言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

呉紀行

2007年09月13日 | Weblog
 「呉」という土地は旅の候補地に浮かんではきても、長い旅の途次にあっては飛び地のように離れた位置にあり、気にはしつつも常に海上のあの辺りの島々付近に在るのだろうと遠望するだけであった。
 広島市から岩国市にかけて海岸を通る時も、見えもしない海上自衛隊の艦船を想像し、訓練中の殆ど白い服装の隊員が群がっている漠然としたものでしかなかった。
 それが、今夏二度の大阪湾上の護衛艦・練習艦に身を置いてみると、嘗て呉鎮守府と呼ばれ、多くの帝国海軍の主要艦船を擁していた土地は是非とも見ておくべきという強迫観念に取り憑かれてしまったように自分を追い込んで仕舞われている自分の気持ちを宥めるべく、旅の目的地と選んでいたのだった。

 呉という地は、後に触れる事になる「音戸ノ瀬戸」の例を引くまでもなく、日本の古代から中世期を経て現在に至るまで日本の交通の要の一つでもあり続けた所である。
 が、鎮守府という語の重みが示すように、本格的なありようを発揮するに至った最初の歴史は、明治19年(1886)の事である。
 この年の5月、広島湾全体の東端に吸い込まれるような形状が、軍事的な意味合いに於いて成る程というよりも、此処しかないような適地として選定されてきた既成の上に「安芸国安芸郡呉港」と正式に定められた事を以て始まったのであった。
 
 話は叉余談にと逸れる事になるのだが、安芸の国の中に於ける「安芸郡」である。国名を郡名とするのはそれなりに特記されるべき事なのである。
 旧国名の中でも名前を負う土地というのはそれなりに重い。
 六国史『三代実録』貞観4年(862)7月の條”安芸國安芸郡、始置主政一員”が初見である。
 この事からすれば、上代にはさしたる重要性は認められないが、この頃には船舶の航行上の都合からして大きな位置を占め始めていたと推察される。
 郡内には安芸郷も存在していた。古代以来「府中」でもあったことからすれば、律令制以前から主たる地ではあるのだろう。弥生時代になってからの遺跡も多く、律令制下官道の整備に伴い内海航路との接点の地という用地の意味を益々確かめていった経過が語られるのだが又の機会に置いておこう。
 
 今回の旅する切っ掛けは述べたが、目的としては更にもう一つ加えられる事があった。それは、潜水艦「いそしお」が神戸の川崎造船で建造されつつあった約3年という期間に、初代艦長として艤装監督の任にもあったY2佐と会う事である。
 艦が完成し、送別の宴の場として京都東の鴨川や高瀬川を飲み下った時以来なのである。
 しかしながら、いつもの悪癖とでもいうべき突然の思いつきに似た旅立ちでもあった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