小さな旅、大きな旅の写真物語(Virtual trips/travels)

京都や東京を本拠地として、自然の中や町を歩きながら、撮った写真をどんどん掲載します。いっしょに歩いているように。

東北被災地復興支援ツアー その1

2012-12-12 17:30:19 | 日記
東北被災地復興支援ツアー その1

家内が、どうしても東北の被災地を訪れたいというので、とってもコストのかからない、且つ、有意義な旅のプランを考えつきました。スケルトンツアーで一関に一泊して、隣の平泉の世界遺産を見て、次の日に一関から、気仙沼へ復興支援ツアーというバスツアーに参加して、その日のうちに東京に帰るというプランです。スケルトンツアーが新幹線往復とホテルサンルート一泊で16000円、復興支援バスツアーが、昼食付きで3800円です。平泉のお寺ではずっと、被災地の方々の復興と、亡くなった方のご冥福をお祈りして、気仙沼では、被災の状況を共有してから仮設商店街を訪れて、買い物をすることで、復興支援しました。 このブログを見て、ご興味を持った方は是非、このプランで被災地復興支援をしてください。 被災地を観光するとはと怒る方もいらっしゃるかもしれませんが、現場の状況を共有すること、とにかく現地を盛り上げるという意味で、決して無意味なことではないと思います。ニュースで被災地の話が出てきても、一回おとずれると、他人事でなく、実感を持ってニュースを見ることが出来るようになるのです。
気仙沼で、サラリーマンをしていましたが、今は仕事が無いので、ここで海産物を売っていますと言う方とお話をしながら、買い物をする。カキ小屋を団体でおとずれて、まとまったお金を落として行く、微力ではあるけど、決して無駄ではありません。現地の方にとっては、やっぱり商売して、お金を得るということが一番の励みになると思うのです。1mmでも毎日前に進んでいるのですから。

今回のカメラは、富士フィルムX-E1+ソニー・ツアイスズーム・バリオゾナー16-80mmです。 旅の友として、活躍できるかを試してみました。これまで、さんざんケチをつけたこの組み合わせですが、色々な場面で試してみて初めて結論がでると思っています。 どうでしょうか、16-80mmという写角の良さ(特に16mmがあることです)と、ツアイスの端正さは出ていると思います。



12月7日、平泉に降り立つと、右の看板が目につきます。 上の青いバーがカスリン台風の時に、北上川が氾濫して、この地域が水没した印で27.9m、下の青いバーがアイオン台風のときには25.5mという印です。バスを待っているときに土地の方が説明してくれました。明日は津波で水没した地域を訪ねるわけで、この看板は気にならないわけありません。



