努力が要求される
公開された議事録から探す手間、その長い文章のなかから重要な部分を探す苦労
公開されていなかったら情報開示請求をしなければならないなど、かなり面倒なことになる
そんな面倒なことは一市民の出る幕ではないと思えてしまいそうで
本来ならば議員がそうしたチェックをするのが役割だ

となると議員を選ぶ行為自体が重要になるが、残念ながら市民の中にはそれ程の問題意識を感じる人はいない
市民の関心事・優先順位は社会の大きな問題ではなくて目の前の問題であるのはある程度仕方ない
いつかは自分の身に降り掛かってくることでも、実際にそうならないとわからないというのはよくあることだ

話は戻って、庶民がいろんなことを知らないということ
市の予算の使い方、赤字を出し続ける事業の継続などを知らないということ
それは由々しき問題と思われるが、反面自分らが住んでいる社会の制度上
必然的に生まれてしまうように思えることのような気もする

最近は、代表制による民主主義はデリケートすぎると思えて仕方ない

やはり、まとまらない話で終わってしまった




コメント
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