平泉の町は循環バスで大体の観光名所を回ることができます。歩いても回ることも可能な距離です。最初は毛越寺(モウツウジ)。

  とっても面倒だけれど、一回は平泉の意味を書かざるを得ません。
平安時代後期、平泉は奥州藤原氏の土地であった。古代の豪族は渡来人系であったことから、この奥州藤原氏も渡来人系であったと思っていたが、中尊寺に眠る3代にわたる奥州藤原家の遺体の調査で、奥州藤原家はアイヌ人ではなく渡来人系弥生人であることがわかったという記述がネットにある。奥州藤原氏が南から移って来たことは推測できるが、はっきりしたことはわからない。藤原鎌足の系列とするなら、百済系渡来人ということになる。 今も雪がちらついて、気温は0度前後であるが、朝鮮から見れば、ここは天国みたいな土地である。北上川の周囲には肥沃な耕作地が広がっており、敵は少ない。奥州藤原氏は渡来人系の能力と技術をもってすれば、この地に権力と富を集積することは容易であったに違いない。奥州藤原氏とは藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡の四代、100年の歴史である。
  この奥州藤原氏の興隆の時代、奥州藤原氏は現在の東北地方に当たる地域全域を支配した。平氏、源氏、奥州藤原氏の三国時代という言い方が出来る。ところで、平氏は百済系、源氏は新羅系で、源平の戦いは、百済系と新羅系の戦いであるという説がある(双方百済系という説もあるが、そうすると話がちっとも面白くない)。こういう日本のルーツは韓国であるという韓国の扇動にのったような解釈は嫌であるという人が大多数と思う。しかし、当方はこういう考え方がなぜか好みである。なぜなら、とってもシンプルに歴史を解釈できるからである。 中央集権には能力が必要で、能力はDNAが支配する。 戦闘能力はどうしたって渡来人DNAと思う。この時代の大きな核の中心に戦闘能力のある渡来系DNAが存在すると思わざるを得ない。 渡来系DNAは本能的に仲間と敵を分別して、敵を倒すまで戦いをやめない。これが渡来系DNAの性(サガ)である。とするならば、古来渡来人、百済系渡来人、新羅系渡来人、そして古来縄文人の対立としてみると、シンプルに歴史が理解できるのである。実体はこのように明確な対立ではなく、百済系と新羅系の血の混じりも十分あったであろうし、古来渡来人(百済系と新羅系渡来人より前から日本を治めていた弥生渡来人すなわち皇室系)との血の混じり合いもあっただろう。しかし、いくら混じっても仲間と敵を分別する性からは抜けられない。なんとしても仲間と敵を作ってしまうのである。 信仰する神が百済系か新羅系かという分類の仕方を主張する人もいて、これは納得できる。神はそう簡単に混血しないから、どちらかに分かれざるをえない。
  話を元に戻して、奥州藤原氏と源氏のつながりが大きなポイントになる。源義経は若いころと人生の終盤に奥州藤原氏の元で過ごすのだが、奥州藤原氏が百済系、源氏が新羅系とするとなぜ奥州藤原氏は源義経をかくまったのか?もともと奥州藤原家が中央の百済系を追われて東北に左遷された原因の中に新羅系との関わり(血の混じり)があったのかもしれない。 もっとはっきり言えば、当時、側室は何人もいたわけで、気に入れば百済系の主人が新羅系の側室をもうけることもまれにあったに違いない。 その子供たちが全員中央で暮らせるはずもなく、多くが地方に出ていかざるをえない。新羅系側室の子は真っ先に追い出されたのであろう。奥州藤原氏がこういう事情で奥州へ来たかはまったくわからない当方の想像である。(訂正:これまでの記述を完全に否定するわけではありませんが、奥州藤原氏の初代清衡が奥州を制圧できたのは源義家との連合で清原氏を討ったことにあり、当初から源氏とは深いつながりがあったということです。また後で書きます。ほんと歴史はむずかしい。)
朝鮮DNAは敵を倒すと、次に仲間の中で殺し合いが始まるのが常で、いつまでたっても戦闘DNAの性から逃れられない。平氏を倒した源氏は今度、異母兄弟の兄、源頼朝が弟、義経に刃を向けることになる。 源義経をかくまった、奥州藤原の3代目と4代目の行動に、なにかとっても考えさせられる。 当方は、日本の歴史物語、特に武士の歴史物語に全く疎いので、渡来人DNAの系譜で簡単にかたずけてしまおうとするのだが。3代目が亡くなるときに、4代目に義経と共に頼朝に対抗せよと遺言を残す。 しかし、4代目は頼朝の圧力に負けて、自らの手で義経を自害に追い込む。 ところが、結局、4代目は頼朝の攻撃により、滅亡するのである。かくて三国時代は源氏が平定し、次の展開に移って行く。よく事情を知らないで、そういうのは申し訳ないけれど、この4代目の行動がかっこ悪い。 頼朝の攻撃に対して一方的受けに回らずに、義経とともに堂々と頼朝と戦ったらよかったのに。どうせ滅亡するならそちらの方がカッコいい。 4代目ともなると渡来人戦闘DNAがすり減ったのか?今回の旅では訪れなかったが、奥州藤原氏、3代目、4代目の館である、無量光院はまさに中央百済系の中心藤原道長、頼通の作った宇治の平等院をそっくりまねたものであった。 奥州藤原家が、百済系中央を追われたことに大きなシコリを代々ひきずっていることは、奥州藤原家が本来は百済系であり、そこに戻りたかったのであろう。結局、4代目は源氏、新羅系同士の争いに命を賭けられなかったのかもしれない。4代目に渡来人戦闘DNAが残っていたなら、まずは義経を利用して頼朝を討って、つぎに義経を討って、中央百済系に返り咲くことを考えたに違いない。 義経をかくまったときから、全体像は読めたはずなのに。 無量光院に自ら火を放って、死んでいった4代目の心中はいかなるものであったか。
(無量光院が残っていれば、平泉はもっと華やかになったのに)(訂正:後でわかりました。4代目は無量光院に火を放っていないようです。平泉を逃げだすときに平泉館などの特定の場所に火を放ったとあります。それでも平泉はほとんど燃えたようです。しかし無量光院は残ったらしい。)



当方の旅はいつも帰ってから、ブログのためにバックグラウンドを勉強するというスタイルになります。行く前はほとんどバックグラウンドを知らない。この写真は単に、お寺の屋根の正面の流れと、サイドの流れが交わる地点の処理の仕方が今まで見たことがないやり方だったので、興味をひいて撮影したのです。 このような旅は先入観無しで物を見るからいい点もあれば、なんにもバックグラウンドをしらないから、なんだ、つまらないといって通り過ぎてしまって、あとで後悔することも少なくありません。



こう見た方がよくわかるかもしれません。中央が平面的にベロンと流れ、サイドがあわててつじつまを合わせるという感じがしないでもない。後で出てくる中尊寺の弁慶堂も似たような屋根の処理があり、もともとは同じ人が作ったのではないかと思うのです。この本堂は平安時代の様式で平成元年に再建されたとあり、弁慶堂は文政9年(1826)の再建とあり、両者の関係はどこにも書いてありません。こんな具合に、当方はただ感性だけで旅をするのです。

話がとっても長くなってしまいました。 毛越寺の説明だけ書いて、今日はおしまいにします。奥州藤原氏、二代基衝、三代目秀衝が造築した。当時の伽藍は中尊寺をしのぐものであった。いくつもある御堂はみな焼失し、其の跡と庭園が残っているだけである。世界文化遺産に登録され、平安時代の浄土庭園が見どころである。当方には、正月20日に常行堂で二十日夜祭として行なわれる<毛越寺の延年>という平安の舞いがなんとも魅力的に思われます。一ノ関、新幹線駅のビデオで見たのですが。色々な時に、いろいろなところで公演が行われるようです。一度は見てみたい。


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